14 兄の渇望
ピピピピとスマホの音で目が覚めた。アラームを止めて時計を確認すると夜の十時半、悠子ちゃんはとっくにバイトから帰宅している時間だ。
いつの間に寝ていたんだろう。今日は俺が当番だったのに……夕飯を作りそびれた。
俺が作ると思ってこの時間まで待ってるってことは流石にないだろうが、妃さんと悠子ちゃんに謝りたい。今日は悠子ちゃんのバイトのお迎えにも行けなかったし、自分が情けない。
だが少し仮眠をとったお蔭で喫茶店で受けた不快感が薄らいでいた。悠子ちゃんに無様な姿は見せたくない。起きあがった俺はパンッと自分の両頬を手で叩いてから悠子ちゃんの部屋へ向かった。
「悠子ちゃん、いる?」
扉をノックしても返答がない。
いつもこの時間なら部屋にいるんだけど……不安に思ってノブを回すと扉が開いた。
部屋の中を見た瞬間、言葉を失った。
中は、何故か親父が仕事で使う機材が積み置かれている物置になっていた。悠子ちゃんのベッドや机や本棚が見当たらない。嫌な予感がして、ツーッと背中に冷たい汗が流れた。
俺は慌ててリビングに下りて周囲を見渡した。家族写真もこたつもベビーベッドもない。リビングを出て玄関の靴箱を開けるとそこには、親父と自分の靴しか収まっていなかった。まるで悠子ちゃんや妃さん、豊の物が全て無くなっているかのようだった。
咄嗟にポケットからスマホを出してアドレス帳を開いても悠子ちゃんと妃さんの名前は消えていた。
――嘘だ、嘘だ!! こんなの誰かの悪戯に決まってる。
体の汗が止まらなかった。そのままスマホを持って呆然としていると玄関の扉が開いて光が射し込んだ。
良かった、まだバイトから帰ってきてなかっただけなんだ。
「悠子ちゃん、おかえ」
り、と言おうとして息が止まった。
扉を開けたのは、悠子ちゃんじゃなかった。隣に知らない女性を伴った親父だった。
「悠子ちゃん? 名前を間違えるなんて香澄さんに失礼だろう。お前の新しいお母さんなんだから」
「何、言ってんだよ。妃さんは!」
「妃さん? 誰の事だ。もしかして、また問題事……か?」
「問題事って……違うだろ。親父の奥さんは妃さんだろ。まさか三人を追い出したのか!?」
一歳にも満たない豊といつもアドバイスをしてくれる気丈な妃さんと俺に希望を与えてくれた悠子ちゃんを?
そんな親父が気まぐれのように選んだ新しい女の為に!?
瞬間的に俺は、玄関に立つ二人を突き飛ばして家から排除した。玄関の鍵と共にチェーンを掛ける。
「おいっ何してるんだ和泉。ドアを開けろ!」
背後で響く親父の声とドンドンと扉を叩く大きな音がするが無視して、一段一段階段を上っていく。
このままではいけない。環境が良くない。
足りない物が多すぎる。親父には頼れない。
俺の力で変えなければ、変わらなければ、会えなくなってしまう。
親父の物で埋め尽くされた悠子ちゃんの部屋に入り、乱暴にゴミ袋に物を詰めていく。
どの位置に机があってベッドが置いてあったか、俺はしっかり記憶している。少しでも居心地がいいようにふわふわの布団を用意して、可愛い服をタンスに詰めて、漫画が沢山入るような本棚を購入しよう。
――悠子ちゃんが帰ってこれるように。
ゴミ袋の数が増していく度に満たされていく。きっと妃さんと豊もいないと悠子ちゃんは寂しがるから他の部屋も元に戻しておかないと。
ずっと一緒にいるんだ。誰が何と言おうと取り戻す。どこに居ても見つけ出す。
すぐに迎えに行くから待っていて欲しい。
「もう少し、あと少しだけだから……」
頬を伝う涙がポトポトとフローリングに零れ落ちていく。この部屋はいらない物で溢れている。親父の仕事道具は、大事そうにプラスチックケースやビニール袋に守られてても、親父は偶にしか帰って来ないから埃が積もってて、どこも大切になんかされていない。
放置されてるだけだ。冷え切った一軒家に置いて行かれる俺と同じだ。
この家には確かに暖かな空気が流れていた筈なのに。
すくすくと成長する弟の姿だって見れたし、母が珈琲を入れる匂いもして、俺を呼ぶ妹の声だって聞こえていたんだ。
『和泉さん』
って呼んでくれる声が好きだ。初めて俺の名前を呼んでくれた時の感動を今も覚えている。人見知りでずっと俺に対して一線を引いていた彼女が一気に近くなった気がしてとても嬉しかった。
『和泉さんっ』
微かに俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。振り返ってもその姿は見えない。
そこには暗闇しかなかった。けれど幻聴は段々は段々と大きくなっていき涙が止まらずどんどん胸は苦しくなっていった。
「起きて下さい! 和泉さん!?」
これが夢ならどんなにいいか、そんなことを考えていると体が前後に揺れた。
ぐわんぐわんと頭が上下し意識が混濁する。
え、地震か!?
焦って目を開けると目の前に悠子ちゃんの顔が映った。
「ゆめ……?」
親父と俺に愛想を尽かして出て行ったんじゃ……?
首を傾げる俺に悠子ちゃんは首を横に振った。
いや、きっと俺の夢だから俺の願望を叶えてくれたに過ぎない。
よくよく彼女を観察して本物かどうか見極める。
高校の制服を着た悠子ちゃんは眉を寄せ、困惑した顔で目を逸らした。
照れて頬が赤くなっているのが可愛い。
流石、俺の夢だけあってクオリティが高い反応をする。
「ほんとに?」
俺がもう一度確認すると悠子ちゃんは呆れたような表情をした。
……本当に悠子ちゃんらしくて困る。
これが現実かどうか確かめるにはどうすればいいか。
思いついた俺はすぐに行動に移していた。
「だからこれは夢じゃなくて、えっ、うわっ」
ベッドから起き上がり、ベッドサイドに立つ悠子ちゃんの腰を掴んで俺の上に体を乗せた。すると悠子ちゃんの重みを確かに感じて、心の底から安堵した。
「い、いいいずみさん!?」
慌てる悠子ちゃんにニコッと笑って、力いっぱい抱きしめる。小さくて柔らかくて温かくて、離したくない。白い肌も細い首筋も艶やかな髪の一筋まで全てが愛おしい。
「あー、しあわせ」
スンと悠子ちゃんのうなじに鼻を寄せると悠子ちゃんの匂いがしていつまでもこうしていたくなる。俺の腕の中で「ギ、ギブ」と声を上げる悠子ちゃんの抵抗はそれはそれは弱いもので幸せな気持ちを助長させた。本気で嫌がらないってことはこのまま抱きしめられてても構わないってことだ。
「かーわいい」
悠子ちゃんの耳元で囁くと、
「んっ」
と俺が今まで聞いたことのない声を上げた悠子ちゃんに息を飲んだ。
普段より高くて甘さの籠った声に体が熱くなった。俺の行為が彼女にそうさせたんだと思うと一層喜びが増した。
もう一度聞きたいな……そう思ってちらりと横目に悠子ちゃんを見ると真っ赤な顔をして両手で口を塞いでいた。ちょっと涙目で俺を睨む悠子ちゃんに俺の心臓は爆発しかけた。
何だ、この尋常じゃない可愛さは……!!
盛大に照れてるんだろうけど胸がキュンキュンする。俺は乙女か……。
でも仕方ない、この可愛さに太刀打ち出来る人間などこの世にはいまい。
ジーンと可愛さの境地に感じ入っていると首筋に悠子ちゃんの視線を感じた。
「和泉さん、首……」
悠子ちゃんの心配する様子に俺は一気に現実に引き戻された。
喫茶店で女に触られて蕁麻疹が出た時に首を掻いた跡が残っていたのだ。
「ちょっと、虫に刺されたんだ」
正直に言うことなんて出来なかった。彼女の心の負担を増やしたくない。
「今、かゆみ止めの薬を持ってきます」
俺の元から去っていこうとする悠子ちゃんの手首をいつの間にか掴んでいて自分で驚いた。先程の夢を俺はまだ引きづっているようだ。
「薬はいらない。悠子ちゃんがここにいれば治るから」
独りになると夢のことや夕方に遭った災難をどうしても思い出してしまう。
悠子ちゃんはシャイだから嫌かもしれないけど、どうか断らないで欲しい。必死の思いで縋った。
「じゃあ、少しだけですよ」
少しだけ考えて、悠子ちゃんは俺の願いを受け入れてくれた。
自分のことより俺を優先してくれる優しさに俺は甘えることしか出来ない。
頷く俺の頭を悠子ちゃんの手が撫ぜる。誰かに頭を撫でられたのは初めてかもしれない。彼女は不思議だ。年下の女の子なのに時々、とても大きく感じられる。
嬉しい返事を貰って、悠子ちゃんの手を解いて細い腰に両腕を回した。一瞬、悠子ちゃんの体が跳ね上がる。俺の上でびくびくする体に忍び笑いを零した。
「昨日は寝不足だったんですよね。いつも頑張り過ぎなんです。今日はゆっくりしていて下さい」
気分が悪くなった原因は寝不足ではない。けれど、詳しいことを悠子ちゃんに話したくなくて頷いた。
「うん、好き、悠子ちゃん……」
俺を大切にしてくれる人なんて、彼女に会うまで知らなかった。
子供の頃から俺が欲しいと思ったモノは手に入らなくて、存在しないのだと思った。そう思わないと生きていられなかった。
その思いは彼女と出会って少しずつ変わっていった。母親を慕う愛情や友達を大切にする情の熱さや弟を可愛がる母性に触れて感化されていくように。
俺も、愛されたいと思うようになった。
昔は諦められた感情も今は諦めることなんて出来ない。
だって彼女はそれを知っているし、持っているのだ。
だから本当は、何か足りないのは彼女ではなくて俺の方だ。
わかりたいのにわかりたくない。その根底にある思いが心に蓋をする。
甘い夢のような現実を失いたくなくて抱きしめる腕に力を込めた。
 




