コミック発売記念 妹の聖地 後編
――今、何時だろう。
いつも枕元に置いているスマホを探して左右を確認した瞬間、兄の美貌が眼前にあって言葉を失った。
恐る恐る自分と兄の境界線を探すとちゃんと別々の布団で寝ていた。ぴったりくっついているのでその意味を為しているのかは謎だけど自分の陣地が存在していることに安堵する。
昨日の頭痛はすっかりなくなっていて、汗も引いて体の異常な倦怠感も消えている。これなら普段通り動けそうだ。私が兄と距離を取ろうともぞりと布団の中で動くと兄の琥珀色の瞳が瞬いて目を開けた。
「おはよう、悠子ちゃん。体はつらくない? 痛い所は? 」
兄の大きな手が頬に当てられ、心配そうな顔で私の体調を窺う。
その表情を見てどれだけの心労を兄に掛けていたのかを察した。
昨日、外で歩き回っている時は「暑いな」とは思っていたけれどここまで悪化するとは考えもしなかった。最後のスタンプがなかなか見つからなくて、疲れ始めても明日に持ち越したくなくて、最後の方は気力だけで歩いていた。
まだ行ける、なんて自分の力を過信していた結果がこのザマである……。
せっかく兄も楽しみにしてくれていた旅行が私のせいで台無しになってしまった。申し訳がなくて気落ちしていると兄は苦笑を零した。頬に当てていた手を今度は私の頭に持っていってポンポンと撫でる。
「謝らないでね。悠子ちゃんがいつもと違うのに気づけなかった俺にも責任があるから」
「いえいえ、ないですよ! 自己管理を怠った私が」
「ううん、俺が悠子ちゃんの体調を把握しておきたいんだ」
「そ、そうですか……」
語調を強めた兄があまりに真剣な顔で言うので反論も出来なかった。
そんな病弱な体ではないんだけれど……。そう言っても心配性の兄には通用しないだろう。
「頭痛はもうないですし、昨日より大分具合はいいですよ」
兄を安心させるように起き上がろうとすると兄が先回って私の背中を支えて起こした。
「良かった。今日は旅館でのんびりしてお土産を選んだらまっすぐ帰ろうね」
「じ、神社は……」
諦めきれず一縷の望みを掛けて兄に問いかけたが無情にも首を横に振られた。
「無理は禁物、それに足だって筋肉痛になってるんじゃない?」
兄に言われて自分の足に触れてみると足はパンパンに張っている。
「最悪、階段を上っている途中によろけて頭を打って転げ落ちちゃったりする可能性もあるし……今日は止めておこう」
兄は私の命の危険まで考えて忠告してくれている。昨日は体調を悪くしてもすぐに旅館で寝かせて貰えたけど、外なら救急車を呼ぶ事態だったのだ。この筋肉痛の足で境内まで続くとても長い石段を上るのは兄の言葉通りリスクがあるだろう。
「……はい、そうします。すみません、わがままを言ってしまって」
「わがままを言って貰えるのは嬉しいよ。相手が俺だから甘えてくれたんだよね?」
改めて言われる恥ずかしい。確かに兄なら許してくれるかもしれないという甘えがあった。まるで子供のような自分に顔が熱くなった。
「神社は悠子ちゃんが元気になったらまた今度一緒に来よう」
今日行く予定だった神社は兄も行きたがっていた場所だったのに兄は私を責めない。だからこそ自分を責めたかった。これ以上兄に迷惑を掛けないように大人しくしていよう。
和泉さんは私が寝ている間もきっと看病をしてくれて、あまり休めていないはずだ。だからせめて今からでも体を休めて欲しかった。
「あ、ありがとうございます。あの、和泉さんは温泉に入られたんですか? せっかく来たからには和泉さんだけでも入って来て下さい。私はここで待ってますから!」
「あっ、まだ悠子ちゃんには話してなかったね」
すっと兄が立ち上がり、窓の傍に行くとカーテンを開けた。その向こうに広がる光景に私は目を丸くした。
檜風呂から立ち上る湯気と背景の鮮やかな木々の緑、雲ひとつない空から降り注ぐ光が水面を美しく照らしている。
絶景を見ながら浸かれるお風呂というのは、正にこういうお風呂のことを言うのだろう。
「――わぁ、素敵なお風呂」
思わず小さく呟くと兄はいつの間にか手に茶色の高級感のあるバスタオルを持っていて、それを私に手渡した。
「どうぞ。長時間は難しいけど、ここなら悠子ちゃんもお風呂に入っていいよ」
「え、今は私じゃなくて、和泉さんが入る話をしてたんですよね。それに確か昨日は駄目だって言われたような……?」
私の記憶違いだっただろうか。昨日は意識が朦朧としていたから記憶も曖昧だ。
「俺も勿論入るよ。昨日はまだ熱もあったし、眠そうにしてたから危険だと思ったの。はい、悠子ちゃんあっち向いてみて」
兄が右側を指差すのでそちらの見てみると耳に何かを当てられた。
「ひぅっ」
「うん、平熱だね」
兄が体温計を見て大きく頷いている。耳で測る体温計を当てるなら先に言って欲しかった。
「お風呂に入れるのは嬉しいですけど和泉さんが先に入って下さいね。私はあとでいいです」
私がそう言うと兄は不思議そうに首を傾げた。
「さっき俺も入るって言ったよね?」
兄のその言葉を聞いて嫌な予感がした。
「それってまさか……一緒に入るという意味でしょうか」
「悠子ちゃんがお風呂で倒れたら大変だから」
と輝かしい笑顔を向けた兄に私は両手と首を同時に横に振った。
「安心して、悠子ちゃんの心配はわかってるよ。そのバスタオルを広げてみて」
どこに安心する材料があるのか。兄に言われた通り広げて見ると予想より大きなバスタオルだった。
「これを巻けば悠子ちゃんの全身も隠せるし、恥ずかしくないね」
茶色のバスタオルだから水で透ける心配もないし、足首まで隠せますね……って気を回すところが違うんですよ!
何で私が恥ずかしがるのわかっててこういうことをするのか。
「無理です! 一人で入らせて下さい」
「どうしても駄目……?」
和泉さんが残念そうに眉根を寄せて情に訴えてくるが流石に私も譲れない。
「和泉さん、いくら家族と言えども私にとって男性と二人きりでお風呂に入るのはとても勇気がいることなので勘弁して頂けませんか?」
こんなことは口にするのも恥ずかしいのだけれど兄が本気で言っている以上、私も真剣にお断りさせて頂く。もしこれで納得して貰えないならお風呂に入るのは諦めよう。
負けてなるものかと両手を組んで兄を見上げ続けていると先に視線を逸らしたのは兄だった。
「っもうずるい……。そんな風にお願いされたらさ……はぁぁぁ。なら仕方ないよねって答えるしかないじゃん」
何ですか、その長い溜息は。
ぶつぶつと言いながら片手で顔を隠す兄は全然納得してくれてるようには見えない。
「つまり一人で入っていいんですよね」
不安が拭えず念押しに尋ねると兄は、
「いいよ。いいけど! 俺が声を掛けれる状態にしておいて」
ここで了承しなければお風呂に入れないだろう。昨日熱中症で倒れたばかりの私への信用性は限りなく低い。私は兄の言葉に頷き、お風呂に入ることになった。
「いい湯だなぁ」
一昔前の歌が脳裏に流れた。掛け流しのお湯が流れる音を聞きながら外の風景を眺める。結局、兄の後でいいと言ったのに兄に押し切られて私が先にお風呂をいただくことになった。
「悠子ちゃん、起きてる? のぼせてない?」
カーテンの向こう側から兄の声がする。兄の声が聞こえるように窓は開けて、目隠しにカーテンは閉めて貰っている。
「まだ入ったばかりです。下には綺麗な川が流れててとってもいい眺めですよ。和泉さんもあとで楽しんで下さいね」
「へぇ、川が見えるんだ。下に人はいる? いないよね?」
「眼鏡をしてないんで微妙ですけどいないと思います」
「なら良かった」
こんな山奥の川で遊ぶ人なんているんだろうか。人よりも森からアライグマとかが出てきそうだ……想像しながらくすりと笑った。
私は昨日スタンプラリーを制覇出来たし、今はお風呂に入れて癒されてる。
しかし、兄は楽しめているのか疑問に思った。
兄は京都の神社へ私の合格祈願に行きたいからと誘ってくれたけど、今は私に合わせてくれたのかなぁと思っていたりする。
兄の洞察力は優れており、以前に兄にフラバタの原画展に誘われた時も驚いた。私は兄に一言も行きたいなんて口にしていたかったんだけど……兄はまるで私の望みを見透かしているようだった。
今回の旅行もよく考えてみると場所やタイミングといい、あまりにも私に都合が良い。
――兄はこんな可愛くもないオタクの妹に優しすぎる。
貰った時は困ったマイル券だって結局は私を甘やかす為のきっかけ作りだった。私も兄を喜ばせる為に何かしてあげたい。
……他の券も使ってあげるべきなのか。
ただでさえスキンシップ過剰気味だからな。自ら飛び込んで行ったらどうなることやら。
想像して頭が沸騰しそうになる。段々と体も熱くなってきて危険を感じ取った私は急いでお風呂を上がることにした。瞬間、足下が滑ってつい大声を上げてしまった。
「うぁっ」
「悠子ちゃん!?」
ザッと勢いよくカーテンが開けられ、兄から私の姿が丸見えになる。その時、私は体に兄から貰ったバスタオルを巻いていて、滑った片足を前に出して踏ん張っている状態だった。兄に見られてカァッと顔に熱が集まってくる。急いでバスタオルが落ちないように両手で押さえた。
「だ、大丈夫です。転んでません」
「いや、今転びそうになってたでしょ」
まだ体も洗ってないのに強制退場させられたくない。首を左右に振って後ずさると兄が笑顔のままずんずんとこちらへ近づいてきた。 私の目の前で立ち止まったかと思うと兄は自分のTシャツを脱いでズボッと私の頭から被せた。バスタオルを巻いたまま着せられたから兄のシャツはもうびしゃびしゃだ。バスタオル一枚より恥ずかしさが薄れて助かるけど上半身裸の兄を見るのは目に毒だった。
「悠子ちゃんの身の安全が一番だからね。俺が支えられるように傍で見守っててもいいなら続けて入ってもいいけどどうする?」
「もう上がろうかと思います!」
「そうだね、俺もその方がいいと思う」
般若の笑顔を貼り付けた兄にこくこくと頷き、赤い顔の私は兄に手を繋がれた状態でお風呂から上がることになったのだった。
部屋に戻り兄がお風呂に入っている間、私は机に両肘をついてスマホを眺めていた。
麻紀ちゃんもフラバタのスタンプラリーの情報を知っていたようで、再来週京都で行きたいオンリーがあるから目的は違うけど旅行がてら一緒に行かないかとのお誘いだった。
……もう来ちゃってるんだよなぁ。
麻紀ちゃんも二ヶ月半もあるスタンプラリーの初日に私が行くとは予想していなかったようだ。
『今、兄と京都の旅館に滞在中。お誘いは嬉しいんだけどスタンプラリーは昨日制覇しちゃったから一緒に行けないや。ごめんね><』
そう送るとすぐに麻紀ちゃんからメッセージが届いた。
『一足遅かったか! ってお兄様と二人で旅行! かむちゃん大丈夫? 腰が痛くて動けないんじゃ……』
『腰? 足なら歩き過ぎて筋肉痛で痛いけど腰は平気。昨日は熱中症になって大変だったから兄には申し訳なかった』
『熱中症ならかむちゃん寝てないと! ごめん、私が起こしちゃったかな。お兄様はかむちゃんに迷惑を掛けられたなんて思ってないと思うよ。まずは自分の体を第一に考えてね。お土産話楽しみにしてる』
『もう大分良くなってるんだよ。でも心配してくれてありがとう』
最後のメッセージを送り終わってからもう一度履歴を見返して、麻紀ちゃんの質問の意図に気付いた。
腰が痛くないかってそういう意味か!
違う、違うから。麻紀ちゃんには伝わってると思うけど……。今度会ったら根掘り葉掘り聞かれるんだろうな。
「あ、悠子ちゃん寝ててって言ったのに起きてる」
お風呂から上がった兄に背後から声を掛けられてびくっとする。
「昨日はもう寝過ぎたくらいで……ほら、ちゃんと水は飲んでますよ!」
私は机に置いてあったコップの水を飲んで兄を安心させようと試みた。
「これだから、目が離せないんだよ」
兄は苦笑を漏らして私の頭の上に置いたままのバスタオルを取った。
「髪乾かしてあげるからここ座って」
兄の言われた通り、置かれた椅子の前に正座すると兄が椅子に座って背後から私の頭にドライヤーで温風を当てた。兄はもう片方の手で持ったブラシで私の髪を梳かしながら髪を乾かしていく。
私の髪に触れる兄の手は丁寧でくすぐったい気持ちになる。
「ふふ」
後ろから兄の笑い声が聞こえて首を傾げると兄が答えてくれた。
「悠子ちゃんが逃げないのが嬉しくて」
「逃げたら和泉さんが誤解するじゃないですか……」
この前のように私が嫌がってるからと再び兄が私と距離を置くようになるのは嫌だった。
「優しいねぇ、悠子ちゃんは」
兄はドライヤーを止め、長い指で猫を愛でるように背後から私の喉元を撫でた。
「あの、和泉さん……?」
声を掛けると兄が私の顎を上げた。上から私の顔を見下ろす兄と目が合う。
「優しいからどこまで許してくれるか、知りたくなるんだよ」
異変の後の反動かと思いきや、髪にキスされたり、耳の裏の匂いを嗅がれたりしたのはそういう意味もあったらしい。またややこしいこと考えてるな、と思わないでもない。
そして、兄が極論に達する前に一言断りを入れておく。
「……和泉さん、私さっきお風呂に一緒に入るのは嫌だって言いましたけど決して和泉さんが嫌いな訳じゃありませんからね」
「うん、今はわかってるよ」
なら人を試すようなことをしないで欲しいものだ。思わずムッとしてしまう。
私が不満げに睨み上げると兄は前髪を払って額に唇を落とした。
「ありがとう、悠子ちゃん」
絶対に赤くなってる私の顔を見て、兄は殊更嬉しそうに笑った。
兄はドライヤーを再び手にして、鼻唄を歌いながら髪を乾かし始める。
私の顔ってどれだけ正直なんだろう……。
喜ぶ兄を叱る気にもなれず、旅館の人が部屋に朝食を持ってくるまで火照った顔のまま俯いていた。
翌日、学校へ登校した私は、京都旅行のお土産を仲島に渡しに行った。
スタンプラリーで回ったお店にしか置いていない限定のうちわだ。表は飛人で裏面は穂積君だ。
これを目にした時、これは絶対買いだ! と三枚購入した。あとの二枚は自分用と幸さんの分である。
朝一で渡したくて少し早めに登校し、校舎裏で待ち合わせにした。
校舎裏に着くと仲島は既にそこで待っていた。
「ごめん、お待たせ! はい、京都のお土産」
紙袋を渡すと仲島は顔を顰めた。
「おい、冴草。このうちわ、俺も買ったぞ」
仲島もスタンプラリーの初日に参加すると言っていたのだから当然この可能性を考えるべきだった。
つい調子にのって三枚購入してしまった。仲島だけでなく幸さんも既に参加済かもしれない。
「ごめんごめん。けどほら、保存用とイベント用で使い分けなよ!」
冷や汗を掻きながら提案すると仲島の表情が先程よりも明るくなった。
「まぁ、そういう使い方も出来るか。サンキューな! ってあとこの紙袋の底に入ってるのはラングドシャか! これオレ好きなんだよなぁ」
「あぁ、それは私からじゃなくて、兄から仲島にって……」
兄は仲島に敵対意識を持っていてお土産をあげるような仲ではなかったと思う。だからこのお土産を兄から預かった時、不思議でならなかった。
「へ、へぇ。何でだろうなぁ」
明らかにおかしい。不審げな目で見る私に仲島は目を逸らした。
「『悠子ちゃんがお世話になってるからそのお礼に』って、一体どういうこと?」
「明らかにオレへの牽制だろ! はっ、お前、もしやオレがあの兄貴と変な仲だって疑ってんのか!?」
「そうは言ってないけどさ……変じゃない?」
「変じゃない、変じゃない。シスコン兄貴を信じろ。お前以外眼中にないから」
仲島は首をぶんぶん横に振っている。
数回しか会ったことのない仲島にここまで言われる兄って……。
「第一、オレとお前の兄貴が仲良くなった所で何すんだよ。あのイケメンと! 遊園地でも行くんか!? 拷問か!」
「拷問ではないと思うけど。普通に楽しかったよ」
二か月前の春休みに兄と豊も連れて遊園地に行ってきたばかりだ。
豊は始終笑顔でそれはもう可愛かった。兄も持ってきたカメラで沢山写真を撮って楽しそうにしていた。
「あの兄貴と一緒に遊園地に行ったんか……完全に慣らされてる」
ぼそりと仲島が最後に何を言ったのか聞きとれず、聞き返したが答えてくれるつもりはなさそうだ。
「それよりもスタンプラリーの話だろ! 今日の放課後楽しみにしてっから空けとけよ」
仲島の話に私は激しく頷いた。あの感動を語らずにはいられない。
現地で撮った写真は現像して小さなアルバムに入れて付箋でコメントも付けてきた。
話したくてうずうずしてきた私に「のんびりしてると遅刻するぞー」とお土産を持って仲島が歩き出す。
スタンプラリーの話は放課後までお預けだ。
はっとした私は早足で仲島の後を追った。
――数時間後、放課後に仲島から私が行けなかった神社の話をされて、散々羨んだ後「兄と今年中には行く予定だから!」と宣う私に仲島は溜息を吐いて「お前も大概だよな」と何とも言えない顔をしていた。




