5話
胃に入った、空気が胃に入った!
強烈な吐き気を催して、たまらず息を吐く。
と、同時に内容物までコンニチハ。
オエェー↑
美少女にあるまじき大惨事だった。ただ、これが普通の嘔吐だったら、ちょっと女子力が死ぬくらいで済んだのだ。こみあげてきたのは酸っぱいものではなかった。
鼻にドシュッとくる刺激臭。ツン、ではない。ドシュッ、だ。鼻粘膜を殺しにかかってきているとしか思えないその臭いに意識が飛びかけた。酸っぱいというより苦く、苦いというより痛い味。理科室にある薬品全部混ぜてみましたって感じのケミカル臭を放出するその半固体状の物体は黒かった。見た目はイカスミパスタだ。そして、そのパスタの部分が微妙にうごめいている気がする。とても美少女の口からあふれ出た存在とは思えなかった。
あまりの臭さに口を閉じることができず、息をすることもできず、尻もちをつくように後ろに倒れ込んだ。喉が熱い、痛い。目も痛い。涙が止まらない。完全にバイオテロだった。
その惑星から来た物体イカスミパスタ君は、運悪くファーヴニルの体にかかってしまっていた。
『グオッ!? な、なんだこの臭いは……え? うわああああああっ!?』
その悪臭ガスは竜の眠りを妨げるほどだったらしい。腕の一部に付着した悪臭の発生源を見つけてとても驚いている。
今さらだが、鼓膜が破れていてもファーヴニルの言葉を認識することができた。どうやらこれは音として聞き取っているわけではなく、テレパシーのようなものが脳に直接届けられているのではないだろうか。
かように大して重要でもない思考をする程度には現実逃避をしていた。まさに今の俺は、イタチの最後っ屁とばかりに臭い汁を噴き出したカメムシも同然。ファーヴニルの怒りは有頂天に達していることだろう。
終わった……もはや俺にできるのは、臭いカメムシを潰すことをためらって野に逃がしてはくれないかと慈悲を乞うことのみ。
『我のっ黄金の鱗があああっ!? くそおっ、くそおおおっ!』
しかし、ファーヴニルはあまりに錯乱していた。よく見ると、吐瀉物がかかった部分から蒸気のような煙が出ている。もしかして溶けているのか? 竜の鱗がそんなに簡単に溶けるものだろうか。いや、逆に考えてあのイカスミパスタ君がすごいから竜の鱗が溶けたのだ。
きっとこれもヨルムンガンドの力に違いない。これこそドラゴンボイスに続く新たなる竜の御技、その名もドラゴン……ドラゴン……えっと、ドラゴンゲロ!
ドラゴンゲロは風呂場のタイル目にはびこるしつこい黒カビのようにファーヴニルの鱗を侵食していく。ファーヴニルは湖の底に残った泥水を必死に手ですくって患部にかけ、洗い流そうとするが全く落ちる様子がない。そのあまりに竜の威厳からかけ離れた姿を見ていると、うん、なんかごめんね。
『おのれヨルムンガンドォッ! またしても我が覇道を阻むか……! この程度の毒、万全の魔力さえあればどうとでもできるというのに! 世界門を開く魔法に力を使いすぎた……その隙を突いてくるとはな!』
えぇ……それ俺のせいじゃないよ……
ファーヴニルはこちらを射殺せそうな視線を向けて睨むと、たたんでいた背中の翼を広げた。金屏風を背後に広げたかのような異様は、その巨体と相まって抗いようのない威圧感を醸し出す。
『少しばかり貴様の力を見誤っていたようだ。だが、それは予定上の誤差に過ぎん! “人化同一の呪い”は完成した! 次こそは貴様を確実に葬ってやろう……覚えておくがいい!』
そう言い残すや否や、ファーヴニルは宙を舞った。翼のはばたきで発生した風に飛ばされそうになるのを辛うじて踏ん張りとどまる。強風に煽られて乱れた髪の毛を払ったときには、既にファーヴニルは上空遥か高くへと飛び立った後だった。
ゴマ粒のように小さくなった竜の影を、呆然と口を開けたまま(臭くて閉じられない)見送る。ついにその影も視認できなくなって、ようやく自分は助かったのだと実感できた。それと同時に膨大な疲労感が押し寄せてくる。ずるずると腰を抜かすようにその場にへたりこんだ。
一歩も動けないくらい衰弱している。張りつめた緊張の糸は切れ、このまま泥のように眠りにつきたかったが、どうしても横になることができなかった。またあの竜がこの場に舞い戻ってくるのではないかという恐怖に、素直に体を休めることができない。かと言って、どこか離れたところに避難する気力もない。体育座りの体勢で、空を見上げ続けた。
ひとまず危機は去ったのだろう。そう思いたい。しかし、これからどうすればいいのか、さっぱり見当もつかなかった。
元の世界に戻ることはできないのだろうか。できることならば帰りたい。そりゃ、この手の異世界転生系小説を読みあさっていた身としては自分が体験しているこの現実に憧れのようなものを感じていないわけではなかった。
だがそれは所詮、安全なところでフィクションとして楽しむ物語だったからこそ持ちえた感情だったのだと気づく。竜の力を手に入れるなんてチートを得たところで死の危険がなくなるわけではない。恐怖は憧れを容易く塗りつぶした。
では、帰る方法があるのかと言えばそれも望み薄だった。向こうの世界で、俺は確かに殺されたのだ。魂だけ元に戻ったところで意味はあるのだろうか。もし無事に帰ることができるものと仮定したところで、当然のことながら帰り方がわからない。今のところ異世界転移についての情報を持っていると判明している存在は、俺をこちらの世界に呼び出たファーヴニルだけである。あの竜にもう一度会って直談判せよというのか。冗談ではない。
ファーヴニルの口ぶりから察するに、また俺のことを殺しにくる可能性は高い。それも今度は魔力とやらを回復して万全の態勢を整えた状態での戦闘になるだろう。今回のように行き当たりばったりの戦法が次も通じると楽観はできない。命を狙われているという事実は俺の心に大きくのしかかった。
竜の力を宿したこの少女の体で、生きていかなければならないのだ。もはや目をそむけることはできなかった。
不安を抱えて、頭を抱える。
やがて日が傾き始め、光に赤みが差してきた頃、俺は崩れ落ちるように意識を手放した。