21 妹の躊躇 後編
……さっきのは一体何だったんだ。
ふらふらとおぼつかない足で部屋に戻った私はベッドに腰を下ろして頭を抱えた。
人の首にキスとか、思い出すだけで頭が沸騰する。あれも家族に対する愛情表現のひとつなんだろうか。色々深読みしたくなるけど兄のことだ。深く考えても無駄だろう。そう思わないと激しい動悸がおさまりそうにない。
背後のベッドに上半身を倒して天井を見上げた。
この数年で兄にも慣れてきたつもりだったが、流石にキャパシティーオーバーだ。
一緒に帰宅している時は、私に触らないようにしていたのに、寝ている時にあんな風に触れてくるなんて……解らない。
兄の思考は時に難解で読みづらい。それは育ってきた環境の影響が大きいのだと思う。時々、兄や父の口から漏れる兄の過去は聞いている方も胸が痛くなる。
私と少し距離を置くようになった理由もお父さんに聞けばわかるかな……。けど海外で仕事中の父に国際電話を掛けるのも躊躇われた。迷いながらアドレス帳を開いて、ある人の名前が目に入った。
兄の友人である佐藤さんなら何か知っているかもしれない!
確か兄と同じ大学に通っていて、休みの日も時々一緒に遊びに行ったりしている。しかし、佐藤さんと私は二人きりで話したことは一度もない。知り合いと言えども電話を掛けるのは勇気がいった。
ベッドの上に座り直して息を整える。
現状を変えたいなら、まずは自分が変わらなければならない。
私は覚悟を決めて佐藤さんに電話をした。
『もしもし、佐藤だけど妹ちゃん……?』
「そ、そうです。夜分遅くにすみません。急で申し訳ないんですが佐藤さんに相談がありまして」
と私は、最近の出来事を佐藤さんに説明した。兄のこの一週間の変化を伝えると佐藤さんも兄の異変を察し始めているようだった。
『前と違ってさ、妹ちゃんの話をしてこないんだよ。いっつも俺に惚気てたのに最近はさっぱり。昼食の時、メールも送らなくなったしな。喧嘩したのか聞いてみたりもしたんだけどさ、してないんだろ?』
「あの、実は意見のすれ違いのようなものはあったんです。先週の日曜日、友人と出掛けたんですけどその時に着てた服が汚れてしまって友人に服を貸して貰ったんです。その服で家に帰ったら兄にその場でぬ、脱いで欲しいと言われましてお断りをしたんですが……それって駄目だったでしょうか?」
『駄目じゃないよね。それは兄としてアウトだよね!!』
よ、良かった。心の奥底であの日のことが引っかかっていたので佐藤さんに肯定してもらえてホッとしてしまう。
『あぁ、でもあいつ、そのこと気にしてんのかもしれないな……。妹ちゃんはさ、和泉がどういう家で育ったか知ってる?』
「は、はい。全部ではないですけど和泉さんやお父さんから話を聞いてます」
寮に入る前の兄はストーカーや誘拐犯が日常的に存在するような生活を送っていたらしい。家族で食事を囲む楽しさも知らずに育った寂しい少年時代を過ごしていたと父も話していた。
『あいつは普通の家族に憧れてても、その普通がわからないから悩んでた。先週俺と和泉ともう一人の友人の日野ってヤツと定食屋で話してた時にさ、そいつが和泉の妹に対する態度が兄として普通じゃないから気をつけろって助言したんだよ。事情を知ってる俺からすると余計な一言だったけどな。あの後も考え込んでたし……和泉の行動も妹ちゃんの為を思ってのことだろう』
つまり今、兄は《普通の兄》らしいことを実行しているらしい。
それはきっと以前の私が求めていた理想の兄なのだろう。
母が再婚して華々しい容姿を持つ兄が出来た時、もっと普通の人が良かったと私は思っていたし、実際口にしたこともある。私は知らず知らずの内に兄のコンプレックスを刺激していたのだ。
『え、怒ってなんかいないよ。俺普通でしょ』
夕方に私が尋ねた時、兄はそう口にしていた。それが兄の目指すかたちだったのだ。
「っ見当違いもいいところですよ……」
兄のしていることを理解して涙が出そうになった。
自分をねじ曲げて自らを苦しめないで欲しい。
私は見たこともない理想の兄じゃなくて、和泉さんだから好きになったのだ。
『そうだよね、俺もそう思う。でもほら、あいつ妹ちゃんのことになるとちょっと駄目な男になるんだよ。知ってるだろ?』
「――そうですね……そうでした」
脅迫めいた手紙をラブレターと勘違いしたり、仲島を彼氏と思いこんだり、女友達から借りた服を男の物だと聞く耳を持たなかったり……。けどそれも妹を失いたくない警戒心や恐怖心からきているのだろう。
「私は早く元の和泉さんに戻って欲しいんですけど、い、和泉さんに私から、触っても平気ですよとか言うべきですかね……?」
『っそれは、ヤバいから止めた方がいい! 破壊力がありすぎる』
破壊力? 私としては恥ずかしいけど兄が安心するなら伝えるべきかと思ったのだ。しかし、佐藤さんの答えを聞く限りこの方法は間違っているらしい。
『あいつの歯止めが効かなくなるからさ。今も和泉は必死に耐えてるところだと思う』
だから寝てる時なら私に嫌がられないと思って触れてきたのだろうか……。確かに私から許可をどうなるのか。あれ以上のことをされたらと考えて顔が熱くなった。
『あ、俺のこと疑ってる? けど自信あるからね。俺は中学一年の時からずっとあいつの傍にいて見守ってきたんだ。初対面の時の和泉は凄かったよ。能面みたいな顔で棘々しくて誰も近づこうとしなかった。俺は同室だったから嫌でも関わんなくちゃいけなくてさ、必死だった。綺麗な顔して人を馬鹿にしたいけ好かないヤツって最初は思ってたけど少しずつ話すようになってわかった。あいつは昔から人と接するのが嫌なんじゃない。怖いだけなんだ』
八年も前から兄を見守ってきた人から言われると説得力が増す。兄に対する熱い友情を感じて嬉しくなった。佐藤さんは長い間傍で兄を精神的に支えてきてくれたのだろうとわかってしまったから。
『今のあいつは妹ちゃんを傷つけるのが怖くてびびってる犬だと思って、妹ちゃんが大丈夫だって教えてあげてよ。前に和泉がしてたことを妹ちゃんからするようになれば、安心して元に戻るだろ』
兄が私にしていたことを私から……?
思い出してボッと顔に熱が灯った。
「どうしても、しなきゃ駄目ですか?」
『え、妹ちゃん、いつも和泉に何されてたの』
と、とても口には出来ない。あれが日常的になりつつあったんだから私も大概慣らされていた。
『うん……妹ちゃん、わかったから何も言わなくていいよ。嫌だと思うことはしなくていいからね。本末転倒だから』
返答に窮していると佐藤さんは、先回りしてフォローしてくれた。こんなに気の効く人が傍にいたら兄が頼ってしまうのも当然だろう。
「が、頑張ります! 兄のこと、沢山教えて頂きありがとうございました」
『どういたしまして、また困ったらいつでも電話して』
なんて頼り甲斐のある人なんだ。私はぺこぺこ頭を下げ再度お礼を言って電話を切った。
打開策が見えてきてひと安心だ。
これからどうにかしてその兄の誤解を解かなければならない。以前兄がしてくれたように、今度は自分から兄に近づいて努力する番だ。
とりあえず今日は寝て、明日から頑張ろう。久しぶりに明るい気持ちで寝ることが出来る。私は布団にもぐり込んで心地良い眠りに落ちていった。