12 兄の災難 後編
講義終了後、俺は悠子ちゃんのバイト先の前にある喫茶店に向かった。以前から利用している店だが、三ヶ月前に再び喫茶店としてオープンした。チェーン店から個人経営になった分、メニューの金額と共に客層年齢も上がって落ち着ける雰囲気になった。
昨日の夜から悩んでたことも無事解決したしな。
悠子ちゃんのバイトが終わるまで、店で流れる心地よいジャズを聞きながら勉強に励もう。
喫茶店の扉を開け、窓際のカウンター席に座る。店員には珈琲をひとつ頼み、机に勉強道具を広げた。地方公務員試験は倍率が高い為、早くから試験対策に取り組み頭に叩き込んでおく必要がある。
親父のようなフリーランスの仕事は、一寸先が闇だ。悠子ちゃんを養う以上、俺は安定的な収入を望める職業に就きたい。今日の努力が未来へ繋がっていると思えば苦ではない。
「お待たせ致しました。ご注文のブレンド珈琲です」
珈琲の隣に何故か頼んでもいないのにシフォンケーキがついてきた。眉を潜めて持ってきた女性店員を訝しむと「常連さんへのサービスです」と笑みを浮かべた。
サービスって……突然他人にこんなことをされて喜ぶ輩がどれだけいるのか。
自分の容姿に自信があるのかもしれないが仕事中に逆ナンする店員には嫌悪感しか湧かない。
店員を無視して、窓の向こうの総菜屋に目をやる。きっと悠子ちゃんはこの店員とは違い、真面目に働いて厨房で忙しくしていることだろう。
「いつもあのお店見てますよね。どなたかお知り合いでも?」
店員に指摘されてパッと店から目を逸らした。万が一悠子ちゃんに目をつけられたら困る。
「珈琲だけで結構です」
「こちらは冴草さんの為に用意したものですからぜひ召し上がって下さい」
「な、んで俺の名前を」
「この前合コンで会ったばっかりですよ。私が犬のイヤフォンジャック拾って渡したの覚えてませんか?」
行きたくもなかった合コンのことを思い出して顔を顰めた。そういえば帰りに俺の落とし物を拾って渡しにきた女がいた。長い黒髪の香水臭い女……今はバイト中だからか髪をひとつに結んでいる。
「本当はコレもあの時は渡したかったんですけど、今日会えて良かったです。クッキーはどうでしたか?」
スッとピンク色のメッセージカードを差し出された。カードには小野美鈴という名前と連絡先が書いてある。この前のポストのお菓子はこいつだったのか。
受け取らないで無視していると無理矢理カードを握らされ、ぞわっと背中に悪寒が走った。
「ああいうのは、迷惑だからやめてくれ」
「わかりました、甘い物は苦手なんですね!」
言葉が通じない……。何故そんな自分の都合よく解釈出来るのか。
「っそうじゃない。プレゼントという行為自体が不快だから止めて欲しい」
「そんな! 遠慮しないで下さい」
「遠慮なんかしてない」
「あ、じゃあ緊張してるんですね。そういう時って思ってもないこと言っちゃったりしますし」
この頭の痛い相手は嫌でも自分の従姉である安里を思い出させた。俺が何を言っても完全に自分のペースだ。
『和泉は私が一緒だと緊張しちゃうのね』
安里のその一言で俺の拒絶は全て無にされてしまう。幼い俺はやることなすことを好意的に受け取られて何を言えばいいのか、わからなくなった。そして力で抵抗しようとすると安里の妹分である双子の姉妹が両手の自由を奪うのだ。俺が許しを請い、彼女たちが満足するまで解放されることはない。
『ごめんなさい、ごめんなさい』
『ええ、ええ、私にはさっきのは嘘だってちゃんとわかってるわ。照れてるのよね』
『私の事、嫌いじゃないよね?』
『私の事、好きなんだよね?』
従姉妹に囲まれた少年の俺が許しを得る為にやりたくもないことを強要されて心を殺している。思い出したくないことが思い出されて、女に握られた手がぶるぶると震えた。
「ドキドキ、してるんですよね。私と一緒です」
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。けれどそれとは逆に周囲の音は小さくなってきて危機感を覚えた。
こんな所で倒れたくない、そう思うのに体が思うように動いてくれない。
そのまま体のバランスが取れずぐらりと椅子から落ちそうになった時、「すいません!」と男の声が店に響いた。
「店員さん、さっきから呼んでるんだけど!」
「も、申し訳ありません。ただいま参ります。……冴草さん、他のお客様が呼んでるので行きますね。いつでも連絡して下さい」
女の手が離れて、視界から遠ざかっていく。そこでようやく現実が戻ってきた。深い息をしながら震える手を強く握る。あれに触られた自分の手が汚く感じた。
気持ちが悪い。完全に珈琲を飲む気は失せていた。
今日はもう帰ろう。この店にいればまたあの女が寄ってくる可能性が高い。
俺は机の上のメッセージカードを細かく破いてティッシュに包んだ。勉強道具をしまい、傍にあった店のゴミ箱にティッシュを捨てる。急いでレジで会計を済ませて、喫茶店を出た。
とてもこんな状態では悠子ちゃんには会いに行けない。すぐに近くのコンビニの前にある公衆電話の所まで行き、電話を掛けた。バイト中なので電話を取れるか不安もあったが出てくれて良かった。
「もしもし、悠子ちゃん?」
『どうしたんですか、和泉さん』
「いつもみたいに迎えに行きたいんだけど、ちょっと今日は行けそうにないんだ」
『いいんですよ、それより和泉さん大丈夫ですか?』
体調のことは何も言ってないのに、俺の心配をしてくれている。
そんな小さなことがとてもうれしく感じられた。
「……うん、平気。悠子ちゃん、気をつけて帰ってきてね」
いつまでも悠子ちゃんの声を聞いていたい。けど彼女の仕事の邪魔をしてはならない。俺は未練を振り切ってガチャンと受話器を置いた。
家に着いた俺はすぐに自室に入り上着を脱ぎ捨ててべッドの上に倒れ込んだ。天上を仰いで片手で目を塞いだ。
女性恐怖症の症状が軽減してきたと思っていたのに。
蕁麻疹で痒くなってきた首を堪らずに指で掻いた。
何も変わっていない。女に手を握られただけでこの体たらくだ。
安里の時は、悠子ちゃんがいたから比較的早く回復した。『大丈夫ですか』って心配しながら温かな手で俺の背中を擦ってくれた。なのに、今は何て寒くて暗い。暗闇が子供の頃の記憶を連れてくる。普段は姿を消していても、振り返ればいつもそこに存在するように迫ってくるのだ。
俺は暗闇を振り切るように綺麗な思い出を思い浮かべた。そのどの場面にも家族の姿がある。
春になれば縁側で桜を見上げ、夏には近所のお祭りへ出掛け、
秋には庭で落ち葉をさらい、冬にはこたつで焼き芋を食べて、
そんな日常が何より大切で愛おしい。
瞳を閉じてベッドの上で丸くなる。そうしてゆっくり夢の中へ誘われていった。




