26 兄の信愛
「お客様、当店は閉店しております」
喫茶店の扉を開けるとハピネスが俺に営業スマイルを向けた。喫茶店は丁度閉店作業中のようでハピネスは箒を手にしている。しかし、今の俺にはそんなの関係ない。
「悠子ちゃんをどこに隠してる」
「隠す? その前に悠子ちゃんはここに来てもいませんよ」
首を傾げるハピネスに嘘を吐いてる様子はない。じゃあ、悠子ちゃんを呼び出した友達とは誰なのか。
「他にここの店員で悠子ちゃんと仲のいい人間がいるのか?」
「いないと思いますけど……嫌な予感がします。小野ちゃん、悠子ちゃんにちょっかい掛けてたからもしかしたら」
「あのストーカー女め……」
俺だけじゃなく悠子ちゃんまで巻き込む気か。
あれだけ家族に手を出すなと言ったにも関わらず実行するとは。
「小野ちゃんがあなたのストーカーを……?」
「あぁ、この前ここに来たのはあいつにストーカー行為をやめろと訴えにきたからだ。厳しく言ったつもりだったんだがまったく懲りてない」
「また、かぁ……。小野ちゃんには前に注意したから直ったと思ったのに」
「おい、またってどういうことだ」
あいつ、ストーカーの常習犯だったのか!?
「小野ちゃんは中学時代、私の追っかけだったんですよ。私の場合は時間を掛けて打ち解けることが出来たんですが……小野ちゃんが迷惑をかけてすみません」
「お前に謝られても仕方がない。あいつが悠子ちゃんを呼び出す場所に検討はないか?」
「たぶん、商店街の噴水の所だと思います。私もよく小野ちゃんと待ち合わせに使ってるので」
その言葉を聞いて俺はすぐさま噴水を目指して走り出した。人の目が多少ある場所だから大事にはならないと思うが、相手はまともじゃない。目撃者がいようと問答無用でナイフで切りつけることも考えられる。
悠子ちゃん、意外と好戦的な所があるからな……。
どうか無事でいて欲しい。
悠子ちゃんが無傷でいることを祈りながら全速力で商店街を走った。
ハピネスが言った通り、悠子ちゃんと小野は噴水の前で対峙していた。悠子ちゃんを守ろうと二人に近づこうとしたら、後ろから来たハピネスに上着のフードを握られ止められた。
「何をする、邪魔をするな」
「小野ちゃんと悠子ちゃんは何か言い争ってます。まずは隠れてその内容を把握してみましょう」
隠れる必要がどこにあるのか。ムッとするとハピネスが頭を下げてきた。
「私は小野ちゃんが何を考えてるか知りたいんです。困った所があっても可愛がってる後輩です。ストーカーをしているのなら止めさせたい。あなたのことが好きでしてることなんでしょうけど、きっとそれだけじゃないと思うんです」
随分と後輩思いなことだ。しかし、もしハピネスに小野を止める力があるのなら任せたい。あの女は俺の手には負えない。
「小野が悠子ちゃんに手を出したらすぐに割って入るからな」
ハピネスはこくんと頷いた。見つからずに二人の話を聞かなければならないのでハピネスと共にしゃがんで噴水の傍にある植え込みの後ろに隠れて耳を澄ませた。
『知ってますよ。『禁断のブラッディーハンター』今、一部の女子に人気みたいですね。幸先輩が最近ハマってる漫画で――悠子さんが一風変わった趣味を持ってることもね』
小野は悠子ちゃんにスマホを見せつけている所だった。どんな写真か予想はつく。悠子ちゃんが同人誌を買っている現場を捉えたのだろう。
『これ、冴草さんも知ってるんですか?』
悠子ちゃんはサァーっと顔を青くして『それは、言わないで欲しい』と訴えた。
『勿論いいですよ、代わりに冴草さんの仲を取り持って貰えるのでしたら』
――盗み聞きは、いきなり小野の脅しから始まった。小野の根性の悪さに腸が煮えくり返る。
悠子ちゃんを脅迫しようなんて極悪非道なマネを……今この瞬間に実刑判決は出た。罪の重さを思い知らせてやる。
立ち上がろうとする俺をハピネスが必死に押さえた。
『本当は頼りたくないんですけどね。冴草さんをそそのかした悠子さんには』
『そそのかしたって、何を言ってるの小野さん』
『妹だっていうのに兄である冴草さんを誘惑してるじゃないですか。私の前で手を繋いで自慢するような真似までして!』
『私、小野さんの前で和泉さんと手繋いだ記憶はないんだけど……』
訝しむ悠子ちゃんに小野はいきなり甲高い声で喚きだした。
『しましたよ! 近所のスーパーに行く時、いちゃいちゃしてました! あそこには本来私がいるべきなのに。悠子さんが冴草さんに私のあることないこと吹き込んだに決まってる。私が家まで届けに行ったお菓子も食べてくれないし、迷惑とまで言われて……おかしいんですよ。私と冴草さんは喫茶店でお互いに一目惚れしてたんだから。悠子さんが邪魔しなければ私と付き合ってくれてたんです』
勝手に何を言っている。小野に一目惚れした覚えはない。悠子ちゃんが本気にしたらどうするんだ。
『えっと、小野さんは和泉さんのストーカーなのかな』
違いますと否定する小野に悠子ちゃんは冷静だった。
『だとしても迷惑って言われたら食べ物を贈るのは止めるべきだよ。わかってるんじゃないの?』
『私にはこれしか方法がありません。もう友達には冴草さんのこと彼氏だって自慢しちゃったし、私このままじゃブロックされて一人になっちゃうんです!』
思っていた以上の言い分に腹が立った。俺は小野のブランドバックじゃない。そんな精神で友達に好かれると思ってるのは間違いだ。その友達に嫌われるのは時間の問題だろう。
「昔はああいうコじゃなかったんですよ。素直で甘え上手の頑張り屋でした。私が中学を卒業して、新しいバイト先で再会したら高校の友達をあまり馴染めていないみたいで……」
ハピネスは小野を見ながらポツポツと話始めた。おかげで悠子ちゃんと小野の話し声が聞こえづらい。
「二年もすれば人だって変わる」
「こんなに追いつめられていたなら、私に相談してくれればよかったのに」
「……お前に余計な心配を掛けたくなかったんだろ」
小野がハピネスのことを慕っていたのなら、憧れている先輩に自分の醜いところを晒すのは勇気がいる。
「心配させて欲しかったんだけどなぁ」
「今、正にしてるだろ。静かにしてあいつの心の声を聞け」
自分から言い出した癖に盗み聞きを邪魔するのは止めて欲しい。ハピネスが静かになってようやく再び二人の声が聞こえてきた。
『けどもう私には後がないんです』
『あるよ、沢山出来ることはあるでしょ。あなたはそれをやろうとしないだけ。迷惑かけたなら謝ればいい。友達にも本当のこと話して、頑張り直すことだって出来る。私にだって友達に嫌われたくない気持ちはわかるけど、嘘ばかりついてたらそれはもう自分じゃない』
まるで、今の自分のことを言われているように感じてドキッとした。
悠子ちゃんに嫌われたくないあまり、俺は色々なことを我慢している。
自分の気持ちに嘘ばかりついて悠子ちゃんの理想の兄になれたとして、それは俺を好きになって貰えたことにはならないのに――。
『偉そうに。お説教は止めてください――そうやって余裕ぶって、私が写真のことバラしてもいいんですか』
小野の脅しに俺は怯まずにいられなかった。
もし、悠子ちゃんが小野の脅しに屈してしまったら、俺はどうすればいい?
―私の知りあいで和泉さんと付き合いたいっていうコがいるんですけど……前向きに考えて頂けませんか?―
想像するだけで胸が痛かった。
他の誰より、悠子ちゃんにだけは言われたくない。
小野と付き合っても悠子ちゃんは構わないのだと、思い知りたくない。
俺には悠子ちゃん以上の女の子はいない、その本人に悲壮な顔で頭を下げられたら俺は断れるのか?
『余裕なんてないし、勿論言わないで欲しい』
悠子ちゃんの言葉に体がくらりと傾いた。
俺の想像が現実になろうとしている。
「だ、大丈夫ですか」
隣にいたハピネスが俺の体を支えた。
「大丈夫じゃない……」
こいつに心配されるなんて余程弱っているように見えるのだろう。
彼女の心の平穏に繋がるなら何だってしてあげたい。
俺が小野と付き合うことで悠子ちゃんの秘密は守られる。あの女は死ぬほど嫌いだ、けれどそれが悠子ちゃんの願いであるならば。心の中でいくら葛藤しても自分と悠子ちゃんを天秤に掛けたら、どんなにつらくても傾く方は決まっていた。
『でも小野さんに協力するくらいなら――いいよ。言っても』
一瞬、悠子ちゃんが何を言ったか、わからなかった。
え? つまりどういうこと、と混乱しているとすぐに答えは降ってきた。
『趣味のことがバレても、和泉さんを犠牲にするよりはずっといい』
あんなに必死に隠してきたのに? 本当に……?
驚きが確信に変わり、じわじわと喜びが込み上げてきた。
これまでの悠子ちゃんの奮闘ぶりが頭に蘇る。俺が悠子ちゃんの部屋に入るのを拒否されたり、出掛け先も秘密にされたり、仲島のことも何友達なのか曖昧に誤魔化されたり、あの努力の数々が無になってしまうのに……目が潤み始めて、すぐに腕で涙を拭った。
『……小野さんには知っておいて欲しいんだけど、私は意地悪で協力しないんじゃないよ。和泉さんに心から好きな人が出来たら反対はしない』
そんな、俺は悠子ちゃんならぜひ反対して欲しい。私のお兄ちゃんを取らないで! 位のことを言ってくれると嬉しい。
『和泉さんが純粋に誰かを愛せるようになったら、それはとても幸せなことだと思うから』
「……うぅ、愛しいっ……」
思わず心の声が口から漏れた。
がくっと地面に片膝をつき、手で胸を押さえる俺をハピネスは呆れた目で見ていた。
『人を好きになるなんて、簡単なことじゃないですか』
『簡単だって、言えない人もいるんだよ……』
そう、簡単に誰かを愛することなんて俺には出来なかった。
愛は決して絶対なんかじゃない。時に一方的で打算的であり移ろいもする。
信じることができなかった。
それでも、今の俺には黒く濁った物が綺麗な物なのだと少しずつ解るようになってきたのだ。幾重にも重なり俺を押しつぶしてきた穢れを悠子ちゃんが洗い落としていくような日常の中で視界が拓けていった。
自分には手の届かないと思っていた物は実は傍にあって、それに気付かせてくれたのが彼女と言う名の愛だった。だから信じたいと思えるようになった。
今すぐ攫ってもいいだろうか……。
いきなりぎゅってしたら怒るかな? 怒られてもいいから抱きしめたい。
「あの、感動してるところ悪いんですけど悠子ちゃんと小野ちゃんの話合いが終わりそうですよ」
「まだ、もう少しこの余韻に浸っていたい……」
空気を読め、ハピネスめ。悠子ちゃんの神々しさにお前も平伏せばいいのだ。
「……悠子ちゃんは、お兄さんがバイト先のお店の間で待ってると思っているから急いで戻るみたいですけど」
「じゃあ、俺もすぐに戻らないとな」
スタッと立ち上がる俺を見てハピネスの口から笑いが漏れた。
「……何だよ」
「いやぁ、わかりやすい人だなぁ、と」
微笑まし気な目でハピネスに見られて居心地が悪い。
「ちょっとあなたのことが解ってきました。お兄さんは、悠子ちゃんが何を隠しているか前から知っていたんじゃないですか?」
「俺は知らない。悠子ちゃんの口から聞かない限りは」
「――やっぱり。悠子ちゃんの為なんですよね。だから知らないふりをする」
それが最善だ、と俺は思っている。叶うことならいつか悠子ちゃんが自ら教えて欲しいけど、それはきっと今ではないのだ。妃さんが俺の答えを待ってくれているように俺も辛抱強く待ちたい。
「誤解しててすみませんでした。お兄さんはただのシスコンじゃなかったんですね」
「俺をそこらへんに転がってる兄だと思ったら大間違いだ! 舐めて貰ったら困る」
「最初から、そんな予感はしてましたけど……悠子ちゃんは苦労するだろうなぁ」
聞き捨てならない台詞だが否定も出来ずに言葉に詰まった。
「しかも自覚があるんですね。性質が悪いですよ」
「お前に言われたくない」
「お前じゃありません。自己紹介がまだでしたね。私は成瀬幸と申します」
「よろしくしないぞ、俺は」
「ええ、でもあなたとはまた会う機会があると思いますので一応」
食えない笑顔を浮かべた成瀬に俺は顔を顰めた。
会う機会があるということはこれからも悠子ちゃんと仲良くするという意味だ。
宣戦布告か……悠子ちゃんに関しては一歩も引く気はない。キッと睨み返す俺に成瀬はにやりと笑った。まったくもって面白くない。
「じゃあ、私は小野ちゃんに付き添いますね。悠子ちゃんのことはお願いします」
「お前にお願いされる筋合いはない!」
俺の反論を背中に受けて成瀬は、噴水の所で座る小野の元へ駆け寄っていった。
悠子ちゃんの姿を探せば商店街の中を突っ走る後ろ姿が見えた。
先に総菜屋で待っていないと悠子ちゃんが不審に思うかもしれない。
俺は商店街の一本隣の道に逸れて、総菜屋に向かって走った。




