神殺しの伝説
七十万の兵達が立ちすくむ中、天は明滅を続ける。
燦然と輝く、光の顆粒。
神託の声に惑わされ、自我を失っていた兵達も、全員が空を見上げていた。
ここは戦場。
そうであったはずが、誰もが剣を落とし、天空を仰いだ。
まるで神に祈る信徒のように跪き、呆然としている。
ここは戦場だった。
神託により、強い精神干渉を受けた彼等の多くは戦いの意思さえも失っていた。
その中で。
一人の少年だけが異常を察知していた。
「な、何が起こったの……?」
綺麗な顔立ちをした碧眼の少年は、華奢な身体で鎧を引きずり、平原を歩く。
誰もがおかしく。
誰もが空を仰いでいる。
その中、少年だけが歩いていた。
空には二つの小さな光が浮かんでいる。
あれは先ほどの、神と少年なのだろうか。
先程の中性的な人間のような姿をした存在が神であると、少年は理解していた。
いや誰もが、神であると直感したに違いない。
だからいつも通り、聖神に祈りを捧げているのだ。
少年は、この世界に疑問を抱いていた。
聖神の神託に従うこの世界に、異常さを感じていたのだ。
だが、誰もが聖神教に心酔し、彼の言葉を受け付けない。
次第に、彼は閉口するしかなかった。
戦場に駆り出されたのも、本意ではない。
神託に従って殺しあうなんて馬鹿げている。
そう思いさえしていたのだ。
少年は空を見上げる。
「戦って、いるの?」
あの人は誰だったのだろうか。
自分と同じくらいの歳に見えた。
なのに、一人で神と対峙していた。
あの人も、自分と同じようにこの世界に疑問を持っていたのだろうか。
だから戦っているのだろうか。
それとも神のような、人間とは違う存在なのだろうか。
僅かに見えたあの横顔。
異世界人、のように見えた。
世界を震撼させる存在だと、神託で下った。
ならば彼は、異世界人はこの世界を救う存在だったのだろうか。
賞金首のように扱われ、それでもこの世界を救うために戦っているのだろうか。
わからない。
わからないが、どうしてか胸が締め付けられた。
ああ、僕は何も知らない。
けれど、僕だけはあなたのことを想おう。
他の誰もが、聖神を、神を崇拝しても。
僕だけはあなたの味方でいる。
少年は事情を知らない。
だが理解せずとも、知らずともわかることもある。
少年は直感したのだ。
あの異世界人が神と対峙し、この世界を救おうとしているのだ、と。
少年は祈るように黒髪の少年のことを想った。
どうか。
勝って。
その瞬間。
世界は白く染まった。
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地上を這う風が少年と兵達を襲った。
その衝撃で全員が地面に倒れ、もんどりを打つ。
「な、なんだ!?」
「台風か!?」
「お、おい大丈夫か?」
「あれ、俺、何してたんだっけ?」
「ん? なんでこんなところにいるんだ」
突如として我に変えた兵達は周囲をきょろきょろと見回している。
それは五国すべての兵士に言えることだった。
そう。
『死んでいたはずの兵士達も』だ。
明らかに命を落としていた兵達も、傷さえなくし、何事もなく立ちあがった。
この戦争で死んだすべての兵士達は生き返ったのだ。
だが、それを誰も知らない。
彼等はすべてを忘れているのだから。
「あ? なんだこりゃ? あれ、オーガス軍、か?」
「トッテルミシュア? わざわざなんでここに……おい、おかしいぞ」
「なんで俺達こんなところで、こんな恰好を?」
「これじゃ、まるで、戦争してるみたいじゃないか!」
「どうなってんだ!?」
混乱している兵達が他国の人間を見て警戒している。
互いに同じ様子で、相手に非があるとは思えず、誰もがどうするべきがわからなくなっていた。
そんな中、一足先に我に返った将が声を張り上げる。
「全軍撤退だ! 撤退!」
「て、撤退!」
理解はしていないが、ここで立ち往生しても埒が明かない。
何があったのかと知ろうとする前に、他国の兵達がいる状況を嫌ったのだろう。
どこかの国の将軍が先陣を切り、他国の兵達も高山周辺から立ち去っていた。
その中に少年もいる。
「あれ? え? 撤退? って、何が」
自国の兵達は平原に転がっている装備を回収し、荷馬車に積み込んでいる。
兵器や兵糧、天幕まで。
これだけ用意していたということはやはり戦争を行おうとしていたらしい。
だが少年は違和を持つ。
平原には幾つもの穴があり、数えるのもイヤになるくらいの足跡がある。
それはつまり、さっきまでこの場所に五国の兵達がいたからだが。
おかしいのは、その足跡が平原を埋め尽くしていたことだ。
まるで。
すでに戦争は行われていたのではないかと思えるようだった。
少年はなんとはなしに空を見上げる。
何か、そこにあった気がしたのだ。
けれど何も変化はなかった。
しかし、なぜか心が軽かった。
とても清々しく、思わず笑みが浮かんだ。
この気持ちは、何なんだろうか。
わからないけど、とても気持ちが良い。
「おまえ、なんで笑ってんだよ」
「あ? し、知らねぇよ、っておまえもだろ」
「貴様ら! 任務中、かどうかは疑問だが、とにかく、作業中に笑うな!」
「隊長も笑ってるじゃないっすか」
「あ? あ、ああ、本当だ、笑ってるな。なんだこれは」
それは彼だけではなく、混乱しているはずの他の兵達も同様のようだった。
どこか爽快で。
どこか幸福で。
笑わずにはいられなかった。
自然に笑いがこぼれたのだ。
兵達は笑いあい、よくわからずに肩をたたき合った。
そんな中、遠くの樹林から人影が現れた。
その人は、少年達へと近づいてくる。
平原の周囲、五方向に、五国の軍隊は集結していた。
七十万の兵達が取り囲む中、一人の、黒髪の少年がゆっくりと歩いてきたのだ。
黒髪というのは珍しい。
だが少年はその黒髪の彼がどんな人間なのかわからなかった。
ふらついた状態のままま平原中央まで移動した黒髪の少年。
なぜか、その姿を誰もが見つめていた。
少年も同じで、彼の姿から目を離せない。
なぜかわからない。
どうしてか理解できない。
でも、さっきまで笑っていた少年や兵達は真面目な顔になっていた。
心はざわめき、なぜだか泣きたくなるような衝動に襲われた。
胸が苦しく、身体が震えて。
どうしてか、その少年が尊くてしょうがなくなった。
黒髪の少年は地面に膝をついた。
「誰か……手を、貸してくれない、か」
微かに聞こえた声。
遠く、決して届くような声量には思えなかったが、なぜか黒髪の少年の声は耳朶を震わせた。
誰ともなく、黒髪の少年に近づいた。
エシュト皇国。
オーガス勇国。
ケセル王国。
トッテルミシュア合国。
レイラシャ帝国。
それぞれの将が、踏み出し、黒髪の少年に近づいたのだ。
何がそうさせたのか誰にもわからない。
なぜ自分達がここにいるかもわからず、得体のしれないその少年を訝しがることが当然。 だが、誰もそうしなかった。
「何をすればいい?」
将の誰かが言った。
言葉は将軍らしく居丈高だったか、声音は優しかった。
いや違う。
あの声には敬意が含まれていたのだ。
「あっちに、人が倒れている。助けて、やってくれ」
「わかった」
大隊、恐らく自国のほとんどの兵力を集結させている五国の将である。
それが、一人の少年の言葉を受けて、その頼みを即座に受けた。
その異常さを誰も異常だとは思わなかった。
彼等は知らない。
これから知ることもない。
世界は救われたことを。
神託は失われたことを。
これまでの、聖神に支配されていた世界を。
聖神に関するすべてを。
そして、グリュシュナを救った一人の少年がいたことを。
それでも彼等は理解している。
目の前の少年は、自分達にとって敬意を称する相手であることを。
遠くで見ていた、兵達は将軍達の手を借りて立ち上がる少年を見て。
瞳を濡らし、泣いていた。
「あれ、俺」
「どうして……」
誰もが涙していた。
誰もが。
将軍さえも。
七十万の兵達が。
意味も解らず嗚咽を漏らした。
その日、世界中でその現象は巻き起こり。
誰もが、泣き、笑い、そして幸福を感じた。
●□●□
ニースは一人、ずっとクサカベを待っていた。
寂しい。
けれど、口にはしない。
辛いのはクサカベなのだ。
自分はただ寂しいだけ。
耐えられる。
クサカベは命を懸けて、戦っているのだから。
彼は無事だろうか。
無事に決まっている。
あんなに強い人なのだから。
だが、どうしたことか。
『彼は何と戦っているのかわからなかった』
どれだけ考えても、思い浮かばなかったのだ。
ニースは首をひねった。
でも思い出せない。
しばらく、うんうん、唸っていたが結局、思い当たる言葉もなかった。
「……こうしていても仕方ないにゃ」
テーブルで頬杖をついてぼーっとしていたニースは、立ち上がり頬をパンパンと叩いた。
じっとしているとどうしても考えてしまう。
まだかまだかと、扉を見つめてしまう。
これでは子供と同じだ。
こらえ性がないという自覚はある。
けれど、だからといってわがままを言っていいというわけではない。
自分にできることは待つこと。
苦手だけど。
嫌いだけど、それしかできないのだから。
いつ帰ってきてもいいように、毎日を過ごすしかないのだ。
「にゃにゃ?」
何かが聞こえた。
遠くで、普段聞こえないような音が聞こえたように思えたのだ。
扉を開けて外へ出る。
「気のせいかにゃ?」
やはり勘違いだったようだ。
いつも通りの林道が伸びて、目の前には墓があるだけ。
周囲の樹林も相も変わらず、鳥の泣き声と草木が擦れる音しかしない。
あまりに待ち望み過ぎて、幻聴がしたのかもしれない。
ニースは頭を振り、家を出ると、林道を進んだ。
そのまま樹林を通って、山菜を摂るのだ。
「にゃにゃ、にゃー、にゃにゃっにゃ!」
よくわからない鼻歌を漏らす。
いつもクサカベにはどういう意味なのかと聞かれるが、本人もわからない。
気分で歌っているだけなのだ。
歌えば少しは気が紛れる。
一人の寂しさを忘れられる。
まだクサカベがいなくなって数週間なのに、もうこんなに寂しい。
だから歌うのだ。
そうやって作業を進めていると、再び何かが聞こえた。
さっきと同じ音だ。
「にゃ? むむ、これは……馬車の音かにゃ?」
誰かが来たのだろうか。
こんな辺鄙な場所に?
怪訝に思いながらも、音は近づいてくる。
まさか盗賊ではないだろうが、一応は警戒した。
やがて音の正体が見えた。
やはり馬車らしい。一台だけだった。
さすがに盗賊ではあるまい。
同時に、クサカベでもないだろう。
彼ならば、わざわざ馬車を使って帰ってはこないだろうから。
落胆しながらも、ニースは自身の姿を見下ろした。
人間の姿だ。見られても問題はない。
やがて馬車が目の前に移動して来て、停まった。
そして扉が開くと。
中から。
「トラジ!?」
クサカベが出てきた。
待ち望んでいた相手との再会に、ニースは突発的に、クサカベに飛びついた。
首を抱き、体重をかけると、クサカベは優しくニースの背中をポンポンと叩く。
「ただいま、ニース」
「お、おかえりにゃ! 無事で、無事でよかったにゃ……お、終わったのかにゃ?
全部、終わったのかにゃ!?」
「ああ……終わったよ。全部。な?」
クサカベが馬車の奥に視線を移した。
すると、奥から辺見朱夏と結城八重が現れた。
「ニース……やあ」
「あ、あはは、久しぶりー、かな?」
ニースは愕然とし。
あんぐりと口を開け。
頬を振るわせた後、唇を引き締めた。
そして瞳を濡らした。
「二人とも!」
クサカベから離れ、今度は二人に抱きついた。
朱夏も結城も嬉しそうにニースを抱き、笑いながら泣いていた。
その様子を見て、クサカベは柔らかな笑みを浮かべる。
「ううっ、よかったにゃ! よかったにゃ!」
「うん、うん、ありがとう、ありがと、ニース」
「えへへ、これも全部、日下部君のおかげだよ」
ここに来るまで何度も礼を言われたのだろう。
クサカベは困ったように笑うだけだった。
しかしその表情を一気に引き締める。
「ニース、墓に変化は?」
「墓? にゃ? 何もなかったと思うにゃ」
「……そうか」
クサカベは考え込んでいる様子だった。
朱夏も勇気も彼を心配そうに見ている。
何があったのかニースにはわからない。
だが、三人が無事だったことが何よりも嬉しかった。
「と、とにかく家に入るにゃ! 準備はいつでも万端にゃ!
食べもの一杯、お菓子もたくさんにゃ!」
「はは、じゃあ、そうさせて貰おうかな」
「うん、お邪魔するねー」
「ささっ、トラジも!」
ニースに手を引かれて、三人は家へと向かった。
クサカベは足を止め、馬車の業者に礼を言って、別れを告げていた。
そしてニースと共に、家へと戻った。
その日、ニースとクサカベの家には、朝まで楽しそうな声が響いていた。




