それぞれの思いを乗せて
そこは白い世界。
何もなく、何もいない。
どこかで見たような世界で、見たことがないような世界。
俺は生きているようだった。
「おかしいな。確かに死んだはずだけど」
「あらあら、確かに死んでるわよ」
「うお!?」
声が背後から聞こえて、俺はその場から飛び退いた。
気配がまったくなかった。
振り向くと、それは女性だとわかった。
なんか見たことがある。
「あれ、確か神様? 裏異世界の女神様?」
「ええ、そうよ。やっぱり見てたのね。私達のこと」
女神はニコニコしながら、俺を見ていた。
彼女は確か死んだはず。
ということはここはあの世なのか。
「俺は死んだのか?」
「ええ、そうね。死んだ、というか、死にかけというか」
俺は周囲を見渡す。
この世界は白い。無垢だ。あのおぞましい感覚がない。
「でも冥府の門はないな。あの世に入った記憶もないし」
「まるで冥府の一歩手前まで行ったことがある、みたいな口ぶりね」
「冥府の門の目の前に行ったことはある。鎖で捕われて、死そのものからは逃れたけど」
あの時はリーシュが助けてくれたんだったか。
女神は頬を引くつかせていた。
「ど、どんな人間よ。神様でさえ、そんな経験ないわよ」
「そうか? 別におかしくないだろ。神も人間も大差はないし」
「……あちら側の神を殺したっていうのは本当だったのね」
「どういうことだ? 誰かが聞いた?」
「あなたのよく知っている子。こっち側で会ってね。助言してもらったの」
「……リーシュか」
女神はこくりと頷いた。
女神と対等に話せるのであれば、神の誰かと思ったが、やはりあいつか。
聖神を倒し、死んだはずだ。
でも死は存在が完全に消えるということじゃない。
別の世界に行くだけのことだと思う。
それがどんな世界なのかは、まだ俺は知らない。
「こっち側が滅びそうになっていた時、どうしようもなくなって、あなたを呼んだの。
神を殺したあなたならば、竜神も倒せると思ってのことだった」
「あんたが俺を呼んだのか……そのせいで俺がどんな目にあったか」
「ごめんなさい、わかってるわ。あなたは関係なかった。
そして私がどれほど身勝手なことをしたのかも理解してる。
けれど、それしか手はなかった。神は死ねば、もう現世に手を出せない。
でも、あなたはただの人間じゃなく、神の領域に踏み込んでいた。
だから、少しだけ干渉ができたの。あなたしか頼る存在がいなかったの」
女神はぺこりと頭を下げる。
腹は立つが、憤れない。
俺がいなければ、裏異世界の人達は死んでいたはずだ。
それを知らずにのうのうと暮らすこともできた。
でも知ってしまった今は、知ってよかったという思いもある。
だから複雑だった。
素直に怒れなかった。
「あなたは優しい人ね、私を罵倒してもいいのに」
「例え、別人だとしても、仲間は仲間だ。それに……出会ってしまったからにはしょうがない。
きっかけはあんたでも、救うと決めたのは俺だしな」
俺は嘆息し、視線を逸らした。
その言葉は嘘じゃない。
完全に納得したわけじゃないけど。
「ありがとう。クサカベ。あなたにはどれだけ感謝してもし尽せない。
だから、少しでもあなたの願いを叶えたいの。
今の私は、神としての力はあまりない。
けれど多くの助力を得て、少しは権限が与えられてるの。
だから、あなたに選んでほしい。あなたは表異世界と裏異世界、どちらに行きたい?」
「望む世界に行けるってことか?」
「ええ。けれど、一度だけ。
あなたは度重なる半ば強引な転移で、身体が拒絶反応を起こしかけている。
簡単に転移できる人なんていない。そして転移させることもまたできない。
あなたはあなたの特殊な能力のおかげで、その耐性が強いだけ。
あなたの力で転移させた仲間達はあなたがその負担を背負っていたと考えていいでしょう。
けれど、それもあと一回、転移すればもうできないでしょう。
それにこの転移には何かしらの影響が及ぼされる可能性があるわ」
「それはどういう?」
「わからない。ただ、あなたの想像している状況ではないかもしれないということ。
この世界と現世では差異が多いから。
でも間違いなく、あなたの知っている世界に戻れると思うわ」
俺はずっと表異世界に帰りたいと思っていた。
でも裏異世界にも仲間ができた。
それに、みんなとまともに別れの言葉を言えていない。
その上、これから復興させるために、かなり大変なことは間違いない。
そして、莉依ちゃんときちんと話せてもいない。
表異世界のみんなと会いたいという思いも強い。
俺はハイアス和国の王だ。
王がいなくなれば国内は混乱するだろうし、仲のいい人達とも会いたい。
特に莉依ちゃんとは。
彼女と俺は、想い合っている。
また会いたい。そして想いを伝えたい。
ずっとそう思ってきた。
けれどこっちの世界のすべてを捨て去って帰ることに抵抗がないかと言えば嘘になる。
最後の顔が浮かぶ。
みんな泣きながら俺を見ていた。
このまま去れば、きっとみんなの心にしこりを残すだろう。
それは綺麗な去り際でもあるだろうが、莉依ちゃんの気持ちを考えると。
彼女は俺に思いを打ち明けようとしてくれた。
その後、永遠の別れが訪れれば、彼女の未来はどうなるのだろうか。
決定ではない。想像だ。
でも、幸福を得られるのだろうかと思う。
自信過剰かもしれない。
でもそうじゃないかもしれない。
「残念だけど、ここに留まれる時間にも制限があるの。
すぐに決めなくてもいいけれど……迷っている時間はあまり」
「…………決めたよ」
「……ではどちらへ?」
女神は真剣な表情で言った。
選択するしかない。
俺は――
「――ええ。ではあなたの望みどおりに」
気がかりはある。
決断しても、まだ引っかかる部分もある。
でも、俺の決意は変わらない。
女神が手をかざすと、俺の身体は光に包まれた。
徐々に身体が消えていく。
意識が遠のき始める中で、女神は嬉しそうに笑いながら唇を動かした。
「あなたのおかげで、世界も……ミスカも救われたわ。
あの子もきっと、これから神として少しずつ前に進めると思う。
本当にありがとう。クサカベ」
女神の顔ではなく、母のような笑顔だった。
色々と大変な思いはしたけれど、その顔を見るとなぜか、まあいいかという気分になった。
俺は目を閉じ、身を委ねる。
これですべては終わったのだという実感と共に。
●□●□
レイラシャ首都ラスク、都市前。
開けた場所に、トッテルミシュアの国民達とマルティスが佇む。
正面にはレイラシャの国民とテオバルト。
互いに視線を合わせ、その目には、確かに信頼と親近感が抱かれていた。
「世話になった、レイラシャの王」
「なあに、お互い様というものだ。マルティス国王。
しかし、もう少し、滞在してもよいものを」
「心遣い感謝する。だが竜族のいなくなった今、急ぎ自国へ戻って復興作業を始めたい」
「……そうか。こちらも同じようなものだが、もし何か助力できることがあれば遠慮なく言うといい。
波乱の時代を生き抜いた、我らは同志なのだからな」
「そうさせてもらう。そちらも、何かあれば文を送ってくれ。いつでも助ける」
「ありがたいことだ。では」
「ああ、また」
マルティスとテオバルトは硬く握手をし、別れた。
マルティスは十万ほどの国民達と共に、再び自国へ帰っていく。
その姿をテオバルト陛下は長らく見つめていたが、やがて踵を返し、ラスクの正門を通った。
「我が国も復興作業を続けるぞ!」
ラスク周辺の土地は荒れ、森は焼かれ、ラスク自体も攻撃を受けている。
クサカベ達が竜神城へ向かった後、竜族の侵攻が激しくなった。
そのため被害は甚大で、多くの人が死んだ。
だが生きている。これもクサカベが竜神を倒したおかげだ。
激しい戦いの中、竜族達は突如として力を失い、姿を変え、死に絶え、土に帰った。
あまりに非現実な状況に、誰もが現実を受け入れられなかった。
だが徐々に、すべては終わったことを実感し、そして帰還した潜入部隊の報告を聞き、それは事実だと理解した。
テオバルトは空を仰ぐ。
風のように現れ、風のように去ってしまった。
だが、確かにそこにいた。
彼の存在をテオバルトは忘れはしない。
世界を救った英雄の顔と名前を、未来永劫語り継ぐ。
それがテオバルトにできる唯一のことだった。
王は歩みを止めず、感傷に浸らない。
それが王としての役割だからだ。
平和になった世界に、もしもクサカベがいれば、友になれただろうかと考える。
しかしそれも、今となっては無意味。
世界が救われた後、酒を飲みながら語りつくす未来もあったかもしれない。
そんな現実はもうないのだ。
胸を痛めながらも、そんな様子は見せない。
テオバルトは進む。
レイラシャは過去の姿を取り戻すだろう。
しかしそれはまだ先の話。
●□●□
ニースはディーネと共に、ネコネ族の集落へ帰る途中だった。
同胞達と共に、再び集落へ戻る決断をしたのは、なぜだろうか。
明確に、ニースは自分の感情を理解してなかった。
共に戦い、死線を乗り越えた人間の仲間達と別れ、再び、森へ隠れ住む。
そんな未来を選んだのだ。
「よかったんですかにゃ……?」
ディーネは悲しげに目を伏せた。
その様子を見て、ニースは自分の判断は間違っていたのかと思う。
だが、どうしても思うのだ。
亜人は亜人。人間は人間。
目的を同じとし、共に生きていけば、共存の道もあるだろう。
だがそれではいけない気がした。
それでは、亜人は人間達にすり寄っているだけだ。
この戦いで気づいた。
亜人は人間に縋っている。
あらゆる技術で負け、劣等感を抱き、そして常に憎んでいる。
妬み嫉みなんて情けない感情を、相手が悪いと言い訳を並べ立てて正当化している。
実際、人間は亜人を虐げ、竜族が襲来するまでは、互いに軋轢があった。
竜族の侵攻で、それはうやむやになったが、それでも人間を信頼はできない。
ネコネ族がその架け橋になろう、なんて考えも浮かんだ。
しかしそれをニースは選ばなかった。
なぜなら、また同じことが起こるとわかっていたからだ。
人間が亜人を蔑んだ理由。
亜人が人間を妬んだ理由。
それを明確にし、自分なりの答えを出して、改善しなければならない。
そうしてやっと亜人は人間と対等になれる。
今の状態で、人間達の拠点に住み、人間達の文化に迎合し、亜人を蔑ろにすることが正しいとは思えなかったのだ。
だからニースは集落へ戻り、ネコネ族として、亜人の国を作ろうと思った。
それは対抗意識ではない。
ただ対等に、そして手を取り合えるような関係を作るためだった。
すでにレイラシャとトッテルミシュアの王との同盟関係は、仮にではあるが結んである。
きっとうまくいく。
平たんではない。苦労もするし、失敗もする。
けれど諦めるつもりはなかった。
だって、クサカベは諦めなかった。
ずっと先頭に立ち、戦い続けていた。
どんなことがあっても、苦しんでも、抗い続け、そして、目的を達成した。
彼はなぜあそこまで強かったのか。
彼はなぜあれほどに歩き続けられたのか。
その理由を聞く機会はなく、また聞こうともしなかった。
あまりに純粋で、あまりに愚直だったから。
触れてはいけない領域だと思ったのかもしれない。
しかし思う。
彼がいないこの場で、空を見上げ、この空を彼は見ているのかと。
それはあり得ない現実だ。
けれど、もしかしたらどこかでそんなことがあるのではないかと。
そう思ってしまう。
「クサカベ。わたしはやり遂げるからな。だから……見ていて欲しいにゃ」
呟くと、思わず笑みがこぼれる。
仮面はもう必要ない。
これからは自分らしく生きよう。
ネコネ族として誇りを持ち、そしてネコネ族らしく生きる。
「よし! おまえら! 帰って魚パーティーだにゃ!」
ネコネ族達はきょとんとしていた。
屈強な戦士として生きた彼等は、厳めしい顔つきをしていたが、それを崩し、そしてのほほんとした顔を見せた。
全員が魚、魚と嬉しそうに叫ぶ。
これが本来の彼等の姿。
その後ろで、バーバが悲しげに空を見上げる。
「儂……影が薄すぎじゃにゃいかにゃじゃ?
まあ、みんな元気になったからいいかにゃじゃ!」
ということで。
バーバもみんなと一緒になって魚コールを始めて、スキップをしながら帰路についた。
ディーネも同じようにしていたが、やはり憂いを残す。
消えていった仲間のことを考え、そして自分達の道へと戻った。
あの強さを忘れないように、記憶に刻み込む。
語ろう。
ずっと。
ネコネ族の中で、ずっと語り継ごう。
一人の英雄の話を。
そのディーネの決意は現実となり、ネコネ族の神話となった。
●□●□
優雅に中庭で紅茶を飲んでいる少女が一人。
椅子に座り、丸テーブルの上には菓子とティーカップ。
彼女以外には誰もおらず、寂寥とした雰囲気が漂っていた。
そんな中、ミスカはただ無言で喉を鳴らした。
彼女の中にある思い。
それは一言では言い表せなかった。
しかしその中で最も強い思いがあった。
それは後悔だった。
自責の念に駆られていたといってもいい。
彼女は自分を責め続けていた。
世界は救われた。
一人の人間の手によって。
神である自分はただ、外で見ていただけ。
何もできなかった。
彼は死んだ。
自分を犠牲にして、この世界を救ったのだ。
彼の世界ではないのに。
この世界に何の繋がりもなかったのに。
竜神を倒せば力は戻った。
けれど、死んだ人間を生き返す力はミスカにはない。
彼女は現世の神であり、現世外の理に手を出せないからだ。
歯噛みしてもなにも始まらない。
ずっとそうやって一人で悩んで、自虐的になって過ごしていた。
そんな自分の愚かさに気づいても、まだ同じことをしている。
今度はクサカベの死を受け、自分の無力さを見せつけられ、そして自嘲気味になっている。
最低だ。
なんて最低な神なんだろうか。
「このままじゃ、いけないわ」
言葉に出したのは、自分できちんと納得したかったからだ。
自分を説得したかったからだ。
今の自分の姿を見て、神様はなんていうだろうか。
きっと何も言わない。
笑顔でいるだけ。
でもきっと心の中では残念がるだろう。
そんな彼女の顔を思い浮かべ、ミスカは立ち上がる。
「神様の、クサカベの死を無駄になんてしない。絶対に」
一人だった。
でもずっと一人だったわけじゃない。
今まで支えてくれた存在がいる。
多くのことを教えてくれた人がいる。
だからもう大丈夫。
これからは一人でもきっと。
「そうね。まずはボロボロになった世界を創り直さないといけないわね!
とりあえず陸地を増やそうかしら。でも、いきなりはダメ。
自然に、ゆっくりと直していかないと」
力を戻した神は、無邪気な顔でそんなことを漏らした。
竜族達に破壊されたものは人だけではない。
やらなければならないことは沢山ある。
けれどやりすぎてはいけない。
人間が自分達で生きられるように、上手く手助けする。
それば神様の仕事なのだから。
●□●□
飛行機の残骸。
そこには無数の死体があったはずだった。
すでに白骨化しており、骨が座席や床に散乱していた。
その一つ一つを丁寧に拾って、土に埋めた。
一塊になっている骨は問題ないが、そこら中に散らばっているとどれが誰の骨なのかわからない。
仕方なく、その場合は一ヶ所に埋めることにした。
莉依と結城は黙々とその作業を続けた。
転移した場所。
すべてが始まった場所だ。
そこには色々な思いが詰まっている。
大半は思い出したくもない辛い思い出だが、しかしすべてではない。
なぜ異世界へ来たのか。
そんな理由はもうどうでもいい。
帰りたいなんて思いもしないし、この辛くて険しい世界で生き抜けたことに幸福感を抱いている。
その上、愛着も湧いていた。
それは莉依も結城も同じだった。
「これで全部、かな?」
「そうですね。終わりみたいです」
二人とも汗だくになり、身体中泥だらけの状態だった。
それでも文句も言わず、ずっと弔い続けた。
転移してから今まで、竜族に邪魔され、遺体を弔うこともできなかったのだ。
それがようやくできるようになり、二人はまず飛行機へ向かうことにした。
竜族が滅亡して三か月後のことだった。
飛行機近くの丘に、彼等の墓は作られた。
森の中に墜落してしまい、まったく周囲が見えず、鬱々としていたため、せめて見晴らしのいい場所に作ろうと結城が提案したのだ。
そこから見える光景は悪くなかった。
遠くにはリーンガムが見える。
完全な廃墟だが、建物の大半はまだ形を保っている。
「これからどうしよっか」
「どうしましょう」
丘の縁に座り、遠くを眺める。
高低差があり、下を見ると、結構な高さがあった。
落ちたら怪我では済まない。
けれど心地は良かった。
丁度いい風が流れ、二人の髪を揺らす。
指針がない。
それがわかっているのに、ずっと二人はどうしようかと話すだけだった。
あまりに大きな存在を失い、途方に暮れていた。
日下部虎次が死んでから、しばらく二人は、特に莉依は無気力になった。
竜族がいなくなり、人々は喜び、しばらくは宴会が催されていた。
莉依や結城、ニースやディーネ、潜入部隊員達は、持てはやされ、感謝を告げられた。
しかし、誰もが日下部のことを考え、心の底からは笑えなかった。
彼がいたから今の世界がある。
彼がいなければ人類は滅亡していたのだ。
その彼がいないのに、どうして喜ぶことができるだろうか。
それから莉依と結城、ニースもディーネも、隊員達も休息を取らず、一心不乱にラスクの復興作業を続けた。
誰もがそんなことはしなくていい、あなた達は休んでいいと言うのに、手を止めることはなかった。
ふとした時に思い出してしまうからだ。
だから疲れて寝てしまう方がよかった。
それをしばらく続けると、少しずつ前へ進む人が増えてくる。
ニースとディーネも次第に目的を持ち、そこへ向かって行ってしまった。
それが当然で、薄情とは思わない。
しかし莉依と結城は、彼女達のようにはできなかった。
だってずっと一緒だったのだ。
最低の出会いで、そして奇跡的な出会いだった。
日下部がいなければ、生きてはいない。
何度救われたかわからない。
彼に与えられたものは無数にあり、返せたものは幾つもない。
それは、日下部という存在が自分達の心の多くを占めていたということ。
そんな彼がいなくなれば、心にぽっかりと穴が空くのは当然だった。
だから。
二人はまだ数ヶ月前から一歩も前に進んでいない。
地上を見下ろす。
リーンガムを見ると、彼のことを思い出す。
振り払っても振り払っても、浮かんでしまう。
そして。
不意に莉依は空を見上げる。
「………………会いたいなぁ」
その一言を漏らしてしまった。
それを皮切りに、莉依は瞳を濡らした。
耐え切れなかったのだ。
そんなちょっとした言葉で、自分のすべてを理解してしまった。
寂しい。
会いたい。
そんな感情を目の当たりにして、莉依は感情を抑えきれなかった。
そして隣の座っていた、結城もまた同じように涙を流した。
「う、ううっ……日下部くん。どうして、日下部くんが。
あんなに辛いを思いをしてた、彼が……ずっと大変だったのに!
どうして、どうして……」
わかっていた。
そんなことは当たり前のことで、疑問を持つまでもなかった。
日下部が死んでしまったということ。
目の前で命を引き取った彼の顔。
今も忘れられず、ずっと引きずっている。
そしてきっと自分が死ぬまで忘れない。
そう、莉依は理解していた。
でも、だからってどうしたらいいのか。
思いを打ち明けて、断られて、逃げてしまった。
あの日が最後だったのに。
自分が傷つくのが怖くて逃げてしまったのだ。
あの時、自分がどうなろうとも、彼の言葉を最後まで聞くべきだったのだ。
想い人がいると言っていた。
それが誰なのか。
どこにいるのか。
その人に、彼のことを伝えれば、きっと今の思いも少しはマシだっただろう。
でももう無理だ。
彼はいない。死んでしまったのだから。
あんなに一緒にいたのに、彼のことをほとんど知らない。
あまりに当たり前にそこにいたから。
それが当たり前だと思ってしまっていた。
彼の為す、すべては奇跡のようなものだったのに、それが普通のことのように思えてしまった。
なんて愚かな考えだったのかと、今では思う。
二人は涙を流し、空を見上げる。
そこにあるのは青い空だけ。
だけど見上げずにはいられなかった。
下を見ては、きっと怒られてしまうから。
だから、少しずつ前を向こう。
「……頑張りましょう。幸せにならないと、怒られちゃうから」
「…………うん、うん。そうだね……日下部くんならそう言うよね」
自分のために泣いている人がいれば、悲しむ。
そんな人だ。
だから、莉依は空を見上げるのだ。
そうして、少しずつ心を強くして。
前へ進もう。
それが彼のためであり、自分のためになるのだから。
けれどきっと、この恋心は消えない。
これから何年経っても、きっと。
それだけは確信していた。
さようなら、日下部さん。
好きでした。
そう心の中で呟き、莉依は涙を拭いた。
二人はリーンガムへ向かった。
新たな居場所を作るために。