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29話

 

 「え……?」

 

 一瞬、何をされたのか理解できなかった。床に転がるスープ皿を呆然と見つめる。

 

 「お、おれのスープが……」

 

 「あははっ! なにその顔! いいわ、あなた面白いわね。しばらく私のオモチャとして遊んであげる」

 

 あまりのショックの大きさに椅子から崩れ落ちる。その姿が面白かったのか、ハーティは俺を指さして笑っている。

 

 「おれのスープ……」

 

 楽しみだった。あまり具も入ってなくて味も薄そうなスープだったけど、手作りの温もりがあった。パンをそれに浸して食べたかった。あの噛みごたえ抜群のパンがどんな食感の変化をみせてくれるのか、楽しみだったのに。

 

 「おれの……」

 

 森の中で食べた果物を思い出す。あれはまずかった。あのジャリジャリと砂を噛んでいるような食感を思い出す。それでも食べずにいられなかった。もし、あのときこのスープが俺の前にあったらどんなに救われたことだろうか。

 

 それをこの女は、俺の前でゴミのように捨てやがった。

 

 「おれのスープがよオオオオオオオオォォォォ!!」

 

 ドゴン!

 

 俺の腹から太鼓を叩いたような音が鳴った。振動がビリビリと大気を伝わり、テーブルの上の食器をガタつかせる。コップの中の水に波紋が広がる。

 

 ドゴン! ドゴン!

 

 のっそりと、椅子の背をつかんで起き上がる。腹の音に合わせてゆっくりと、蛇がうねるように立ちあがる。

 

 立ちあがって周囲を見渡すと、何人もの娼婦たちが腰を抜かして転んでいた。化け物でも見るような表情で俺を見ている。パクパクと口を金魚のように動かしているが声が出ていない。

 

 無意識に威圧していたらしい。少し怒気を緩める。すると、威圧から解放された娼婦たちは我先にと出口へ殺到した。中には腰を抜かしたまま、這ってでも逃げようとしている女性もいる。

 

 その逃げようとしている娼婦たちの中にハーティもいた。俺は殺気を込めて睨みつける。

 

 「ひぃあ、あっ!」

 

 それだけハーティは足をもつれさせて転倒した。さてこの女、どうしてくれようか。

 

 「こっここんなことしてただで済むと思っているのぉっ!? 私はこの娼館の看板娼婦なのよお!? 誰かっ! インケッ! インケェェェェ!」

 

 ハーティの叫びに応えたのかどうか知らないが、食堂の異常を知って駆け付けたのであろう。あの八の字眉がやってくる。どうもこの館の用心棒的ポジションであるらしい。

 

 「いったいこれは何の騒ぎだ! 躾けのなっていない娼婦は俺が…」

 

 ピシィーッと闘気を込めた鞭を叩きつけながら登場したインケに、ギロリと一睨み、殺気をくれてやる。すると、八の字眉の角度を極めたインケは何も言わずにその場で踵を返し、脱兎のごとく逃げ出した。

 

 「何をしてるの!? 待ちなさいインケ!」

 

 とうとう食堂には俺とハーティ以外、誰もいなくなった。ハーティはカタカタと歯を鳴らしながら俺の方をうかがってくる。

 

 「わかった……謝るから……ごめんなさい! もうあなたのことを馬鹿にしたりしない!」

 

 「んなことはどうでもいいんだ」

 

 吐く息に焦げ臭い瘴気が混ざる。それを鼻から噴き出して、俺は床に散らばったスープの残骸を指さす。

 

 「お前は食べ物を粗末にした」

 

 「え……そ、そんなことを怒ってるの……?」

 

 ドゴン!

 

 威嚇するように発揮した腹太鼓の音に、ハーティは縮み上がる。

 

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃ! もう二度とこんなことはしません! すぐに片づけます!」

 

 「片づける? 違うな、まだ“食べられる”」

 

 俺はスープを吸ってふやけたパンの一部を床から拾い、口に運んだ。うん、ちょっと土埃がついているが大丈夫。うまい。

 

 「さあお前も食べろ。犬のように這いつくばって、な」

 

 顔を真っ青にしたハーティは体を震わせながらスープの残骸の前まで来た。そして四つん這いになって跪く。床に顔を近づける。しかし、そこから動かない。食べようとしない。

 

 「……なんで私が……何もしてないでしょ……こんなこと……娼館の、稼ぎ頭なのよ……!」

 

 俺は綺麗にセットされたハーティの髪をわしづかみにして、その顔面を勢いよく床に叩きつけた。

 

 「いぎいいいいいい!?」

 

 「なにぐだぐだやってんだこのクソアマがあああああ! さっさと食うんだよお! ええ!? 稼ぎ頭だァ!? 総理大臣だァ!? だからどうしたあ! てめぇが台無しにしたこの料理に謝りながらァ……床板に染み込んだスープの一滴までじゅるじゅるチ○ポしゃぶるみてぇに丁寧に舐め取るんだよおおおああああああアアアアアァ!」 

 

 「いだいいだいいだいだああ! はながああっ! はだがああ!」

 

 「ちょうどいいッ! こいつァ、お前のそのクソ高慢ちきな長っ鼻を削り取るのにちょうどいいッ! ずりずりずりずり大根おろしみたいに削り取ってよぉ! 眼も鼻も口もツルツッルののっぺらぼうになるまで綺麗にエステしてやらああああごらあああああ!!」

 

 「いい加減におしっ!」

 

 せっかく興が乗り始めてきたというのに水を差す声がかかった。誰もいなくなったはずの食堂に人が入ってくる。それはマダムだった。

 

 俺はマダムを軽く威圧する。彼女は一旦、足を止めたが、こちらに歩み寄るのを止めなかった。マダムもいつも通りの涼しい表情とはいかない。緊張に体が震え、顔を蒼白にしている。だが、歩みを止めなかった。逃げ出さなかった。

 

 「もう気が済んだだろう。そのくらいにしておきな。さもないと」

 

 さもないと、何をすると言うのか。たかが娼館の主人程度の人間に、竜の力を宿した俺を止めることができるとでも?

 

 「さもないと晩飯抜きだ」

 

 しゅーん↓↓↓

 

 俺の怒気が急速に終息していった。

 


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