7 妹の限界
果てしなく気が重い。夏のハリケーンの襲来である。
私は兄という嵐に備えて、自分に三つのルールを課した。
一、兄のいる前では漫画・アニメは見ない。
二、部屋の鍵は絶対に掛ける。
三、家事は完璧にこなす。
腐女子という本性を隠し、家庭的な女の子としてイメージ付けさせる為だ。
兄がいるのは長くても二週間だ。一生の中で考えれば二週間なんてあっという間。そう思い込むことで更に時間を短縮させる作戦だったが、私は見くびっていた。予想を上回る己の迂闊さとチキンっぷりを。
兄が来たのは、予告通り翌日の平和な午後の昼下がり。これは明らかに嵐の前の静けさだった。今日の昼食は冷やしパスタだ。初日から気合いを入れすぎると自分の首を絞める結果になりそうだったので、その予防線である。
「はい、お土産」
と渡されたケーキ屋の箱を見て私の手は震えた。
こ、これは開店から三十分で売り切れる大山のロールケーキ……!!
なんという先制攻撃。以前、テレビでこの幻のロールケーキを買うには開店一時間前には並ばなければならないと行列の前でお姉さんがお店を紹介していたのを思い出す。
これはもしや……賄賂?
いやいや、兄は最初に土産だと言っていたではないか。
疑って掛かるのは失礼だ。正直、名前も知らないケーキ屋のモノの方が気が楽だったが、私は無理矢理笑顔を作って感謝の意を伝えた。ケーキしか入っていないはずの箱がズシッと重く感じた。
兄は早速、両親の不在に気づいて私に理由を尋ねた。
「二人は一緒に旅行中です」
「悠子ちゃんひとり家に残して?」
もしかしなくても心配されてる……?
一人でお留守番は母子家庭だったから慣れてるんですよ、心配は御無用と申したいが兄は真剣な表情をしていてそんなことが言える雰囲気ではない。
「じゃあ父達が帰ってくるまでここにいようかな。俺も家事手伝うから何でも言ってね」
わ、わたしのエンジョイライフが遠のいていく。
海外にいる母親に助けを求めるのは泣く泣く諦めた。母に電話すれば「あんたには荒療治が必要」とあしらわれ、むしろ旅行を延長されそうな予感がしたからだ。それに今頃両親は外国でラブラブしている最中、かもしれない。そこへ私からの電話が入ってきたら飛んだお邪魔虫だ。親思いの私を誰か褒めて欲しい。
午後七時、夕飯の支度を終えて席についた時、兄の視線の先のモノに気付いて冷や汗が流れた。
「この日は悠子ちゃんの誕生日?」
兄が見ていたのはカレンダーについた赤い丸。いっそその日が誕生日どんなに良かったか。私は兄が来る前にリビングにあったアニメのDVDコレクションやキャラ絵のコップやタオル、付箋に至るまで自室に隠したというのに。カレンダーは盲点だった。
「っいえ、私の誕生日はもう過ぎたので」
兄の言う赤丸の日は一年に一度の夏の祭典、コミックマーケット。どうしよう、何て誤魔化せば追及されずに済む。頭を高速回転させた結果、名案が浮かんだ。
「お台場に!花火大会に行ったんです」
夏コミの帰りに浴衣を着て花火大会へ向かうリア充を見掛けたのを思い出したのだ。
「ひとりで?」
「友達の麻紀ちゃんと二人で。楽しかったですよ!本当に綺麗で!」
お気に入りのサークルさんの新刊は最高でした!
「へー女の子だよね?」
わたし、今ちゃんと《まきちゃん》って言ったよね?男でまきちゃん呼びは難易度が高い。
「正真正銘女の子です」
どうも疑われているようなので携帯で撮った麻紀ちゃんとのツーショット写真を見せる。勿論、会場が解らないような無難な写真である。逆に兄にはどうして私が男と夜遊びするような女子に見えるのか、教えて欲しいくらいだった。
「浴衣は着なかったんだ」
おぉ!確かに女子がお台場の花火大会に行くのに浴衣を着ないのは不自然かもしれない。イイ男には女心が解るものなんですね。この人は私には解らない位女性に花火大会に誘われてデートしたんだろうなぁ。こんだけカッコいいんじゃ仕方がない。
「ちゃんと浴衣は持ってるんですよ!でも着付け一人じゃ出来ないんで。お台場まで下駄はつらいですし、諦めたんです!」
「そうだね、中学生の女の子だけで遠出なんて危険だし、襲われても浴衣じゃ逃げづらいもんね。私服で良かったよ」
コスプレイヤーでもない限りオタクの祭典では襲われません。
「来年は俺も誘ってね。前もって言ってくれれば飛んでくるから」
「な、な、なな何を仰ってるんですか!ここに来るのも二時間以上掛かるんですよね、申し訳ないです。寮でゆっくりなさっててください!」
貴方様をコミケに誘えるか!麻紀ちゃんは喜ぶだろうけど私はノウセンキュウだ。私が言い訳を考えていると兄が私の前腕に手を伸ばしてきた。腕をスッと大きな手で撫でられぞくっと背中に悪寒が走った。
「こんなに日焼けして……父さんとは海に行ったのに俺とは出掛けたくないのかな」
そ、そんな目で私を見ないで!
寂しげな呟きとは裏腹に熱気を孕んだ眼差しが痛い。父がいたら「こら、セクハラだぞー」ってこのさわさわしてくる手を払ってくれるのに。
「ねぇ、俺とじゃイキたくない?」
瞬間、ぞわわわわぁと全身の鳥肌が立った。もう、堪えられない。
「い、行きます、どこへでも一緒に行きますからっ手を離して下さいぃぃ」
やだ、兄怖い。私の涙腺は遂に崩壊した。私は本気で男性には免疫がないのに、兄は無遠慮過ぎる。格好いいからって何でもしてもいいと思ってるんだろうか。ヒエラルキー下位の私をそんじょそこらの女の子と一緒にしてもらっちゃ困る。
携帯に登録してある男性は父だけだし、学校でも男子との会話は皆無の私に接近戦を挑まれても受けて立つような強さは持ち合わせていないのだ。
私は湯気が立つ食事をどかして机に突っ伏した。
泣き顔を見られたくない。
頭の上からは謝る兄の声がする。
謝る位ならはじめからやるな。
自分の容姿を利用して女性を弄ぶのが趣味なのだ。兄はリア充ならぬリア獣だった。この人が女嫌いなんてもう私は信じない。兄の前では油断しまいと心に誓った。