13 妹の動転
「ただいま~」
電話をくれた時、元気がなさそうだった兄が心配で今日は急いでバイトを終わらせてきた。疲れた体でダイニングに行くと珍しく母が夕飯を作っていた。
「おかえり、悠子」
「母さん、和泉さんは……?」
「調子が良くないみたい。帰ってきてから一度も部屋から出てこないのよ」
母は心配そうな顔で兄の部屋の方を見上げた。
「私が行って様子を伺ってくるよ」
「ええ、お願い。夕飯はもうすぐ出来るから」
母の隣に並び、蓋を開けて鍋を覗くとぶわっと湯気が立ち上った。中には卵粥が入っている。調理中のフライパンには、麻婆豆腐だ。お粥は兄と豊用で、麻婆豆腐は私と母用のおかずだろう。
もし兄が起きあがれないようだったら卵粥をよそって持って行ってあげよう。私は制服のまま兄の部屋を目指して階段を上って行った。
「和泉さん、大丈夫ですか?」
コンコンと扉をノックしても返事がない。どうしようかと悩んでいると中から微かに兄の声が聞こえた。そっと扉に耳を近づけてみれば苦しそうに呻く声がして、たまらず私は扉を開けていた。
ベッドの上で眠る兄に駆け寄ると兄は苦悶の表情を浮かべて魘されている。
「和泉さん、和泉さん!」
肩に手を置き、軽く揺さぶって声を掛ける。
するとパチっと目を開けた兄と目が合った。
「ゆめ……?」
ぽやんとした表情で首を傾げる兄に私は首を振った。
「ほんとに?」
随分と疑り深い。一体どんな夢を見ていたのだろう。
「だからこれは夢じゃなくて、えっ、うわっ」
現実だと訴えようとした所で急に上体を起こした兄に両手で腰を掴まれ持ち上げられた。
「い、いいいずみさん!?」
動揺する私を兄はすとんと自分の足の上に下ろした。そのままぎゅーっとしぼるように抱き締められ、私はうぐっと苦しさで声をあげた。
「あー、しあわせ」
苦しむ私とは対照的に兄はしみじみと幸せに浸っている。
「ぎ、ギブ、ギブ」
体調が悪そうな人を叩くわけにもいかず、私は兄の腕の中で必死にもがいた。
「かーわいい」
「んっ」
限界まで近づいた兄に耳元で囁かれて意図せず変に高い声が漏れた。
――今のは、聞かなかったことにしてほしい……。
羞恥に震えていると目の前に兄の赤くなった首筋が目に入った。爪で何度も掻いたような跡が残っている。
「和泉さん、首……」
「ちょっと、虫に刺されたんだ」
それにしては兄の首を掻いた範囲は広いように思える。私がじっと兄の首元を観察していると兄は指で赤い発疹を掻いた。
「今、かゆみ止めの薬を持ってきます」
薬を取りに兄の上からどこうとしたらすばやく手首を掴んで胸まで引き寄せられる。
「薬はいらない。悠子ちゃんがここにいれば治るから」
そんなバカな……と思いながらも母親に縋る子供のような目で訴えられて離れられなくなってしまった。体調が悪いから心細くなっているのかもしれない。
「じゃあ、少しだけですよ」
「うん」
素直に頷く兄の頭を私は思わず撫でていた。口元をゆるめてあどけない笑みを浮かべる兄は普段と違って何だか可愛らしい。
「昨日は寝不足だったんですよね。いつも頑張り過ぎなんです。今日はゆっくりしていて下さい」
「うん、好き、悠子ちゃん……」
流石、体調不良なだけあって会話が成り立っていない。寝息を立てて眠り始めた兄の腕を解いてゆっくりと上体をベッドに倒した。
熱くなった頬に手を当ててベッドの上に突っ伏し顔を隠す。
「私もですよ、和泉さん」
聞こえないと解っていながら小さな声で呟いてみる。
とてもじゃないけど兄が熟睡している時じゃないと言えない。
母の呼ぶ声がするまで私は兄の部屋で静かに悶えていた。
麻紀ちゃんの原稿を手伝う約束をした火曜日、私は学校を終えてからコンビニで栄養ドリンクを手にした。麻紀ちゃんは徹夜で頑張っているだろうからその差し入れだ。他にもお菓子でも持っていこうかなと考えた時、昨日のおばちゃんたちの会話が脳裏に浮かんだ。
バイト先の総菜屋の前にある喫茶店のチーズケーキが美味しいと話していた。
お持ち帰り、出来るのかな……。
喫茶店はここからそう遠くない。私はコンビニで栄養ドリンクだけ買って、喫茶店に行ってみることにした。
前の喫茶店より敷居が高くなっている気がする……。
それが新しくなった喫茶店の中に入った印象だ。床は赤い絨毯だし、レジの隣にはステンドグラスのライトが置いてある。照明は少し暗いがそれがまたいい雰囲気になっている。
お目当てのチーズケーキは、入り口の正面にある冷ケース並んでいた。綺麗な焼き色のついたベイクドチーズがとても美味しそうだ。
冷ケースの前に立って店員さんに持ち帰りが出来るか尋ねてみる。
「ケーキのテイクアウトは出来ますよ、ゆたんぽさん」
その声にびっくりして顔を上げるとウエイター姿のハピネスさんが立っていた。
「いつ気付くかなって思ってた」
悪戯が成功した少年のような笑みにドキッとする。あまりに似合っているのでこれもコスプレ? と思ってしまったがそういえばいくつかバイトを掛け持ちしていると話していたのを思い出した。
「す、すみません、気付かなくって。あのチーズケーキを二つ頂けますか」
「かしこまりました、お嬢様。もしかして……これから意中の方とお召し上がりですか? 妬けてしまいますね」
リップサービスが激しすぎる。まるで執事CDを聞いてるかのようだ。それを美青年と言っても過言ではないハピネスさんが言うのだからハマり役過ぎる。
「ち、違いますよ! 今日は友達と食べるんです」
「今日は、ってことは好きな人はいるんだね」
ニヤッと笑うハピネスさんに、かぁぁっと頬が熱くなった。
「ごめんごめん、いじめてるんじゃないよ。反応が可愛いからさ、ついね」
それをいじめてるって言うんじゃないでしょうか。ハピネスさんは、少し兄と似ている気がする。だから私は女性と解っていてもドキドキしてしまうのかもしれない。
「幸先輩! その人とはお知合いですか?」
ハピネスさんが箱にケーキを詰めていると隣に可愛いウエイトレスさんがやってきた。彼女がじぃっと私の顔を見てくる。その目付きが怖くて私はスッと避けた。
「そうだよ、最近仲良くなってね。ほら、小野ちゃん、ホールに戻らないと」
「いいえ、幸先輩のお友達ならご挨拶しないと。はじめまして、幸先輩の二つ下の後輩の小野美鈴っていいます」
ハピネスさんの本名はサチさんっていうのか。本名もかっこいい。
小野さんに自己紹介されてしまった私は自分も言う他になくなってしまった。ゆたんぽです、なんてハンドルネームを言える筈もない。
「……はじめまして、冴草悠子と申します」
私の名前を聞いた小野さんは先程とは打って変わって、目を輝かせた。急に傍までやってきて迫ってくる。
「悠子さんって表の総菜屋さんで働いてますよね。もしかして冴草和泉さんの妹さんですか?」
何故初対面の小野さんがそれを知っている! 兄の名前だけでなく私のバイト先まで把握していることに恐ろしさを感じた。
「そうですけど……何で兄の名前を?」
「冴草さんとはこの前合コンで仲良くなったんです」
「あぁ、小野ちゃんが《窓辺の君》って呼んでたあの人?」
兄が《窓辺の君》……似合わない。随分と少女漫画ちっくな呼び方だ。
「そうです! ほら、合コンの時に撮った写真もあるんですよ」
小野さんが出したスマホには兄と小野さんの写真が映し出された。隣合う二人の顔は近く、その上兄が笑っている。ハートマークでデコレーションされた写真はカップルにしか見えない。驚きのあまり声も出なかった。
「合コンでも私の事がタイプだって言ってくれました」
「で、付き合ってるの?」
「まだなんですけどあとひと押しですね。頑張ります!」
小野さんは手足が細くて小柄な体をしている。ふわっとしたロングの黒髪をシュシュでゆるく結んでいて、目はぱっちり、唇は艶のある桜色、学校でもカースト上位の女子なんだろうと推測される。兄のタイプはこういうコだったのか。
彼女のつけてる甘い香水の匂いは、和泉さんが合コンから帰ってきた時に嗅いだ香りだ。つまりそれだけ密着したということ? 何だか信じがたいけど、これだけ可愛いコだと不安になってくる。
「あのそれで良かったら悠子さん、冴草さんと仲良くなる為に協力してくれませんか?」
上目遣いで頼まれ一歩後ろに下がった。小野さんが言い出す前に、何となくそんな予感はしていた。
「ごめんなさい、それは出来ません」
見るからに小野さんはしょんぼりしていてまるで私が悪者のようだ。でも良心は痛まない。兄に関することは、譲りたくなかった。
小野さんは、ぷいっと不機嫌になって裏へと姿を消していった。
「ごめんね、あの子が勝手なお願いしちゃって」
ハピネスさんに謝られ、私は両手で手を振った。
「いえ、ハピネスさんは悪くないので! チーズケーキいくらになりますか?」
レジで代金を払い、気が重いまま喫茶店を出た。私はもやもやとしたものを抱えつつ、麻紀ちゃんの家へと急いだ。
申し訳ありません、一分、間に合わなかった……!!
そして、令和誕生おめでとう。
(あと12話の前後編を一話分にまとめようとした所、システム負荷削減の為に小説の削除は避けて欲しいと表記があり、そのままにしておくことにしましたmーーm)




