20 兄の自責 後編
口論の後、夕飯の席で悠子ちゃんはびくびくと俺の様子を伺っていた。俺がまだ怒っていると思っているのだろう。その不安を払拭するように普通に話しかけるとあからさまにほっとした顔を見せたのでこれで良いんだと自分も安堵した。
話し合っても平行線を辿るなら追求するべきではない。俺は今のままで十分に恵まれているのだから感情に振り回されてはならないと肝に銘じた。
月曜日になり、大学の食堂で一人昼食をとっていると貴士がパンを持って傍までやってきた。
「何、辛気くさい顔してんだよ。まずいメシ食ってるみたいに見えるぞ」
「それはない。悠子ちゃんの手料理は世界で一番美味しい」
しかも昨日の口論の罪悪感からなのか、俺の好物ばかり入れてくれている。悠子ちゃんは、悪くないのに優し過ぎる。青椒肉絲を口に運んで舌鼓みを打った。
「平常運転だな――良かったよ。昨日、日野の言ったこと気にしてんじゃないかってちょっとな」
「まぁ…あいつの言うことも少しは、解る」
納得がいかない所もあるけれど、あれが一般的意見なのだろう。
「実際、貴士は妹を遊園地に誘ったりしてないしな」
「それはどんな天変地異だ。あいつと遊園地に行くなら二日間一人で行く方がマシだ」
やっぱりな。常識的な貴士が言うのだから日野の指摘は無視できるものではない。もう少しちゃんと勉強する必要がありそうだ。帰る途中にレンタルショップでDVDでも借りよう。
「それより、お前あのストーカーのコ大丈夫なのか。今日は来てないみたいだけどあんまり放置も出来ないだろ」
「今日、決着をつけに行く」
「決着って!? お前大事にしたくないって言ってただろ!」
「話合いで済ませるつもりだ」
これでストーカー女子、小野が引き下がらなかったら妃さんの出番になってしまう。仕事をしながら子育て中の母親の手を煩わせたくない。
今日は何としても穏便に解決に持ち込みたい。
「いつまでも逃げてばかりはいられないからな」
「何で、急に」
「もう俺だけの問題じゃないんだよ。悠子ちゃんが危ない」
悠子ちゃんの顔を黒く塗りつぶした写真を送ってくるような人間だ。悠子ちゃんに危害を加えられる前に撃退なければならない。
俺はパチンと食べ終わった弁当の蓋を閉じてランチバックに閉まった。
「無茶するなよ」
「出来る限りはな。俺だって捕まりたくない」
暴力沙汰を起こして問題を起こせば、悠子ちゃんが犯罪者の妹扱いされてしまう。そんな生きづらい人生を彼女に歩ませるくらいならいっそ死にたい。
立ち上がった俺は顔を引き攣らせる貴士の肩をポンと叩いて次の講義の教室へ向かった。
ありがとうございました、と店員にDVDが入った黒い袋を渡されてレンタルショップを出た。学校帰り、レンタルショップを出て歩いて向かう先は小野が勤める喫茶店だ。
今思えばあの時、小野から貰った連絡先を捨てるべきじゃなかったかもしれない。そうすればわざわざ人目のつく場所まで足を運ばずに済んだ。
小野に対する要求は二つ。まずは俺のストーカーを止めること。そして、家族に手出しをしないこと。
最悪の場合、後者だけでもいい。これからもストーカーは湧いて出てくるだろう。寮を出た時に覚悟していたことだ。後悔はしていない。
代わりに俺は何物にも代えがたいモノを手に入れた。
それを手放さない為なら何でも出来る。
例の喫茶店に着いた俺はガラス窓から中の様子を伺った。予想通り、小野は喫茶店で接客をしていた。その姿を見るだけでげんなりしてしまう。今日会えなければ出直すしかないから、いてくれるのは助かるのだが会いたくて会いに来てる訳じゃない。
重い足で喫茶店に入店すると早速、あの女がやって来て元気良く頭を下げた。
「いらっしゃいませ! 私に会いに来てくれたんですね」
安里といい、小野といい、俺が嫌な顔をして見せても何故都合良く解釈出来るのか。思考回路が理解出来ない。
にっこりと嬉しそうな顔で先を歩こうとする小野に「ちょっと待てくれ」と声を掛けた。
「……出来れば二人で話したいことがあるんだ。仕事中で悪いけど少し時間が欲しい」
「え、ええ、も、勿論冴草さんとなら喜んで。ちょ、ちょっと待ってて下さい! 今、店長に休憩貰えないか掛け合ってきますね」
頬を紅潮させ興奮した様子で小野はバックヤードに入っていった。
用件だけ告げてすぐに帰りたいが説得出来るのか、不安が過ぎったが弱気になるのは禁物だ。前回と同じ轍は踏みたくない。
「あの十分だけなら休憩いいって言われたんで中へどうぞ」
小野に言われるがまま付いていくと突き当りにあるのはスタッフ用の休憩室のようだった。勝手に部外者を中へ入れていいものなのか。常識的には駄目だろう。
けれど十分しか時間が取れないのなら、場所を選んでいる時間はない。
扉を開けると休憩室の中には誰もおらずホッとする。あまり他人に聞かせたい話ではない。
「あの一昨日のキッシュはどうでしたか? 自信作だったんですけど……」
ちらちらと俺の顔を伺いながら小声で尋ねてきた。その様はいかにもわざとらしく女のあざとさを感じさせた。
「食べてない。それよりああいうのは止めて欲しいってこの前言ったと思うけど」
「またまたぁ~! ただの照れ隠しですよね。合コンで私のこと好きだって言ってくれたじゃないですか。片思いしてるって情熱的に語ってくれて感激しちゃいました。だから私からも両思いですよって伝えたくて贈り物とかしてみたんですけど……伝わりましたか?」
小野はぽぉっと頬を染めて合コンの時の記憶を思い起こしてるようだ。まさか日野と同じ勘違いをこの女がしてるなんて。まずはその誤解から解かなければならない。
「プレゼントも大学に来るのも止めてくれ。そもそも俺が好きなのは君のことじゃない」
「じゃあ、悠子さんのことなんですか」
唐突に言い当てられて小野を睨んだ。
「あの人、あれで私の真似をしてるつもりなんですかね。冴草さんに好かれるのに必死過ぎません? みっともない」
心の底から目の前の女を殴りたくなって拳を握った。悠子ちゃんの何がみっともないって? 腹の中で苛立ちが沸々と煮えたぎったが――我慢だ。相手の挑発に乗ったら話にならない。
「俺のことは何言ってもいいけど悠子ちゃんを貶すのは止めてくれないかな」
「本当のことですよ?」
「大切にしてる妹を貶したり、顔を塗りつぶした写真を送ってくるような人間に好意は抱けない。俺はいつでも君をストーカーとして警察に付き出すことも出来るんだよ。でも出来ればしたくない」
「私のことが好きだからって正直に言って下さい」
「君は日常的に警察のお世話になる人間の気持ちがわかる? その家族がどれだけの苦痛を伴うとか考えたことある? ついて回るのは構わないけど俺の家族や悠子ちゃんを傷つけるようなことはもうしないでくれ」
「――嫌です。そうやって私を試してるんですよね? 冴草さんは悠子さんと距離が近すぎますよ。妹をまるで恋人みたいに扱って……異常です。私が普通の道に戻してあげます。だから悠子さんのことは、」
小野が言いたいことが解って、ドンっと壁を叩いた。その音に小野が怖じ気付いて後ろに下がった。
「諦めろって、そう言いたいのか。それであんたを好きになれって?」
小野の言い分に腹の底から笑いがこみ上げた。
俺にとって愛には愛で返せと強制されるのが一番嫌なことだった。
色んな俺に女が愛を求めてきた。俺の意志を無視して愛して欲しいと縋る女もいれば脅してくる女もいた。それが俺はひたすらに怖かった。
自分にないものを強請ってくる女達がわからなかった。
愛さえあれば満たされるのか。寂しさは消えるのか。同じ人間とは思えなくて逃げることしか出来なかった。
その俺が悠子ちゃんに出会って手に入れた感情を誰にも渡したくない。
「だって兄妹なんですよ。誰だって反対するに決まってるじゃないですかっ」
「関係ない。俺は彼女だから傍にいたいんだ」
「冴草さん、正気になって、目を覚ましてください!」
「――つまり、あんたは俺が狂ってるとでも?」
ひっと小野は小さな声を上げると、唇を震わし顔面を蒼白とさせて俺を見上げていた。その黒い瞳からは涙が零れ落ちても同情する気は起きない。
いっそ幻滅して嫌いになってくれれば清々する。
踵を返して休憩室を出ようとした時、外側から扉が開いた。
「小野ちゃん、もう休憩時間終わりだよ」
「さち、せんぱい」
休憩室に入ってきたのはウエイター姿のハピネスだった。この店で働いていたのか。
小野はハピネスに抱きつき、しゃくり上げながら泣いている。
「あなたは小野ちゃんに何をしたんですか」
「手は上げてない。ただの話し合いだ」
「それだけでこんなに泣くはずないでしょう」
ハピネスに睨まれて俺もきつく睨み返した。この男には何が何でも負けたくない。
「小野ちゃん、もう仕事に戻りな。この人とは話したいことがあるんだ」
「せ、先輩が冴草さんに?」
「うん、ちょっとね。すぐに戻るから店長に伝えておいて」
ハピネスは小野の頭を撫でてからここから出て行くように促した。小野は顔を少し赤く染めて店に出て行く。女に愛想を振りまく優男、流石ホストのような顔立ちをしているだけある。
「舞台に行った時もお会いしましたね。悠子ちゃんのお兄さん?」
尾行した時に目が合ったのはやはり気のせいじゃなかったようだ。俺が傍にいると知っていていちゃいちゃしやがって……。性格の悪いヤツだ。
「お前みたいな不誠実な男は悠子ちゃんにはそぐわない。昨日は悠子ちゃんの服を脱がして何をしたこの変態野郎」
「まったく人聞きの悪い、下世話な憶測は醜いですよ」
ハピネスは吐き捨てるように言い放った。小野の前で見せた態度とは大違いだ。
「あなたこそ小野ちゃんや悠子ちゃんまで泣かして最低じゃないですか。反省するべきです」
「悠子ちゃんが、泣いてた?」
俺のしたことで悠子ちゃんが泣いた――しかもこの男の前で。
ズキリと胸が痛んだ。
「悠子ちゃんを追いつめるからです。最初からね、おかしいと思ってたんです。妹の帰宅時間を気にして連絡してきたり、出掛け先に付いてきたり、悠子ちゃんの秘密を暴こうとしたり、自分勝手過ぎます。家族でも許せないことだってある。あなたの執着や依存が彼女の負担になってるんです」
執着と依存。俺の悠子ちゃんへの気持ちは悠子ちゃんにとって重荷にしかなっていなかったのか。思い当たる節がありすぎて返す言葉もなかった。
「人に嫉妬する前に心を入れ替えて下さい。今は仕事中ですから端的にまとめましたがあなたに言いたいのはそれだけです。では、失礼しますね」
バタンと乱暴に扉を閉めてハピネスは仕事に戻っていった。
ハピネスは冷静だった。俺が嫉妬して感情的になっている時も悠子ちゃんのことを思って俺の数々の欠点を上げていった。
「……そんなの、わかってるんだよ」
投げつけられた数々の言葉が積み重なり、遂に最終通告が下されたのだ。
無言で休憩室を出て喫茶店の扉を開けるとポツポツと地面に雨粒が落ち始めた。冷たい雨がコートに滲んでいく。雪まじりの雨が頬を伝って流れていった。
コンビニに入って傘を買う気になれず、俺はポケットに手を入れて暗澹たる雲の下を歩き始めた。




