21 妹の躊躇 前編
「今日もメール無しとは……」
下校途中、スマホの画面を確認した私は首を傾げた。
最近、兄からのメールがめっきり減った。今日のお昼もお弁当メールが届かなかった。一日に数通来ることも少なくなかったのに今週に入ってからは必要最低限の連絡だけになった。
最初は兄のスマホがまた故障したのかもしれない、と軽く考えていたのだがすぐにリビングで兄が操作をしているところを見たのでその線は消えた。どうやら兄は意図的に私に連絡する数を減らしているようだ。
鞄にスマホをしまい住宅街の角を曲がるとその先に兄の後ろ姿を見つけ、走って兄に駆け寄った。兄はその足音で反応したのか、くるりと後ろを振り向いた。
「あれ、珍しいね。悠子ちゃんと帰る時間が一緒になるなんて」
「そうですね、まぁ今日はバイトもないですし」
兄の隣に並ぶとすっと兄が私から離れた。その行為に私は違和感だらけだ。
「あの和泉さん、……この前のこと怒ってますか?」
「え、怒ってなんかいないよ。俺普通でしょ」
とにこやかに笑っているが信じ難い。
兄の変化はメールだけでなく、態度にも現れている。
外では何かと私と手を繋ぎたがる兄が、繋ぐどころか少し距離を置くのだ。
先日もリビングで勉強している私を見て、兄は「頑張ってね」の一言を掛けて部屋に戻っていったのでびっくりした。
いつもはこれでもかというくらい私の傍にへばりついて懇切丁寧に勉強を教えてくれる兄が何故?
それに兄から遊園地の誘いがあるかと思って土日を空けてあるけど忘れてしまったのだろうか。ついこの間のことなのに?
何度も不思議には思った。けど聞けなかった。
何故かと言えば兄は私を無視するでもなく、普通に接してくれるし日常会話も成り立っているからだ。
昨日、母にも相談してみた。最近兄の態度がいつもと違っているから戸惑っていると。その変化について母に伝えみれば、「それで悠子は困ってるの?」と逆に聞かれて言葉に詰まってしまった。
これまで兄には節度を守って接して欲しいとは何度も思ったし、兄の接触が減れば自由時間が増える。実際、私に被害はないのだ。母には「悠子のわがままで和泉君を振り回さないようにね」と釘まで刺されてしまった。
いつも振り回されてるのは私の方なんだけど……。
母の言葉に釈然としないものを感じながら頷いておいた。
「悠子ちゃん、危ないっ」
兄の声でハッと意識が戻った瞬間、ごつんと額に痛みが走った。
考え事をしていて電柱に頭をぶつけるなんて人生で初めてやらかした。
「いったぃ」
間抜けな自分の恥ずかしさと額の激痛のダブルパンチだった。両手でじんじん痛むおでこを押さえて擦ると兄が心配そうな顔で私に手を伸ばそうとして引っ込めた瞬間を捉えてしまった。
「大丈夫? 悠子ちゃん、病院行く? 内出血とか起こしてたら大変だし」
「び、病院に行くほどじゃないんで。たんこぶが出来るくらいで済みますよ」
「そう? 無理しないでね。悠子ちゃんの代わりなんてないんだから」
「は、はい……」
眉根を寄せて兄が心配してくれてるのが伝わってくる。これは自業自得なので兄が傷ついた顔をする必要はないのに申し訳ない。
「ちゃんと前を見て歩いて。車が突然やってくることもあるし左右も気にしてね。絶対知らない人にはついて行かないように。いや、知ってる人も危ないな……」
それから家に着くまで兄は左右だけでなく、後ろまで振り返ったりしながら私の隣を歩いた。その兄の護衛ぶりにちょっと安心してしまう。
少なくとも嫌われてはいないのだ。それが解っただけでも良かった。
家に帰って私服に着替えた後、冷蔵庫を覗きに行くと肉まんが二つ残っていた。
小腹が空いている所にちょうどいいものを発見した。
袋からひとつ取り出し、肉まんに水を少しつけてラップで包んで電子レンジの中に入れた。その間にコップにお茶を注いで準備しておく。
レンジから温まった肉まんを出し、もうお片方の手にお茶を持って向かった先はリビングのソファだ。こたつに入ると危うく出れなくなってしまう。
お茶をローテーブルに置き、ソファに座って肉まんをぱくりと口にした。肉の旨味とふわっとした感触の皮の甘みが口の中に広がっていく。美味しい食べ物は日常の些細な悩みを少しだけ忘れさせてくれる。
イベントで売り子をしたり、兄には借り物の服を脱いで欲しいと迫られたり、兄の態度が微妙に変化したり、落ち着かない日々の連続で疲れた。
引きこもりたい。一週間ぐらい部屋でゴロゴロしながら二次創作の小説を読み続けていたい。
背後のクッションを枕にしてソファの上にごろんと横になった。あと一口になった肉まんを口の中に放り込んで名残惜しみながら咀嚼する。もうひとつあったけど、兄が食べたいかもしれないから我慢したのだ。
以前の兄なら今頃私の隣に座って仲良くテレビでも見ながら一緒に食べていただろう。そんなことを考えて眦にじわっと涙が滲んで、驚いた。
お出かけに誘われなかったり、メールの数が減ったり、私に触れなくなったりしても兄は笑顔で接してくれるし私はどうすればいいのかわからなかった。
このままでもいいんじゃないかと思いながらも嫌だと思う自分がいた。
「馬鹿だなぁ」
今更になって気付いた。私は寂しかったのだ。
いつも口では抵抗しながら私は兄からのメールや接触を期待していたのだ。それでいて兄が自分と距離を作り始めたら不審に思い始めるなんて。
「私の我が儘で振り回すなってそういうことか……」
母の言葉が心に刺さり、ソファで丸くなった。
兄には前のように接して欲しいけどどうすればいいだろう。普通にお願いしてもはぐらかされてしまう気がした。
ぐるぐると解決策を考えていると人が近づいてくる音がして思わず目を伏せた。本当は飛び起きて走って部屋に戻りたい。けど今家にいるのは兄だけなのだ。ここで私が逃げ出すように兄から離れていったら更なる誤解を受けてしまうかもしれない。
ここは大人しくしているのがベストだと狸寝入りすることにした。
すると兄がソファの背面から正面にまわって、私の方をじぃっと見ている気配がする。狸寝入りだとバレてるのではないかと緊張してきた。
「かっかわ……」
と聞こえてきた兄の呟きの後、スマホのシャッター音がリビングに響いた。何度か同じ音がしてようやくおさまり安堵する。
和泉さんっていつもこんなことしてるんだろうか。
恥ずかしいからやめて欲しい。自然と顔が熱くなった。
「やっぱり赤くなってる」
えっ!! と内心驚いていたらおでこになんだか冷たいシートを貼ってくれたのが解った。先程電柱にぶつけた額のことを気にしていてくれたらしい。
本人が忘れかけていたようなことを……兄の優しさが胸に沁みた。
「ごめんね、悠子ちゃん。情けない兄で」
兄の懺悔に胸が痛む。そう思わせてしまっている自分に。
もういっそのこと寝たフリを止めて、今から私の正直な気持ちを兄に伝えてしまった方がいいのではないか。
よし、と気合いを入れて起きようとした時、首に柔らかな感触が落ちてきて動けなくなった。
い、いいいいいい、今何をされた!?
パニックになりつつ、もそりと寝返りを打つふりをして熱い顔を隠した。
こんな状況で起きれる筈もない。私は兄が傍を離れて階段を上っていく音が小さくなるまでずっと耳を澄ませて聞いていた。