20 兄の自責 前編
「夕飯までには帰ってきますから。いってきます!」
元気よく出掛けていく悠子ちゃんをいってらっしゃい、軽く手を振って玄関で見送る。
先約さえなければ俺とデートだったのに……。
日曜日の朝、憂鬱な気分で一日が始まった。
悠子ちゃんは具体的な行き先を言わなかったが検討は付いている。ネットで今日の日付と、同人誌即売会、『ブラッディ―ハンター』の三つのワードを入力したらすぐにヒットした。会場も関東圏だしほぼ確定だろう。
一人置いて行かれるのは寂しいが、どこに行ってるか解っているだけでも以前よりはマシだ。少し離れた本屋に行ってると思えばいい。買い物を済ませて早く帰ってくることを祈ろう。
部屋に戻ってもやることがないので、リビングに向かいソファに座った。大きな窓からは温かな日差しが降り注ぎ、つけっぱなしのテレビからはニュースが流れていた。人気女優をストーカーしていた男が逮捕されたという内容で小野の事を思い出してしまい気が沈んだ。
明日、俺は小野のバイト先である喫茶に行きストーカー行為を止めて欲しいと話をつけにいく。
言葉が通じればいいんだが……。
出来れば穏便に事を運びたいけれど困難を極めるだろう。
不安を抱えながら逮捕劇の流れをテレビを見ているとスマホが鳴った。
ポケットからスマホを出すと日野からメッセージが届いていた。
『今日は遊園地デート日和だな! 恨めしい……』
ハンカチを噛む縦ロール女のスタンプと共に送られてきている。
俺が遊園地の誘いを断られて家で一人寂しくテレビを見ているとも知らずに……。
『デートは断られた。今日はずっと家。せっかくチケットくれたのに悪いな』
『ええ~! 和泉の誘いを断る女子なんかいんの!?』
いるんだよ。それも結構な確率で断られる。彼女は趣味優先の女の子なのだ。
日野の人の傷に塩を塗るような発言にムッとせずにはいられない。
だから怒りマークだけメッセージに打ち込んで送ってやった。
『わりぃわりぃ。じゃあ今日暇なら一緒に遊ぼうぜ。今、貴士とバッティングセンターにいんだよ』
『行かない、どうせ合コンだろ』
『違うって! 正真正銘の事実だから』
そう言われても一度騙された身としては身構えてしまう。事実かどうか判断しがたい。返信に迷っていると貴士から『本当だから信じてやれ』というメッセージと日野からは貴士と一緒にバッティングセンターにいる写真を送られてきた。
日野だけならまだしも貴士が言うのなら嘘ではないだろう。貴士は俺がどれだけ異性を苦手としているか理解している。
俺は日野の誘いに了承し、部屋に戻って出掛ける準備を始めた。
待ち合わせ場所になったのは、バッティングセンターの傍にある定食屋だった。ガラッと引き戸を引くとすぐ傍の机に日野と貴士の姿があった。店内を全体的に見渡しても若い女の姿はない。男性客や高齢の客が多く、俺としては落ち着く空間だった。
「そんなに警戒するなよ、和泉。いくら俺でもこの店で合コンはしないって!」
「いや、その逆手をとってくる可能性もある」
「俺、どんだけ信用ないのよ」
「自業自得だろ……」
と貴士は肩を落とす日野を呆れた目で見ていた。
見た限り俺の危険対象はいないようなのでようやく貴士の隣の椅子に座った。日野と貴士はこの店の常連らしく、揃って俺にカツ丼をススメてくるのでそれを頼むことした。
「このチケット使わなかったから返すな。日野が使えよ」
「あぁ、じゃあ遠慮なく……って、オイ!」
俺が返した遊園地のチケットを日野はパシンと机に叩きつけた。
「そもそもこれ俺がお前にやったヤツで、今月あと二日だけじゃん! 誘える相手なんていねぇよ」
「月曜と火曜に一人で行けば使い切れるだろ」
「遊園地のスタッフに同情されるわ! お前ならこのチケットを有効活用してくれると思ったからやったのに。小野ちゃんがお前の誘いを断るなんて思わなかったぜ」
聞き捨てならない名前が聞こえて眉間に皺が寄った。
俺が誘ったのは悠子ちゃんであって、間違ってもあの女ではない。
お待たせしました、と目の前に届いたばかりの熱々のカツ丼をどんぶりごと日野の顔に押しつけたくなった。
「小野って?」
カツ丼を口にしながら首を傾げる貴士に俺は「この前校門で待ち伏せしてたストーカー女だよ」と一言だけ返した。
「酷い言い草だな。合コンで和泉がタイプだって言ってた女の子に」
「だ、れ、が、んなこと言ったって?」
日野の怒髪天をつく発言に怒りを隠せない。よりにもよって嫌悪感急上昇中の人間を好みのタイプだと思われているとは。甚だしい誤解だ。
「え、小さくて可愛い黒髪の女の子だろ。あとは料理上手だって彼女言ってたし。和泉の目の前に座ってた小野ちゃんも赤い顔で目きらきらさせててさ、てっきりそうなのかと」
「違う、俺の悠子ちゃんはアレとは比較にならない位可愛いから。健気で恥ずかしがり屋で家族思いでちょっとおっちょこちょいだけどそんな所も好きで籠の中にとじこめたくなる可愛さだから」
「「とじこめたら駄目だろ」」
重なる二人の声に「わかってるよ、嫌われたくないからしない」と渋々答えた。
「確か、悠子ちゃんって和泉の義理の妹だっけ。前に俺らがいくら紹介してくれって言っても突っぱねたけど随分溺愛してるんだな」
「むしろ好きにならない要素がない。悠子ちゃんは初めて会った時から俺を惹きつけるものがあった」
「早! お前のセンサーどうなってんだよ。この前の感じだと女嫌い治ってないんだろう」
「そんな簡単に治るか。悠子ちゃんは特別なんだよ」
三年前の春、初対面の時から彼女には不思議な魅力があった。俺の容姿に見惚れず、猫の瞳のように目をぱっちり開いて距離を取ろうとした。緊張した面もちで挨拶したと思ったら眼鏡を落として、それがわざとじゃないのは態度で解った。彼女は耳まで赤くして自分の失敗を恥じ、下げた頭を上げられないでいた。その様が何となく放っておけなくて眼鏡を拾って彼女の耳にかけてあげていた。
その時、俺は彼女の肌に微かに触れたのだ。でも蕁麻疹は出なかった。原因を知りたくてことあるごとに触れてたら癒しを感じるようになって止められなくなってしまった。
「和泉がそういう態度とると誤解されるから気をつけた方がいいと思うぞ。ただでさえ顔がいいんだからさ。義理とはいえ妹だし、その悠子ちゃんだって困るだろ」
「誤解って?」
俺の悠子ちゃんへの好意は真実だし誤解も何もない。
――なのに悠子ちゃんが困る?
「あぁー、日野、それ以上は言わないでやってくれ。和泉が混乱する」
「えぇ、でもさ明らかに兄として妹との距離感が普通じゃないし。せっかくやった遊園地のチケットで妹を誘うくらいだ。言ってやった方が親切だって」
日野の台詞がグサリと胸に刺さった。日野の言葉を貴士が否定しないのもあり、余計に痛く感じた。
「和泉、日野の意見も一理ある。けどそれはあくまで一般論であって、全てがお前と妹ちゃんに当てはまることじゃない。妹ちゃんは家族思いの情の深い子だろ。そう簡単にお前を嫌ったりはしない。だから心配するな」
真剣な目で語られて重要なことを言ってくれているのは伝わってきた。しかしその一般論がわからない。俺にとって悠子ちゃんを好きなのは普通のことだけど一般的にはちがうのか……?
普通の定義がわからなくなってくる。
「そ、そう難しく考えるなよ和泉。ほら、俺のお新香分けてやるから小さいことは気にすんな」
日野は慌てた様子で俺の小皿にお新香を盛ってきた。励ましてくれているつもりなのだろう。
けどその後も俺の意識は先程の台詞に気が取られ、二人との会話が頭に入らず結局、定食屋で解散することになった。