逃走劇 1
二週間。同じ生活を続けた。
最初の数日はまだよかった。
みんな体力があったし、徒歩の速度も保てていた。
一週間が過ぎると、かなりの疲労が蓄積しており、全員の動きが緩慢になっていった。
最初に比べると半分程度の速度になっていたと思う。
今はその時よりも、更に遅い。
みんな猫背になって、前を見てもいない。
顔色は悪く、会話もほとんど聞こえない。
俺達も会話があまりなかった。
話すと、周りの人間が明らかにイライラし始めていたからだ。
人の話し声だけでもストレスを感じるようになっている。
食料はほぼ毎日、おなじようなもの。
パン、スープ、隔日で芋が出る程度。
全国民分の食糧だと一ヶ月程度しか持たないと聞いた。
幸か不幸か、丁度、移動期間と一緒だ。
しかし、あくまで節約しての期間らしい。
つまりこれ以上、量が増えることはない。
食べられるだけマシだろう。
ネコネ族の集落では多少、食料はあった。
でも、あくまでネコネ族の結界魔術があったから、狩猟し、食糧を蓄えることができたのだ。
それもかなりの危険を伴っていた。運が良かったと言っていいだろう。
結界魔術の範囲は狭いし、俺達だけ生き残るように、別の場所に拠点を構えても、それでは根本的解決にならないし、いずれ見つかり殺されるだろう。
だから、俺達はトッテルミシュアに身を寄せたのだから。
三週間が経過した。
ここまで竜族は見ていない。
これは奇跡的なことだった。
下級竜族にでも会えば、仲間を呼び寄せるだろうし、一体で行動していないので、仲間を呼びに行くだろう。
そうなったら、次々と竜族が現れる。
ここまで遭遇していないのならば、もしかしたらレイラシャのラスクに到着できるのではないか。
そう思い始めた人もいたはずだ。
実際、俺もそうだった。
少し、ほんの少しだけだけど、会話や笑顔が見られることもあった。
状況は最悪なまま。
でも、希望を僅かに持ち始めていた。
それは一ヶ月直前の日まで続いた。
その日、食料が底をついた。
そして。
一ヶ月目の朝。
俺達はまだ見えない、都市に思いを馳せつつ、何とか足を動かしていた。
俺もかなり疲弊している。
食事が満足にできないため、徐々に体力を奪われている。
仲間達も同じだ。
明らかに顔色が悪いし、息切れもしている。
それでも必死で足を動かしている。
避難民達も同じ。
全員ではなかった。
疲労で倒れ、あるいは死んでしまう人もいた。
できるだけ連れて行こうと、馬車に乗せたりもしたが、限界があった。
特に老人は脱落している人が多かった。
どれくらい減ったのかわからない。
けれど振り向くことはできない。
俺達も同じなのだから。
と。
俺は後ろを振り返った。
「どうかしたんですか?」
莉依ちゃんが不安そうにしている。
俺は耳を澄ませる。
感知型の大剣を手にして、周囲の様子を探った。
いない。
大丈夫のようだ。
「いや、なんでも」
聞こえた。
瞬間的に、俺は遠くを見つめる。
まだ感知の外。
だが聞こえる。
遠くで明らかな異音が。
「敵襲だ! 走れ!」
俺の叫びを聞くと、全員が後ろを振り返った。
だが視認できる場所に、竜族はいない。
まだ俺にしか感知できない。
「見えなくても来てる! 走れ!」
「は、走れ!」
「進め!」
俺の声に呼応した兵士達が叫び始めた。
見えていないが、誰かが走れば、思わず走ってしまうもの。
数人が走ると、周囲の人間も走り始めた。
「前方の人間にも報告してくれ!
それと竜燈草を燃やす準備と、武器へと塗布も忘れるな!」
「わ、わかりました!」
近くの兵士に指示を飛ばすと、馬に乗った兵士に伝達した。
そのまま騎馬兵は前方へ走っていく。
「き、来てるんですか!?」
「ま、まだ見えないが」
「なんか、や、やばそうな感じ!?」
「はっ、はっ、ラスクはまだなんですかにゃ!」
誰もが狼狽えながらも走り始めている。
周りの避難民達も不安そうにしながらも必死で走っていた。
まだ見えない。
十分ほど走っても見えず、みんな周りの様子を確かめ始めた。
追われていないんじゃないのか?
そう思ったに違いない。
だから、走る速度が徐々に遅くなってしまった。
見えない脅威に対して、危機感を持つことは難しい。
一ヶ月間、襲われなかったとなれば余計に。
次第に、駆け足になっていく。
「走れ! 足を止めるな!」
俺が叫んでも、周りの空気を変えることは不可能だった。
徐々に、大丈夫そうだという空気は伝播してしまう。
そして一度止まると、再び走り始めるのは難しい。
大勢であればそれは顕著だ。
これから竜族が現れて、慌てて走り始めてしまえば混乱してしまう。
もしかしたら、転倒し、踏まれて死ぬ人間も出てきてしまうかもしれない。
誰かが言った。
なんだ、来てないじゃないか、と。
その言葉が、少しずつ広がっていく。
だが俺にはわかっていた。
もうすぐそこに、竜族達が近づいていることに。
すぐに見える位置にいるのに、避難民達は足を止めてしまった。
瞬間。
後方に竜族の姿が視認できるはず。
「走れって! 死ぬぞ! おい、もう見えてるだろ!」
「いや、いねぇって、さっきからずっと走ってるじゃねぇか。
疲れてるんだから、いい加減にしろよ」
「そうよ。もう限界……これ以上、無駄に走りたくないわ」
辺りの避難民の視線が集まる。
非難を含めた視線だった。
俺ははたと気づく。
見えないのだ。
人が邪魔で俺達の位置からでは見えない。
最後部の人間は見えるだろう。
でも人が多い場所にいる俺達には見えないのだ。
周囲の人間も同じ。
早めに逃げろと言ったのが裏目に出たらしい。
みんな疲労からか、走る気配がない。
後方を見ると、遠くで走り始めている避難民が見えた。
その後ろに竜族の姿はあった。
最悪だったのは、後方は坂道で、遠くまでは見えなかった。
いつの間にか、かなりの距離を詰められていた。
「おい、見ろよ! ラスクだ!」
誰かが言った。
その声に、全員が気をとられる。
最悪は重なる。
ラスクの位置は左斜め前。
丘の上らしく、かなり遠くでも見えた。
全員が目的にしている場所だ。
視線を奪われて当然で、後方に迫っている竜族達に気づかない。
まだ距離はある。でも余裕があるわけじゃない。
それなのに大半の避難民は気づいていない。
兵士達も戸惑うだけで、俺の指示に従わず、何も言わない。
兵士のほとんどは民兵だ。
その上、俺は昨日、コルに来た新参者。
すでに暫定的な編隊が済んでいる中、隊長を変更する暇もなく、すでに隊長となっている人間は経験も知識も能力も足りていない。
必然、緊急時、即座に対応できない。
俺が叫び、仲間達も見えないながらも、同じように指示を出してくれた。
だが誰も聞かない。
そして。
後方から悲鳴が上がってようやく、周囲の人間達は振り向き、状況に気づいた。
「な、なんだ?」
「竜族達が来てる! 走れ!」
何度も叫んでいた。
それがようやく彼等に届いたが、遅かった。
後方の竜族は十分程度で追いつくだろう。
前方のラスクは一時間以上はかかる。
つまり。
必ず追いつかれ、後方の人間は殺される。
ようやっと走り始めたが、咄嗟に大勢は走れない。
なぜなら前方の人間が走るまで、時間差があるからだ。
交通渋滞と同じで、間隔を空けていても必ずどん詰まりになり、速度を上げるには時間がかかる。
だから早めに俺は指示を出していたのに、みんなは理解せずに走らなかった。
しかし、これはしょうがない。
何もかもが時間が足りず、急造の俺達には限界があった。
走り始めても、前方の人達が走るまでには時間がかかる。
早足程度の速度しか出ず、もどかしく思った避難民達が、外側から回り込んで前方へ向かった。
「隊列を崩すな! 出るな! 出たら死ぬぞ!」
この指示にも誰も従わない。
我先にと列を出て、先へと走り始める。
おかげで俺達の前方に少しずつスペースができる。
比較的、窮屈だった列に隙間が生まれる。
後方からの襲来ならば、強引に前へ走った方がいいと考えるかもしれない。
だがこれは悪手だ。
竜族の数、戦闘能力、そして俺達の状況と、俺達の唯一の手段を考えれば、隊列を崩してはいけなかった。
その俺の考えが現実にならないことを祈る。
数分走ると、もう間近に竜族が迫っていた。
俺は列から出て、足を止め、指を唾で濡らして、制止する。
その後、すぐに列に戻り、莉依ちゃんの隣に並んだ。
俺は兵士に向かって叫んだ。
「竜燈草、燃やせ!」
「りゅ、竜燈草燃やせ!」
「竜燈草燃やせ!」
前後の兵士達に向かって叫ぶと、その兵士達も同じように叫ぶ。
それが伝わると、松明を手にする。
先端には竜燈草が巻きつけられており、走りながらでも燃やすことが可能だ。
並走した兵士が油を付着させ、火打石で着火する。
他の兵士は剣に、竜燈草をすり潰した毒薬を塗布しながら走る。
「南西の方向、風魔術、始め!」
俺が叫ぶと、再び兵士達が叫び、指示が伝達されていく。
竜燈草の煙が右側へと流れていたが、魔術師たちが風魔術を詠唱し、風を生み出すと、後方にいる竜族達に向かって煙が流れた。
よし、ここまでは思った通り。
民兵とは言え、指示通りに動けてはいる。
肩口に振り返りながら走る。
竜族達の姿は左右に広がり、見えるだけでも一万以上の敵がいた。
その中央付近に煙が向かう。
俺は固唾を飲んで結果を見守る。
もう、最後尾の人間に竜族が迫っている。
敵の手が届いてしまう。
そう思った瞬間、竜族の一体が転倒した。
それは一体に留まらなかった。
顔をしかめ、バランスを崩して倒れる竜族が続出したのだ。
それが列を崩し、左右に広がっていく。
濃い煙の部分以外でも、多少の効果があるらしく、足を止めて、蹲っていく姿が見えた。
先頭は下級竜族ばかりだったが、それでも有効であることは証明された。
飛竜が見えたが、煙に覆われると、墜落した。
下級大型竜が見えた。
小型竜に比べると効果は薄いようだが、明らかに動きは緩慢になり、やがて転倒した。
思った以上の効果だ。
俺は竜燈草の効果を直には見ていない。
ドラゴンが嫌う、程度の認識しかなかったので、こんな結果が出るとは思わなかったのだ。
精々、逃げるくらいのものだと思っていたが。
三半規管の感覚を狂わせているような感じに見えた。
これはかなり有用だ。
「今の内に走れ! 気を抜くな! 竜燈草を燃やしたまま、走り続けろ!」
最後尾にいた人達は無事だ。
兵士達も竜族に効果があるとわかり、喜色を滲ませていた。
しかしすぐに表情を引き締める。
彼等もまだ安心できないことはわかっているらしい。
煙を後方へ流しながら走って十分。
このまま行けば、何とかなる。
そう思っていたが、そんなに簡単なものではなかった。
竜族達が左右に展開し始めたのだ。
奴らの数はかなりのもの。
恐らく三十万はいる。
当然、物量で押してくるとは思っていた。
左右の展開も予想していた。
煙が当たらない場所を経由して、俺達を取り囲むつもりだろう。
奴らは正規兵で訓練されており、速度は圧倒的に俺達よりも上。
だから遠回りしても、いずれは追いつく。
だが、そんなことは俺は想定している。
「左右展開するぞ! 中央から前方部隊の左翼魔術師左方へ、右翼魔術師右方へ煙を流せ!」
俺達後方隊は現状のまま、後方へ煙を流す。
前方部隊が左右に煙を流せば、煙が縦列全体を守る膜となる。
俺達の前方に移動されたら難しいが、後方か左右から追ってくるのであれば、この方法は有効だ。
あくまでラスクにつくまでの対処で、追いつかれたり、追い抜かれてしまった場合や、先回りされたらどうしようもない。
だが今のところ、この戦略は有効なようだ。
左右の竜族達も煙に巻かれて、俺達に近づけなかった。
「よし! いけるぞ!」
思わず叫んだが、不意に気配を感じて、俺は空を見上げる。
「クサカベさん! ひ、飛竜!」
後方、左右はダメと見て、飛竜が上空を陣取っていた。
真上からとなれば煙は届かない。
距離があれば煙は大気に溶けてしまい、効力が失われる。
だが、それはつまり、近づけないということでもある。
風向きを操作しているため、左右と後方以外の方向には煙があまり向かわない。
しかし自然に上空へ向かうため、真上からの攻撃は意味をなさないはずだ。
だが。
飛竜がのけ反ると、奴の頭部付近が煌々と光った。
次の瞬間、飛竜は身体をくの字に曲げる。
火の玉を吐いた。
飛竜から放たれた火球が避難民達に向かっていった。
地面に落ちると爆発し、石つぶてを生み出す。
数十人がその場で命を落としたことは明白だった。
莉依ちゃんが慌ててそちらに向かおうとするが、俺は彼女を止めた。
ここは見晴らしのいい草原。
辺りに隠れる場所はなく、留まれば死ぬ。
誰かを治療する暇なんてない。
悲しげに目を伏せる莉依ちゃんの横でニースが叫ぶ。
「と、遠くから攻撃するつもりか!?」
飛竜の数がどんどん増える。
上空からの攻撃だ。剣の類は意味をなさない。
「弓兵、構え! 上空の飛竜を落とせ!」
俺の指示を聞くと弓兵達が矢を放ち始める。
矢の先端には毒薬が塗ってある。
あたれば、墜落するくらいの効果はあるはずだ。
前方の兵士達も矢を放っていた。
どうやらあちら側も、同じように指示を飛ばしていたらしい。
まだラスクは遠い。
三十分はかかるだろう。
だがこの逼迫した状態での三十分は異常なほどに長い。
それはまだ始まったばかりだった。