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23話

 

 ターバン男の丸まった背中を見送る。俺はなぜか、行列で出会ったおじさんの言葉を思い出す。

 

 『もし、この少女が大人になったとき、同じように困っている人を見つけたとき、きっと彼女は助けようとするでしょう。そして、助けられた人はまた別の人を助ける。そうやって、優しさは受け継がれていくものではないでしょうか』

 

 優しさは人から人へと受け渡されていくものだ。そうして巡り巡って自分に帰ってくる。情けは人のためならず、だ。

 

 ターバンはもしかして、本当にただのおせっかいから俺に飯をおごろうとしてくれていたのではないか。俺が串焼きにありつけなかったタイミングでこんな話を持ちかけてきたものだから怪しいと邪推していたが、それだって見方を変えればお腹を空かせた俺を見かねて声をかけてくれたのだとも言える。

 

 「ちょっと……待ってーな!」

 

 気がつけば、俺はターバンを呼びとめていた。

 

 「な、なんや? どうしたんや急に」

 

 俺は先入観からターバンのことを怪しいと決めつけていた。その仕打ちの辛さは、俺がさっき身をもって体験したはずだ。アンナママから超絶不審者扱いされたじゃないか。俺はただ、アンナちゃんのことを思って行動しようとしただけ。ちょっとコミュニケーションの行き違いがあっただけなのだ。

 

 にも関わらず、俺は自分が受けた仕打ちをこのターバンに返そうとしている。勝手に不審者のレッテルを張り、その好意をむげにしようとしていた。間違っていたのは俺だった。

 

 「すみません、あなたのことを誤解していました。ぜひ、一緒に食事をしましょう!」

 

 「っ! そうか! わかってくれたか! ワシは嬉しい、嬉しいでぇ!」

 

 俺とターバンはガッシリと熱い抱擁を交わす。その場でくるくる回りながら、互いの肩をたたき合う。

 

 「よっしゃ! そうと決まれば大盤振る舞いや! 一皿二皿なんてケチなことは言わん! なんぼでも好きなだけ食わしたる!」

 

 「なんやて!? 兄貴ぃ! ターバン兄貴と呼ばせてください!」

 

 「かまへんかまへぇん」

 

 意気投合した俺たちは、意気揚々と近くで営業している飲食店へ入っていった。

 

 * * *

 

 俺は深く息を吸い込む。取り込まれた大気に含まれる雑多な臭い。他の客が食べている料理の香り、酒の匂い、タバコの煙。それらに惑わされてはいけない。

 

 無だ。大気から無を取り込む。それは口から入り、喉を通り、肺へと至る。しかし、そこで終わりではない。空気は肺までしかたどり着けない。だが、無は違う。空は無を含むが、無は空ではない。

 

 俺の体に取り込まれた無は、静かに肺を通り過ぎ、横隔膜を越えて腹に下り、丹田へと流れ着く。力の流れをそこに感じる。これではまだ、無の境地に至れない。まだ力の流れを感じるようでは、それは真の無ではない。一切の雑念を捨てるのだ。

 

 「な、なにをしてるんや?」

 

 「わかりませんか?」

 

 料理の注文は既に終わっている。兄貴は何でも好きなだけ食べていいと言ったが、だからと言ってメニューに載っている料理を端から端まで全部頼むなんて無粋なことはできない。それは料理に対する冒涜。俺は銀河に漂う無限の星々の中から一つの光を選び出すように、一つの料理を選び出した。

 

 今はただ、その宿命に身を任せ、精神統一を行っている。全身全霊をもって食に臨むために、全身のあらゆる細胞を、食物を受け入れる状態へと移行させているのだ。

 

 「わからへん。おっちゃんには理解できへん」

 

 それは静かなる闘いだった。星が生まれ、塵となって死ぬ。まさに俺の中で、この料理を待つ時間は星の一生に匹敵した。そしてついに時は満ちる。

 

 「トマトスープ、おまち!」

 

 カウンターの向こうから店主が皿を差し出してくる。コトリと、俺の前に木製の皿が置かれた。

 

 出来たてのスープから立ち上がる湯気。とろみを帯びた赤いスープはまるで溶岩を思わせる。角切りにされたジャガイモやニンジン、ブロッコリー等が浮かんでいる。そして厚切りにされた肉。野菜と肉のうまみがスープに溶け込み、一体となっている。まさに、地底から噴き出さんとする溶岩溜まりのようなエネルギーを感じる。

 

 「いただきます」

 

 俺は万感の思いを込めて合掌する。神に、食物に、この料理に携わった全ての人に感謝する。おごそかに木のスプーンを手に取った。熱くたぎる溶岩の中へと匙を進める。そして一すくい。口に運ぶ前に今一度、その香りを楽しむ。食欲をそそるスパイスのささやきに酔いしれる。

 

 そしてついに、一匙のスープが、俺の口へと運ばれる。

 

 「……んぐっ、んぐっ、んぐ……」

 

 舌の上でスープが転がる。味蕾の一つ一つに至るまで、激烈な化学反応が駆け巡り、積乱雲の中で荒れ狂う雷のような電気信号が脳へと到達する。嵐だった。俺の口の中に今、嵐が吹き荒れている。

 

 「……ごくり……」

 

 嵐を嚥下する。暴風雨が喉越しとなって食道を通過、甚大な災害が胃の中でもその猛威を振るうかに思われた。

 

 しかし、違った。全てが消失する。無だ。無となったのだ。俺の丹田に取り込まれた無と嵐は結びつき、そして消え去った。

 

 「……おお……ぉ……」

 

 俺はスプーンを持ったまま、両手を広げて天を仰ぐ。嵐は去った。そして雨は止み、雲の切れ間から光が差し込む。神聖な光が、俺の頭上から降り注ぐ。

 

 降臨なされたのだ。神が。神がッ!

 

 「アッヘエエエェェェェェェエェェェェアァェェェェエエェェェェェ!!」

 

 そして俺は昇天した。白目を剥き、目から、鼻から、口から、毛穴から、股から、全身から体液を噴出し、性的な絶頂を迎えた。体中がビクビクと痙攣し、椅子からずり落ちそうになる。

 

 「マスターこのスープ、毒でも入ってんのとちゃう?」

 

 「いや……ただのトマトスープ……」

 

 俺はふらつく体を何とか立て直し、皿を手に取る。もはやスプーンで一回一回すくいながら食べるなんて拷問はできるわけがなかった。顔面を皿に突っ込む。犬のように汁をすする。トマト、ジャガイモ、その他温野菜、肉の命の輝きが、俺の体の中へと吸い込まれていく。

 

 「ジュズルルルッ、ジュバッ、ズゾゾゾ……アッヘェアァァァ!!」

 


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