番外編4 父親の一歩 中編
桜の花が綻び始めた三月某日、和泉を妃さんと悠子ちゃんに紹介する日を迎えた。和泉に会うのは約二年ぶりだった。
駅前の改札で待ち人を待つ和泉は周囲の目を引いていた。前回会った時に残っていた少年らしさは無くなり青年に成長していた。亜麻色の髪は春の陽光できらめき、物憂げな瞳にかかる長い睫毛は影を作り、均整の取れた背の高い体型も相まって日本人離れした魅力に磨きが掛かっていた。
和泉が自らの容姿を好み楽しめるタイプであれば良かったのかもしれないが……既に眉を顰めて不機嫌そうな雰囲気を漂わせている。女性が近づかないよう威嚇しているのは間違いない。
早くここから連れ出すべきだろう。オレは早足で和泉に近づき、一緒に妃さんと悠子ちゃんが住むアパートに向かって歩き始めた。
「うっかりさんなんだね。はい、眼鏡」
悠子ちゃんが和泉に自己紹介をして頭を下げた時に落としてしまった眼鏡を和泉が拾って耳に掛けてあげている。
……オレの隣に立つ和泉は本物なのか思わず二度見してしまった。
それ程に和泉の悠子ちゃんに対する親切は異例の対応だった。てっきり女性を苦手としている和泉はオレの忠告を無視して悠子ちゃんに冷たくするのではないかと考えていたのだ。
妃さんにも前もって和泉の女性恐怖症のことについて話しておいたので、和泉の悠子ちゃんへの接し方を見て不思議そうな顔をしている。
にこやかに悠子ちゃんに話しかける和泉を見ていると恐ろしくなった。
まさか最初に優しくしておいて後からすげなくするなんて鬼畜なこと、企んでないよな……?
その後もあまりに和泉の様子がおかしいのでそんな不安に駆られた。妃さんと悠子ちゃんに声を掛けて少しだけ席を外させてもらい、和泉を廊下へ連れ出した。
「おい、和泉。お前変だぞ。やけに悠子ちゃんに好意的じゃないか」
和泉は少しだけ間をおいてから口に手を当てて答えた。
「悠子ちゃん、隠してたけど食事中、二回あくびしてた。今日の顔合わせが不安で寝付けなかったんだよ。人見知りするタイプだね。俺が緊張解してあげないと可哀想でしょ。今日私服じゃなくて制服着てたのだって悩み抜いた末、冠婚葬祭オールマイティな制服に辿り着いたんじゃないかなぁ。何せ二週間も前から食事の下準備をしてくれるようなコだから。そういう葛藤とか伝わってくると優しくしたくなっちゃうんだよね」
この短時間で和泉は驚くほど冷静に悠子ちゃんを観察していた。よくそこまで深読みしたものだ。だが和泉の予想は高確率で当たっている気がした。
和泉の言葉を聞く限り、悠子ちゃんの性格や態度が好印象だったことが窺える。オレの不安は杞憂に過ぎなかったようだ。
普段、寮生活を送っている和泉と悠子ちゃんが関わる機会は少ないとはいえ、険悪な関係なのは家族として気まずい。
何はともあれ、和泉が悠子ちゃんを泣かせるような最悪な事態にならなくて良かった。
オレはホッと胸を撫で下ろし、和泉と一緒に食卓へ戻って悠子ちゃんの作ってくれた料理の数々に舌鼓を打った。
その後、和泉は寮へ戻り、オレは悠子ちゃんと良好な関係を築いていった。五月には悠子ちゃんと一緒に潮干狩りに行き、和泉に声を掛けなかったことを申し訳なさそうにしていたから、あとから海辺で貝を探す悠子ちゃんの写真を葉書に印刷して和泉に出してやった。
八月中旬、オレは妃さんとモルディブまで新婚旅行に来ていた。
悠子ちゃんも誘ったけど「とっても大事なようがあるので行けないんです。どうぞ母さんと二人で楽しんで来て下さい!」と断られてしまった。
「悠子ちゃん、一人で大丈夫かな?」
海辺のレストランで昼食を食べてながらオレは日本にいる愛娘のことを思った。
「夏休みだし、悠々自適にやってると思うわよ。きっと大好きな漫画でも読んでソファーで寝転んでるわ」
「それならいいんだけど……」
と言いつつもやはり女の子だし心配せずにはいられなかった。ちょうどその時、スマホにメールが届き差出人を見たら悠子ちゃんからだった。
『お父さんへ 母さんと旅行楽しんでますか? 少し聞きたいことがあってメールしました。和泉さんの好きな料理や食べ物をご存じでしたら教えて下さい』
なぜ悠子ちゃんが和泉の好物を……?
でもわざわざ聞くってことはもしかして和泉が帰省しているのだろうか。まさか、あいつに限ってそんなことは――あり得ないことだったが初めて会った時の悠子ちゃんへの態度を思い出すと判断が鈍った。
『確か辛いものとか中華料理が好きだったはずだよ。もしかして和泉が家に帰ってきてる?』
『来てます。お父さん達が帰ってくるまで家にいるそうです……。
ありがとうございます。中華料理、早速作ってみようと思います。
一日でも早く帰って来てくれる日をお待ちしてます』
短い文章の中に悠子ちゃんの心労が窺える。
和泉の好物を作ってくれるってことは喧嘩はしていないようだけど。
和泉と悠子ちゃんが二人でどんな生活を送っているのか、想像がつかない。
家にいる時、昔の和泉は部屋に籠もっていることが多かった。家には苦手な義母がいて、外に出ればストーカーに追い回され、和泉にとっては部屋の中だけが逃げ場所だった。だからオレもあえて和泉の部屋を訪ねたりはしなかった。
「正輝さん、食事の途中よ」
妃さんに声を掛けられてハッとした。一旦スマホを机に置いて食事を再開させた。
「すみません。今、悠子ちゃんからメールが来てて、和泉が家に帰ってきているようなんです」
「え、和泉君が? 悠子から私には連絡来てないんだけど正輝さんには相談するのねぇ」
その時の妃さんの表情が少し寂しげに見えてオレは慌てて手を振った。
「たぶん、和泉のことを聞きたかったからオレに連絡したんだと思いますよ!」
「いえ、いいのよ。悠子が正輝さんに心を開いてくれてるってことでしょう。私も嬉しいわ」
焦るオレに対して妃さんは微笑を浮かべた。その優しげな表情にオレはぽかんと見とれてしまった。
「悠子もね、男性と距離を置くところがあるから荒療治になるわ。苦手だって避けてばかりいたら今後困ることもあるだろうしね」
妃さん結構スパルタだな、と思ったのが顔に出たのか妃さんは一言「甘やかすだけが愛じゃありませんよ」と言って食事を続けた。
じゃあ甘やかすことも叱ることもせず息子と話し合おうともしなかった自分は何だったんだろう。
きっと、和泉にとって自分は《親》ではなかった。血の繋がる他人に過ぎなかった。何年も前に顔も見たくないとはっきり告げられた声を今も忘れられない。
家に帰る頃、本当に和泉は待ってくれているだろうか。オレは再度机の上のスマホに視線を落として、微かな希望に縋り付いていた。
新婚旅行から家に帰ると和泉と悠子ちゃんが玄関で出迎えてくれた。和泉の帰省が半信半疑だったオレは内心驚きつつも何とか「ただいま」と口にした。
「おかえりなさい、お父さん。帰ってきてくれて本当に嬉しいです。どうぞ、荷物を預かりますよ。お風呂沸かしておきましたけど、先に食事にしますか」
こんなに暖かく帰宅を迎えて貰ったことがこれまでの人生であっただろうか。嬉しくなって自然と笑顔がこぼれ出た。
「わぁ、大歓迎だね。ありがとう、じゃあ先にお風呂を頂こうかな」
と悠子ちゃんの頭を撫でようとした時、ペシッと音を立てて和泉にその手を払われた。
「悠子ちゃんに勝手に触っちゃダメ」
和泉はサッと前に出て自分の後ろに悠子ちゃんを隠そうとする。
どうやらオレが悠子ちゃんに近づくのは気にくわないらしい。
自分以外の雄が寄りつくのを警戒する動物のような行動に、和泉と悠子ちゃんを二人きりにするべきじゃなかったと後悔した。
「……嫌な予感してたんだよなぁ」
妃さんと再婚を決めた時は正直こんなことになるとは考えてもいなかった。
寄りつこうともしなかった実家に和泉が自ら帰省したり、嫌いなオレの帰りを玄関で出迎えたり、義妹に独占欲らしきものを抱くようになるなんて――オレには非現実過ぎる現実だった。
「あら、そういうこと」
困り果てるオレとは違い、妃さんの反応は軽く感じられた。
悠子ちゃんは、俺たちの反応に首を傾げている。
妃さんは、もしかしてはじめからこうなることがわかっていたんだろうか。
部屋に戻って妃さんに聞いてみると「まさか。でも和泉君が悠子を見る目は、誰かさんが私を追いかける目に似てるとは思ってましたけどね」という返事にオレは顔を赤くせざるを得なかった。
それからというもの、和泉はマメに家に帰ってくるようになり家では悠子ちゃんと和泉の攻防戦が繰り広げられるようになった。逃げる悠子ちゃんと追い詰めようとする和泉。
オレが和泉から悠子ちゃんをかくまうこともしばしばだった。
騒がしい日々の中、以前の反省を込めて家事も手伝うようになったので忙しない毎日を送るようになった。けれどそれを苦痛には感じることはなかった。
妃さんや悠子ちゃん、一大決心をして寮を出た和泉がいる生活に少しずつ慣れていって家族と過ごす時間が愛しかった。
こんな時間がずっと続けばいい、そう思い始めた頃に事件は起こった。
――姪の安里によって、悠子ちゃんが大怪我を負ってしまったのだ。




