8 兄の監視
緊張の土曜日、今日は悠子ちゃんがハピネスという人物と舞台に行く日だ。寝ている間に悠子ちゃんが出かけてしまう可能性も考え、俺は早起きしてスタンバイしていた。
仲島から悠子ちゃんが舞台を見に行くという話を聞いた時はてっきりフラバタ関連の舞台かと思ったのだが、今、悠子ちゃんがハマっているのは『ブラッディーハンター』という漫画らしい。
ネットで調べてみると、『ブラッディーハンター』の舞台は、本日は昼と夜の二回の公演。出掛けた時間から考えて、観るのは昼公演の方だろう。俺はコートのフードを被り、マフラーで口元を隠した状態で外に出た。
今日の尾行は気付かれないようにしなければ。見つかれば悠子ちゃんからの叱責は免れない。多少の罪悪感はあるが、悠子ちゃんの身の安全の為だ。リスクは覚悟の上で、悠子ちゃんを見守ることにした。
悠子ちゃんが乗った電車に乗りこみ、四十分程すると目的の駅に着いた。ホームページには東京公演とあったが住所的には千葉だろう……と思いつつ悠子ちゃんを追って電車を降りた。
有名なアミューズメントパークがある駅だけあって賑わっている。悠子ちゃんも周囲を見渡しながら人の多さに驚いているようだ。
高校の時に遠足で来たことがあるが女から逃げまわった苦い思い出がある……。何度見知らぬ女に声を掛けられたことか。学校行事でなければ絶対に参加しなかった。
当時の事を思い出している内に悠子ちゃんが舞台会場の方へ歩き始めたのを見て。俺も慌てて後を付いて行った。
駅から十五分程歩き、舞台会場へ辿り着いた。開演まで時間があるにも関わらず既に長い列が出来ている。
しかも見渡す限り、周りには女、女、女。
女の姿しかないのには全身に鳥肌が立った。思いも寄らぬ危険地帯に二の足を踏んでしまう。こんな場所で堂々と立っていたら男の俺は否が応でも人の目を引く。サッと柱の後ろに隠れて、ぽつんと一人で立つ悠子ちゃんを観察した。
悠子ちゃんは、きょろきょろ周囲に目を遣っている。
もしかして見つかってしまったか?
息を潜めて悠子ちゃんから目を逸らす。すると悠子ちゃんがいる方向に向かって、一直線に歩いてくる男が目に入った。
上から下まで全身、黒ずくめの服を着ていて千鳥格子のマフラーを首に巻いている。その細身の青年の顔立ちは整っていて、口元は女を油断させる為の笑みを形作っていた。
一言で言えばホストのような女たらしの顔をしていた。
――まさか、あれは違うよな。
恐る恐る振り向くと、悠子ちゃんの前でその男は立ち止まりにこやかに話しかけているではないか。ちらりと見えた悠子ちゃんは、胸の前で両手を組んで明るい表情で男と話している。
……俺とはじめて会った時は、そんな嬉しそうな顔してくれなかったよね?。
俺はうなだれて、地面を見つめた。突きつけられた現実に歯を食いしばる。
悠子ちゃんと同じ趣味を持っているのなら、仲島のように悠子ちゃんと似た雰囲気の人間が来るかと思っていた。眼鏡を掛けててお洒落は二の次の大人しそうな女子が。
しかし予想は外れ、現れたのは真逆と言ってもいい人間だった。
整った容姿でスタイリッシュな服を着た漫画友達らしからぬ男が来るなんて。
今すぐ飛び出して、二人を引き離したい衝動を抑え込んだ。
顔を上げてさっきまで二人が立っていた場所を見てみれば、二人は長蛇の列に向かって歩いていく所だった。ひとまず、舞台会場以外の場所に移動することはなさそうだ。一旦ここで引き下がろう。
俺はチケットを持ってないし、公演が終わるまで四時間もあるのだ。冷たい風が吹き付けるこの場所で長時間立って待つのはきつい。俺は傍にある商業施設の中に入り、休憩所でスマホをいじりながら時間を潰した。
終演時間が迫り、俺は会場の出入り口の傍で悠子ちゃんが出てくるのを待った。入り口で風に揺れているのぼり旗には舞台『禁断のブラッディーハンター』~約束の薔薇と鮮血の輪舞~という文字が印刷されている。
仲島と会った日の帰りに『ブラッディーハンター』を購入して読んだのだが、フラバタとはまったく違った雰囲気の吸血鬼漫画だった。十九世紀の英国の光と闇と共に描かれているからシリアスな場面も多い。
それでも読み進めやすいのは、主人公のアベルが吸血鬼らしくないお人好し設定のおかげだろう。目的達成の為に感情を殺しきれないアベルの葛藤に共感してしまうのだ。この作品にはヒロインが存在せず美形の男キャラが多いのも特徴で、だから悠子ちゃんと同じような視点で楽しむ人も多いのかもしれない。
五分もすると会場内から女が溢れ出てきた。俺は目を皿のようにして悠子ちゃんを探すが見つからない。出てくる人の勢いがなくなっても姿は見えず見逃したのかと諦めかけた時、悠子ちゃんは男と並んで会場から出てきた。悠子ちゃんの紅潮した頬に、中では舞台を見ただけでは済まなかったのだろうかと勘ぐってしまう。
二人は、さっき俺が時間潰しに入った商業施設の方へと足を進めていく。俺もさもそこに用事があるかのように装いながら付いていくと男の方が一瞬振り向いた。
咄嗟に靴ひもを結び直すふりをして距離を取る。俺は警戒を強めながら二人が乗るエスカレーターに乗った。
商業施設の中にあるオムレツ屋に入った二人はメニューを広げて話し合い始めた。悠子ちゃんと男の顔の距離が近い。離れろ離れろと念を送りながら観察していると、男がしっかりと俺の方を見た。悠子ちゃんは首を傾げて男を見上げている。
マズい、このままでは悠子ちゃんに見つかるのも時間の問題だ。俺は椅子から立ち上がって二人に背を向けてその場を離れた。
たぶん悠子ちゃんは気付いてなかったけど、確実に男の方は俺を見ていた。
あの男、ただの女たらしかと思えば結構勘がいい。ああいう小賢しそうな男の手練手管に悠子ちゃんは簡単に騙されてしまいそうだ。このまま昼食を終えてからディナーも食べて悠子ちゃんまでも……なんて誰が許すか!
こちらから先手を打っておこう。
俺はスマホを出して悠子ちゃんにメッセージを打った。
『今はおやつの時間かな? 何時頃に家に着きそう? 夕飯はクリームシチューとアスパラと鶏肉のハニーマスタード焼き、準備しておくね』
現在の状況確認をし、解散予定時刻を聞きだし、早めの帰宅を促す効果を狙って悠子ちゃんの好きな物を夕飯に出す。これなら遅い時間には帰ってこないだろう。
メッセージにはすぐ気付いてくれたようだ。悠子ちゃんにしては早い返信で助かる。
『女性の友人と遅い昼ご飯を食べてる所です。六時頃には帰れるかと。夕飯ありがとうございます』
六時までには帰ってきてくれるらしいので安心したがこのメッセージの一部分については、異論がある。
女性? あれのどこが……?
男にしては細い体型のような気もするが、身につけてるマフラーや靴はメンズブランドだ。身長は一七〇センチ位、平均身長よりは高いが女性の範囲内。あの会場にいるのも大半が女だったしあり得ないことではない。
正直信じがたい。でも悠子ちゃんが女性と言う以上、今は信じるしかない。
今日は、夕飯までに悠子ちゃんが帰宅するという確証が得られたから良しとしよう。
これから急いで家に戻って、夕食を作らなければならない。
俺はスマホをポケットにしまい、仕方なく見守りを途中で切り上げて家に帰ることにした。




