彼女達の事情 1
まず温かな感触に気づいた。
伝わる体温。
俺はゆっくりと目を開けて自分の手を見る。
するとそこには小さな手が重ねられていた。
細く簡単に折れてしまいそうな手。
それが俺の手を握っている。
優しい感覚に、俺は思わず身を委ねた。
莉依ちゃんだった。
目を閉じて、意識を集中しているらしい。
手元は暖色に発光している。
知っている。
この手の感触は莉依ちゃんだ。
俺の知っている莉依ちゃんとまったく同じだった。
彼女は俺の知っている莉依ちゃんではないが、それでも莉依ちゃんであることは間違いない。
不思議な心境だった。
俺が愛している莉依ちゃんではないが、莉依ちゃんであることは間違いないのだ。
見た目は、髪型や服以外は同じ。
大きな違いは記憶だろう。
そして、恐らくは性格も。
この世界の莉依ちゃんを詳しくは知らないが、意識を失う寸前の、あの顔。
無表情だったあの顔が浮かんだ。
あんな顔を、俺の知っている莉依ちゃんはしない。
どちらが上とかそういう話ではない。
単純に違いがあるんだな、という考えだけだ。
気づけば、俺は莉依ちゃんを見つめていた。
そうしていると、莉依ちゃんが瞼を開いた。
そして俺と目が合う。
逃げられた。
一瞬で。
莉依ちゃんは俺と視線が合うと、無表情でその場から後ずさったのだ。
まるで汚いものから距離をとるように。
この反応、さすがにへこむ。
さっきまで優しく俺の手を握っていたじゃない。
なのにこんなに嫌われる?
ってか、俺が何かしたのか?
そりゃ、目の前で竜人と戦って血みどろになったけど。
それだけで結構怖いか。
莉依ちゃんは部屋の壁まで逃げてしまった。
俺から三メートルは離れている。
そうですか、そこまで嫌いですか。
死にそう。莉依ちゃんに嫌われているなんて死にそう。
莉依ちゃんとは別人の莉依ちゃんだとわかっていても、死にそう。
なんか泣けてきた。
俺は涙を堪えつつ天井を見上げる。
無機質な石材があるだけだった。
そう言えば、ここはどこなんだろうか。
部屋は、かなり粗雑な造りだ。
木造の棚が一つ、テーブル一つ、ベッドがあるだけだ。
部屋というよりは洞窟のようで、窓もない。
ランプがテーブルの上と、扉の横に備え付けられているだけだ。
なんだ、ここは。
ふと、俺は自分の身体を見下ろす。
「傷が、治ってる」
やはりこの世界の莉依ちゃんも能力を持っているらしい。
アナライズが役に立たないので、彼女のステータスは見えないが。
どうやら治癒能力は健在のようだ。
服も着替えさせられていた。
血だらけだったからな。誰かが用意してくれたらしい。
結城さんだろうか。いや、さすがに女の子がそんなことしないか。
男がいれば、だけど。
というか、他の人間がいるんだろうか。
エインツェルもリーンガムも人気がなかったけど。
ミスカは人類は滅亡寸前だと言っていた。
信じてはいるが、それでもやはり実情を知らない内に盲目的になるわけにはいかない。
莉依ちゃんはじっとしている。
動かない。
俺と目が合うと、さっと視線をそらしてしまう。
無表情だ。
いや、あれはもしかして俺を蔑んでいるのか。
なんか悲しくなって来た。
けど、無言でいるのも気まずい。
そうだ。嫌われているなら、仲良くなればいいじゃない!
俺はできるだけ前向きな考えを浮かべつつ、口を開いた。
「あ、ありがとう、君が治してくれたのかな?」
無反応。
「お、俺は日下部虎次。君は?」
無反応。
「は、ははは、こ、ここはどこかな?」
無反応。
「あ、あのさっきの、女の子はどこにいったのかな?」
無反応――だと思ったら、莉依ちゃんは扉を開いて、外へと出て行った。
ついてこいってことだろうか。
彼女は頑なに話さない。
その上、表情も変わらないし、身振り手振りもない。
若干、折れそうになっていた心のままに、俺はベッドから抜け出て、莉依ちゃんの後を追った。
廊下に出る。
いや、通路? 洞窟?
部屋の造りと同じで、廊下も岩盤をくり抜いたような形だった。
ここは地下か、洞窟みたいだ。
こんな施設がリーンガムにあっただろうか。
それとも別の場所に移動したのか?
廊下には等間隔でランプが吊り下がっている。
莉依ちゃんは迷いなく廊下を進む。
部屋は幾つかあったが、人の姿はない。
十程の部屋を通り過ぎると、正面に扉が見えた。
莉依ちゃんが扉を開けて中に入る。俺も続いた。
そこは空間が広がっていた。
広間らしいが、そこには数十人の人が集まっていた。
これだけの人がいたのか。
結城さんと莉依ちゃんだけではなかったらしい。
やはりある程度の人間がいるとわかると、安心できた。
しかし俺の心情とは裏腹に、空気は剣呑としている。
「どうするんだ!? この場所がバレるかもしれないじゃないか!」
「竜人達は近くを探すぞ、入念にな。もう、ここが見つかるのも時間の問題だ」
若い男はいないようだった。
中年、老人か子供、それと女性だけだ。
四十代辺りの男を中心として、詰問しているらしい。
彼等は正面に立っている人物を責めている様子だった。
そこにいたのは結城さんだった。
結城さんは、申し訳なさそうに顔を伏せている。
「ごめんなさい……」
「あ、謝ったってどうしようもないんだよ!」
「どうしてくれるんだよ!」
俺の隣、少し離れた場所で莉依ちゃんが、結城さんを見ている。
無表情だった。
だが。
無表情の中にも変化はあった。
ほんの少し。
もしかしたら、俺じゃなければ気づけなかったかもしれない。
ずっと莉依ちゃんを見てきた俺だからこそ気づけたのだと思う。
彼女は悲しんでいた。
結城さんを見て。
「で、でも、竜人は倒したし、その、死体も隠したから」
「倒しても、隠しても、奴らにはバレるだろ!
別の奴が来るんだからよ!」
「そうだ! おまえが失敗したせいで、俺達が危険な目にあうんだ!」
集団の正面にいる数人が一方的に結城さんを詰っている。
他の人間は、参加はしていないが、擁護するつもりもないらしい。
どうすればと嘆いたり、困惑しているだけだ。
状況は詳細にはわからないが。
これは気分のいいものではない。
どうやらこの場所は彼等の隠れ場所らしい。
近くで竜人に見つかったせいで、この場所が見つかるかもしれない。
だから結城さんを責めている、といったところか。
しかし、結城さんは危険な目にあいながら、何とか生き長らえたのだ。
安全な場所にいたであろう彼等に責められる義理はないだろう。
事情はわからない。
だが、不愉快だ。
俺は憤りを抑えつつも、結城さんの下へ行こうとした。
だが、先に俺の様子に気づいた結城さんが、俺に向かって首を横に振った。
来るな、と言いたいらしい。
理由は何となくわかったが、納得はできなかった。
だが、事情をよく知らない俺が口を挟めば、余計に結城さんの立場が悪くなるかもしれない。
気に入らない。
けれど、知らない内に行動すれば事態が悪化する可能性がある。
人の上に立った経験から、感情に身を任せた安易な行動は、余計に迷惑をかけることを知っている。
それが功を奏する時もあるが、この状況では逆効果だろう。
俺はグッと堪えて、その場で立ち止まった。
しばらく非難していたが、やがてどうしようもないとわかると、人々はその場から去って行った。
別の扉を通り、それぞれの部屋に戻ったのだろうか。
室内には俺と結城さんと莉依ちゃんだけが残った。
「は、はは、ごめんね、イヤなところ見せちゃって。
それと、助けようとしてくれたのに、ごめんね」
気まずそうに近づいてきた結城さんは苦笑しながら言う。
「いや……何か、事情がありそうだな」
「まあ、うん、色々とね」
「疲れているとは思うんだけど、色々と聞きたいんだ。すぐじゃなくてもいいんだけどさ」
「ううん、今でいいよ。混乱しているだろうし、早めに事情は話しておきたいからね。
それに君のことも聞きたいし」
結城さんはやはり結城さんだ。
優しい娘だ。
顔を見れば色々と疲労していることはわかる。
それでも俺のことを考えてくれている。
「まずは助けてくれてありがとう。本当に助かったよ」
「いや、大したことじゃないから」
「大したことだよ……本当に助かったから。ありがとう」
何度も感謝を述べる結城さんに、俺は気にするなと何度も答えた。
これではきりがない。
そう思った俺は話題を変えた。
「それはそうと自己紹介をしないとな。俺は日下部虎次。
見ればわかるだろうけど日本人だ。君は?」
「あたしは結城八重。君と同じ日本人」
次は莉依ちゃんが自己紹介をすると思ったので、俺は彼女を見た。
だが、莉依ちゃんは口を開かない。
ここまでくれば、話すことが苦手、というわけではないだろう。
俺を嫌っているにしても、無反応なのはやはりおかしい。
莉依ちゃんは俺をちらっと見たが、すぐに視線を泳がせた。
表情に変化がないから、莉依ちゃんの心情が中々に読み取れない。
だが、どうやら動揺しているらしい、ことはなんとかわかった。
「その、ごめんね。莉依ちゃん……喋れないんだ」
「喋れない?」
半ば予想はしていた言葉だった。
だが、やはり俺は狼狽えてしまう。
莉依ちゃんは、俺達から僅かに距離を取り、広間の壁に体重を預けた。
気を遣ったんだろうか。
本人が目の前にいれば、話しにくいから、と。
そうだったら、莉依ちゃんらしい行動だと思った。
ただ、表情や仕草は無機質だった。
「そ、その色々あってね。転移してから、大変だったし、いつの間にか、話せなくなって。
最初は、普通に話す、表情の豊かな優しい子だったんだけど」
そこで結城さんは言葉を濁らせた。
詳細を話したくはない、ということだろうか。
それとも単純に、彼女にも苦い思い出があるのだろうか。
俺には二人の辛さはわからない。
「そう、だったのか」
情けないが、相槌を打つことしかできなかった。
それ以外のことをするべきではないとも思った。
少し間隔が開き、結城さんは表情を取り繕うと、再び口を開いた。
「えーと、それで、君も転移して来たんだよね?
三年前にはいなかったと思ったんだけど」
やはりこの質問になるよな。
しかし、事情を説明しようにも、どう言えばいいものか。
事実を話せば、間違いなく信じてくれない。
しかし三年前に転移したんじゃなかったら、俺はどうやって転移したということにすればいいのか。
最近転移した、その理由はわからない。
これは事実だが、そのまま話すべきか。
無理に話を作れば、辻褄が合わなくなるし、嘘を吐くのは好きではない。
できなくはないし、時として活用するが、この場では必要ない。
だったらそのまま話すか。
「一ヶ月前くらいに、この世界に転移したみたいで。理由はわからないんだけど」
「そっか、日下部君も転移しちゃったんだね。でも、飛行機事故とは別の転移かー。
そういうのもあるんだ……なんで転移しちゃうんだろうね。
あたし達もよくわからずにここに来ちゃったんだけど」
俺のせいかもしれない。正確にはこの世界の俺だけど。
もしそうなら、二人を危険な目に合わせた元凶は俺だ。
表異世界でも俺の力で転移した。
みんなを巻き込んだが、みんなは異世界に行くことを望んでいたのだ。
そのためか、みんな俺を責めることはなかった。
だからと言って、俺の罪が軽くなるわけではないが。
やっぱり二人を放っては置けない、よな。
「他にも転移した人間が?」
「ん? 何人かいたんだけど、転移してすぐに奴らに襲われて、はぐれちゃって」
「名前とかは?」
「ううん、聞いてない。顔も覚えてないくらいしか話してないし」
沼田達がいるかと思ったけど、いなかったのだろうか。
俺は死んでいるし、他の人間も死んでいるか転移していないかもしれない。
しかも三年前。
朱夏。
沼田。
他のみんな。
生きてるのか?
それとも。
「ねぇ、日下部君はどんな能力があるの?
あたしは身体能力が上がる力で、莉依ちゃんは治癒能力なんだ。
あ、というか、能力持ってるの気づいてるよね?」
「え? え、と」
そうか、転移した後に能力が開花するのは、この世界でも同じなのか。
そうなると、俺も能力があることになる。
しかし、今の俺にはその能力がない。
というか、なくなっているのかどうかもわからない。
「日下部君すごく強かったよね? どうして戦えたの?
普通怖いと思うんだけど。あたしも怖いし……。
それに、普通に戦っていたような……何か力があるようには見えなかったんだけど」
色々と疑問があったのだろう、矢継ぎ早に質問されてしまった。
しかし俺には回答がない。
そのすべての答えは、表異世界での経験があってのことだからだ。
どうするかと思い、俺はいつの間にか顔を顰めていた。
すると、結城さんは慌てて言った。
「も、もしかして、さっきの戦いの影響が残ってる?
すごい戦いだったし……その、死にかけてたし」
ああ、死ななかったのか。
そりゃそうか。莉依ちゃんが治療してくれてたんだし。
「え? あ、そうかも。ちょっと記憶が」
「そ、そっか。ごめんね、ありがとう。あたし達のために戦ってくれたんだよね」
「俺が勝手にしたことだから気にしなくていいよ」
「するよ。助けてくれたんだもん……」
結城さんは嬉しそうな悲しそうな顔をした。
俺は彼女の感情が読み取れずに、黙っているしかなかった。
「日下部君は最近転移して来たから、この世界の状況はわからないんだね?」
「ああ、まったく。あの化け物のこともよくわからない」
「そっか……じゃあ、説明しないとね。でも、その前にちょっと移動しようか。
ここだとちょっと話しにくいし」
広間には扉が幾つもあり、いつ誰が来るかわからない。
俺達、異世界人がどういう立ち位置なのか、俺にはわからないが、先ほどの出来事を考えれば、目立つような行動は避けた方がいいだろう。
俺は結城さんに連れられて、広間を移動した。




