1話 始まり
「あー楽しいんだ だからそんなに笑ってるんだ!」
その子はこれを見ながら俺を交互にとらえる。
「そんなに見るなよ……こっちを」
俺はその視線が眩しくてつい目をそらす。気の向くままに。どこかへ行ってしまいそうで。
「お兄ちゃんは彼女とかいないの?」
唐突な質問。でもこいつももうそんな年か。俺より何だか大人びてしまって……。
「あー! 分かった。私のこと好きなんだ!」
「なんでだよ……っていうかいつの話なんだよ」
「私が恥ずかしながら兄ちゃんに告白したもん! そん時兄ちゃんも恥ずかしそうに、うんって」
「言ってない」
「姉ちゃんにも聞いてみよーきっとそうだと思うけどなー」
夏の暑い日差しの中で笑う。不器用な毎日でもこれが楽しい。目の前のこいつはつまらないことで笑う。
「あー! 兄ちゃん笑ってる! 気持ち悪ーい!」
帽子が飛んでいきそうな風が吹いてそいつも頭を押さえる。乱れた髪を俺は呆然としながらも、ただただ目が止まる。
「髪の毛伸びたな」
「可愛すぎて死にそう? それは私か」
「なんでだよ」
「おにいが女も作らないし……抱きしめてあげたい!」
「ありがと」
今のこいつは本当にやばい。死にそう。
「でもしてあげないよ? おにい変なこと考えてそう……」
こいつは何でもお見通し。俺にとっては名探偵。
「かーわいい」
本当にトビキリの笑顔でそう言われるとたまったもんじゃない。昔お兄ちゃんだったことを利用して何とかしてしまいたい。この笑顔を。
「当たってて笑える」
「もうお兄ちゃんが気持ち悪すぎて心にくるわ~」
「来てないだろ」
そんな三年の夏。俺がもうじきこいつとここの景色とお別れする間際の日。飛行機雲は何処までも続いている様で、実はそんなことはなかった。
「ここがお兄ちゃんの心臓……」
幼くなくなったそいつはいっちょ前に意味深なことを言いつつ俺の胸に手を当てる。
「勿論お兄ちゃんが同じことしてきたら即豚箱行きだけど」
「……おい」
「ごめん……息しないで」
それくらい近くにそいつの顔がある。近すぎで何も出来なくて何だか怖い。
「お兄ちゃんが息してる……そのための体」
「……」
「何だか男らしくなったね」
出てきたのはありふれた言葉。
「こんなに近づかなくても分かってくれ」
「分かんなーい♪」
そう言って手を握ってくる。華奢な手は少し汗ばんでいる。
「さっきはそう言ったけどおにいもやってみる?」
「バカいえ」
「いや、ホントに」
向き直るそいつ。
「して欲しい、って言うか……って言うか私!」
「もう言ってるよ……って言うか自分の中で自己完結してくれ」
「そうでした……ごめんなさい」
「……」
「何……私の背中なんか見て」
ひらひらのワンピースなんか着てるから背中のラインがよく見える。
「お前の背中なんか見てごめん」
「あっひどーい」
「痩せたか? いや痩せたな」
「うわっ」
そいつを引き寄せて確かめる。確かに本当に痩せている。
「どーでも良いじゃん、早く行こ」
潰れている虫を背に俺たちは歩く。夏の空は俺たちに紫外線を遠慮なく当てている。