24 兄の問題
悠子ちゃんが俺の理性を殺しにかかってくる……。
俺は回る洗濯機の蓋に両手を付いて溜め息を吐いた。
「抱き潰すべきか、目を潰すべきか。それが問題だ」
警戒心の強い悠子ちゃんが自ら俺に近寄ってきてくれるなんて、土日だけの奇跡かと思えばそんなことはなかった。
今日は、学校から帰ってきたらレースの白いエプロン身につけた悠子ちゃんがお玉を持って「おかえりなさい、和泉さん」ってはにかむように笑うから、一瞬都合の良すぎる夢が遂に3D化したのかと手でごしごしと目を擦ってしまった。
あのエプロン、以前誕生日にプレゼントしたけど一度も着てくれなかったのに……。
一ヶ月前の自分だったら確実に可愛いって連呼しながら抱き締めて頭にキスしてたし、悠子ちゃんの姿をカメラにおさめていただろう。でもそれをしてしまったら意味がないと断腸の思いで耐えた。蛇の生殺し、つらい。
「あ、うん、ただいま」
と返事をするのが精一杯だった俺は、悠子ちゃんの横を通り抜けてダッシュで部屋に戻った。荒い息が落ち着いて、脳内のエンドレス悠子ちゃんの姿が薄れるまでしばしの時間を必要とした。
――そして夕日が沈む頃、ようやく家事に勤しむ余裕が出てきた俺は洗い物を入れて洗濯機を回し始めたのだ。
貴士は悠子ちゃんに変化の理由を聞けって言ってたけど、気が進まない。
普段の悠子ちゃんは人見知り気味で、異性がちょっと苦手な、内気な女の子なのだ。そんな女の子が、俺からの接触を好むとは思えない。俺だって異性からべたべた触られて嫌な思いをした経験があるからその気持ちは解る。
だから今の積極的な悠子ちゃんはちょっと無理をしているように思える。俺の悠子ちゃん断ちが急だったから、悠子ちゃんはパニックになっていて自分のしていることがよく解ってないのだろう。
「和泉君? 洗濯物、足したいんだけどまだ間に合うかしら?」
不意に後ろから妃さんに声を掛けられてハッとした。その手には豊が使っていただろうタオルケットが乗っていた。
「まだ、回し始めたばかりなんで大丈夫ですよ」
「良かった、明日は夕方から雨みたいだから今日の内にやっておきたかったのよ」
ホッとする妃さんからタオルケットを受け取り、一度洗濯機を止めてロックが外れるのを待つ。
「ねぇ、和泉君。この前のストーカーの女の子の件ってどうなってるの?」
その内、話そうと思いつつ悠子ちゃんのことで心のゆとりがなく妃さんに話せていなかった。もしかしたら妃さんはずっと聞きたかったのかもしれない。
「大丈夫ですよ! 最近は大学にも来ませんし、一度彼女のバイト先まで行って訴えたのが効いたんでしょうね」
「そもそもその子が和泉君の大学まで行ってたとか、――初耳なんだけど?」
「す、すみません。けどあれから変な郵便物もなくなりましたし、顔も見かけていませんから安心して下さい」
至近距離から妃さんの疑いの眼差しを向けられてつい目を逸らしてしまった。
しかし、妃さんに言ったことは嘘偽りのない事実だ。俺がストーカー女子、小野のバイト先まで忠告しに行った後からぱったりとストーカー行為がおさまったのだ。
悠子ちゃんといる所を盗撮されたりもしたから、さりげなく周囲を気にするようにはしていたのだがそれらしき人影はなかったし、頻繁に届けられて困っていたプレゼントという名の不審物もなくなった。
俺が注意しに行った時の態度や発言で幻滅してくれたのだろう。小野はめそめそ泣いてたし、それだけ厳しく言った自覚はある。
「なら、いいんだけど……本当に何も隠していないのよね?」
「っ信じて下さい、妃さん」
これ以上説明しようがない。自分でもあっさり解決して肩の力が抜けている位だ。こんなことならもっと早く行けば良かった。
「信じてあげたいのよ、私もね」
肩を竦めて妃さんは苦笑した。
「悠子以上に和泉君は秘密主義だから」
家族には出来る限り誠実に接している。でもそう見えてしまうのは、俺の努力が足りないのかもしれない。
「えっと、妃さんは俺の何が知りたいんですか?」
何でも答えますけど、と伝えれば妃さんは唇の端を持ち上げて綺麗な笑みを浮かべてみせた。
「それはいつか、あなたの意志で教えて欲しいわ」
妃さんはポイッと洗濯機にタオルケットを入れて離れていった。
もう一度、洗濯機のスイッチを押して再スタートする。
――そんな日が、いつかくるのか。
それが何かも解らないのに、俺は知りたくないと心の中で拒否していた。
翌日、俺は悠子ちゃんのバイト先である総菜屋に向かっていた。普通の兄なら悠子ちゃんを迎えに行くの止めるべきかと考えたりもしたが、祖父の忠義さんは妹を支え守ってこそ兄の中の兄だと誉めて下さった。暗闇に紛れて狼藉を働く輩が現れる可能性がある以上、夜のボディーガードは止められない。
夜の九時、総菜屋の裏口の前に着くと悠子ちゃんの姿がなかった。まだ仕事が終わっていないのかもしれない。気長に構えて待っていると裏口の扉が開いた。出てきたのは一人のおばちゃんだった。確かいつも悠子ちゃんに野菜をくれる土屋さんという人だ。
「こんばんわ、土屋さん」
「あらあら私の名前を覚えてくれてるの? ありがとう、和泉君」
そんなお礼を言われる程のことではないので何て返せばいいのか返答に困った。
「悠子ちゃんを待ってくれているのよね。もう少し待ってあげてね。お友達と少し話があるみたいで向かいの喫茶店に行ったのよ」
「お友達って眼鏡をかけた男でしたか?」
もし相手が仲島なら安心出来ると思い尋ねてみたが土屋さんは首を振った。
「ううん、眼鏡はかけてなかったわ。喫茶店で働いてる綺麗なコよ」
ということはハピネスだ。一瞬、小野の可能性も考えたが写真に映る悠子ちゃんの顔を黒く塗り潰すような女だ。決して悠子ちゃんの友達ではない。
ハピネスめ、こんな夜中に呼び出すとは……もしやいかがわしい所に連れて行くつもりじゃないだろうな。
趣味が同じだからと油断している悠子ちゃんを甘い言葉で誘いこむのは簡単な筈だ。
一刻も早く助けに向かわねばならない!
「教えて下さりありがとうございます。今なら喫茶店に悠子ちゃんがいるかもしれないのでちょっと覗きに行ってきます」
「ええ、心配だものねぇ。もしその間に悠子ちゃんが戻ってきたら和泉君が喫茶店に行ったこと伝えておくわ。そうすればすれ違わないでしょう?」
土屋さんには感謝しきれない。俺は土屋さんに頭を下げて、喫茶店へと急いだ。




