20 兄の自責 中編
定食屋から家に帰り、俺は黙々と家事に励んでいた。掃除に洗濯が終わってこれから夕飯の支度に取りかかる所だ。
――俺は間違ってなんかいない筈だ。
役立たずだった頃の以前の自分とは違うのだから。
自ら弟の面倒を見たり、車を出して買い出しに行ったり、休日は一緒に旅行に出掛けたり、料理だってするようになった。親父か妃さんと再婚してからの三年間で俺は必要とされる家族の一員になったのだ。
兄として悠子ちゃんを可愛がるのだって間違った行為ではないだろう。仲が悪い兄妹よりよっぽどいい。
だと言うのに日野が水を差すようなことを言うから頭から離れなくなっってしまった。
台所の隅にある棚から適当に料理本を取り出して椅子に座った。ぱらぱらとページをめくると四色の色違いの付箋がついていた。付箋には何も書かれていない。
何別に貼っているのか、最初は解らなかったが青の付箋のページの共通点に気付いて胸が熱くなった。
この付箋、俺の好物ばかりに貼ってある……。
めくっていく内にピンクの付箋は悠子ちゃん、オレンジは妃さん、緑は親父と使い分けていることに気付いた。それは家族が使っている歯ブラシの色だ。
――こういうこと、やってのけちゃうんだもんなぁ。
両親は滅多に料理をしない。となると付箋を貼ったのは彼女なのだろう。俺はある程度料理が出来るようになってからは、ずっとネットでレシピの検索をしていたから気付かなかった。
今度、料理の本と付箋を買って同じことをしよう。まるでアルバムを作るようで食事の度に楽しい作業になりそうだ。
微笑みながら手元の本をめくっていると玄関の扉が開く音がした。本を元の位置に戻して玄関へと急ぐ。
ようやく悠子ちゃんが帰ってきた!
俺の心の中で燻る悩みも悠子ちゃんの顔を見て吹き飛ばしたい。軽い足取りで悠子ちゃんを出迎えに行き――愕然とした。
悠子ちゃんが、出掛ける時に着てた服と違う服で帰ってきた。
明らかに小柄な悠子ちゃんにはサイズオーバーのトレンチコート、どんなに目を凝らしても男物のコートにしか見えない。
何それ、彼コート? 俺のだって着て貰ったことないのに!!
しかも靴とコートの隙間から見えるのは黒タイツのみ。出掛ける時に履いてた足首まで隠れる裏起毛のあったかパンツはどこにいったの!?
男と一緒にいて、パンツを脱がなきゃいけない状況ってなんだよ。
想像して、苛立ちのあまりどうにかなってしまいそうだった。
壁に押しつけて問いつめたい衝動を抑えて俺は平静を装った。
「おかえり、外寒かったでしょ」
「はい、けど腰にカイロ貼ってあるんで」
「こたつついてるよ。コート預かるから入ったら?」
他の男にマーキングされているようで、すぐにでもそのコートを脱いで欲しかった俺は親切ぶって悠子ちゃんに手を伸ばした。
すると、ボタンに手をかけようとした悠子ちゃんの手が突然止まった。もしかしたら好意を抱く男――ハピネスから借り物だから脱ぎたくないのかもしれない。
「そのコート初めて見た。誰かに借りた?」
俺の質問に悠子ちゃんの目が戸惑いに揺れた。
「そ、そうなんです! あのちょっとした事故で服が汚れてしまって、友達から借りたんです」
悠子ちゃんは疚しいことがあるかのように言い訳をした。その様に汚れたんじゃなくて汚されたんだと思った。
大事にしてきたのに、何で何で俺から悠子ちゃんを奪っていこうとするんだ。
そして何故、俺から離れていこうとするんだ。
顔を真っ青にして逃げようとした悠子ちゃんを俺は背後から縋るように抱きしめていた。
「何で、他の男の服なんか着ちゃうの?」
耳の側で小さく囁けばぶるりと彼女の体は震える。こんな事を知っているのは自分だけでいいのに、悠子ちゃんは違うのだ。それが俺にとってどんなにつらく悲しいことか悠子ちゃんは知らないに違いない。
「と、友達は女性ですし、好きで着たわけでは」
「なら、ここで脱げるよね」
以前、仲島のことを悠子ちゃんはまるで女友達かのように語っていた。あの時と同じように偽りを口にしているのかもしれない。
真実であれば、中に友人から借りたという女性物の服を着ている筈だ。
「怖がらないで、ありのままの姿の悠子ちゃんを俺に見せてよ」
どんな悠子ちゃんでもそれが事実なら受け入れよう。そして受け入れた上で対策を練るしかない。
主に悠子ちゃんというよりは、あの男をどうにかするという点で。
俺の願いに腕の中の悠子ちゃんは首を思い切り横に振って応えた。
――ならば、自分で暴くしかない。
悠子ちゃんが首に巻いているマフラーの中に手を入れて緩めると細くて白い肌が晒された。そこに赤い跡がない事に安堵して、マフラーを床に落とした。
でも出掛けに着ていたのはタートルネックだったのだ。それを着ていないのがとても気になった。どこまであの男に服を汚されたのだろう。自分の目で確かめずにはいられずコートのボタンに触れた時、大人しくしていた悠子ちゃんの手が俺の手を止めた。
「ごめんなさい、和泉さん。私には出来ません」
はっきりとした口調で静かに抵抗され、怒られるより謝られたのがショックだった。
きっとあいつの前では服を脱いで、そいつの服を着たのに俺では無理なのだ。その一線を俺には越えられない。
悠子ちゃんの完全な拒絶に俺の世界から色が失われていった。
輝き溢れた未来が薄れていくように色褪せていく。
「それが、悠子ちゃんの答えなんだね」
俺が何を言っても悠子ちゃんの意志は変わらない。これ以上何を言っても拒絶されるだけなら何も言えない。
体からフッと力が抜けて、この場から消えたくなった。俺は悠子ちゃんを困らせてばかりいる。これのどこが《理想の兄》なのだ。
自分が恥ずかしくてたまらなかった。
階段を上り、真っ暗な自分の部屋に入ってうずくまった。
――妹を取られて駄々をこねる兄なんて好いて貰える筈がない。
嫌われたくない、無視されたくない……泣いて欲しくない。
以前、悠子ちゃんに喧嘩した時の記憶が蘇る。
俺が激情に任せて仲島との関係を問い詰めたら絶交だと宣言されて、その後部屋に籠もって啜り泣いていた。
あの時言われた言葉は今も忘れられず胸に突き刺さっている。
同じことを繰り返してたらいつか彼女の心は離れて行ってしまう。
いや、実際に離れつつあるのだ。
どうにかして引き止めたい。その為に自分が出来ること。
考えて行き着いた答えは、初めからひとつしかなかった。
昔の自分には出来なかったことも今なら出来るような気がした。
それが悠子ちゃんにとっても、俺にとっても一番いいことなのだ。家族の間に荒波はいらない。いつまでも春が続くように、穏やかに日常を過ごせるのがお互いの望みなのだ。
唇を引き結び、顔を上げると鏡に自分の姿が映っていた。薄暗い部屋の中で男は虚ろに笑う。その笑みがどこか懐かしくて、まともに見ていることが出来なかった。