4 兄の感銘
十二月末日、妃さんの実家に着いたのは夜遅い時間だった。妃さんと悠子ちゃんを先に玄関で車から下ろし、駐車場に車を停めた親父は深呼吸していた。人当たりのいい親父が珍しく顔を強張らせている。それだけ父にとって祖父は緊張する相手なのだろう。
車から悠子ちゃんと自分の荷物を取り出して玄関へ向かう。雪は降っているが駐車場から玄関までは屋根がついているので足下の心配はなかった。
「お邪魔します」
と扉を開けて入った先にいたのは体格のいい老年の男性だった。俺が見上げるほどに身長も高い。そして何より衝撃的だったのは、片手で悠子ちゃんを抱き上げているその腕力だった。
「お久しぶりです、お義父さん」
「ふん、三年も悠子を独り占めしおって、来るのが遅すぎるわ」
当然の言い分である。悠子ちゃんに三年も会えないなんて拷問にも等しい。
「すみません、これからは毎年家族で伺います。あと紹介が遅くなりましたが、ウチの息子の和泉です」
「はじめまして、冴草和泉と申します」
頭を下げてからしっかりと祖父の顔を観察する。灰色の髪はオールバックにしていて、太い眉に角張った顎、鳶色の鋭い瞳をしている。とても男らしい容姿の持ち主だった。
「うむ、君が和泉君か。私は北城忠義だ、ようやく会えたね」
と祖父は唇の端を持ち上げて笑う。でも気は抜けない。祖父は探るような目で俺を見ていたからだ。
その間、悠子ちゃんは「下ろして!」と訴えていたが祖父は要求を無視して悠子ちゃんをだっこしたまま靴を脱がしている。
「あなた、悠子が恥ずかしがってますから下ろしてあげて」
祖父の後ろから姿を現したのは、割烹着がよく似合っている上品な女性だった。
「そうだったか。そんなに私と二人きりになりたかったか、悠子。じゃあ居間に言って話をしよう。積もる話もあるからな。妃、和泉君ゆっくりしていってくれ」
と祖父は簡単に挨拶だけ済ませて、悠子ちゃんと一緒に奥の部屋に行ってしまった。
「ごめんね、和泉君。いつもあの人はああなのよ。私は妃の母の光子よ、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
祖母である光子さんは小柄な人で身長は悠子ちゃんと同じくらいだろう。
父の両親は俺が生まれる前に亡くなっている為、新しく出来た祖父母にどう接すればいいのか少し戸惑いを感じた。
「お義母さん、荷物は上でいいですか」
「ええ、二階の部屋は私と忠義さんは使ってないから気を遣わずにくつろいでね、正輝さん」
「お心遣いありがとうございます」
俺は光子さんに頭を下げて父の後ろをついていった。
二階は俺が思っていたより大きな部屋だった。襖を閉めると三部屋に分かれるようになっている。その中心にある座卓には人数分の湯飲みやポット、お茶菓子まで置いてあり、まるで旅館のようだ。
親父は荷物を畳に置くと深いため息を吐いた。
「俺は今、もの凄く後悔している」
「……もっと早くここに来なかったことに対してだろ」
普段は使わないだろう二階の部屋の畳は入れ替えたばかりなのか井草の匂いがするし、部屋の隅まで掃除が行き届いている。窓際にある文机には小さな花瓶には紫色の花が生けてあった。
光子さんは、忠義さんのように三年間、悠子ちゃんを連れてこなかったを責めはしなかった。けど娘夫婦が孫を連れてきてくれるのをどんなに心待ちにしていたか。この部屋にいると伝わってきた。
「後悔する暇があるなら改善すれば? 荷物置いて下に降りるよ」
祖母一人で七人分の食事を用意するのは大変な筈だ。俺は親父と一緒に台所へ下りていった。
台所では妃さんが豊の離乳食を作っている所だった。祖母は豊を抱きながら椅子に座っている。
「お義母さん、腰は痛くないですか? 俺がだっこしますよ」
「正輝さん、良かったわ。おむつを持ってきて貰ってもいいかしら」
「豊のおむつは私が変えてきます。お義母さんはここでゆっくりしていて下さい」
父は豊を抱いて二階へ上がっていった。
「あらあら、至せり尽くせりねぇ。おむつを積極的に変えてくれる旦那様なんて素敵じゃないの、妃」
「おむつなら和泉君も変えられるわよ、お母さん」
「そうなの? 偉いわね、和泉君」
にこりと祖母に笑いかけられて左右に首を振った。
「いえ、大したことじゃありませんから」
「そう本人は謙遜してるけどね。ウチで一番育児書を読んで勉強してるのは和泉君なのよ。悠子も正輝さんも、豊に何かあるとすぐに大慌てするけど和泉君が一番冷静に対処してくれるから助かるわ」
「少しでも俺が力になれているなら嬉しいです」
妃さんは、豊が一歳になったら通訳の仕事に復帰する予定だ。父は海外に行く機会も多いし俺と悠子ちゃんの頑張り所だ。
「ふふ、和泉君が傍にいると悠子は男性の理想が高くなっちゃいそうね」
「じゃあ、俺もっと頑張りますね!」
意気込む俺に祖母は目を丸くした。
「――和泉君ってあの人みたいなことを言うのね」
「お母さん、影響受けちゃうから言わないで」
「そうかしら、もう手遅れな気がするのだけど」
祖母はころころと笑いながら、立ち上がろうとしたので手を貸した。杖は付いていないけれど、父も心配していたし腰を悪くしているようだ。
「そろそろ悠子を呼びに行きましょう。でないと私はいつまでも悠子と話せないわ」
居間に着くと祖母は夕飯の用意に悠子ちゃんを台所へ連れて行き、代わりに俺が祖父の元に残ることになった。
「和泉君には聞きたいことが沢山あるんだ。そこに座りたまえ」
俺はこたつには足を入れず、祖父から机を挟んで前に置いてある座布団に正座した。
「妃からは君は悠子のことを可愛がってくれているいい兄だと話を聞いている」
「はい、日々悠子ちゃんの生涯を支えられる兄を目指して精進してます」
祖父の低い声が和室に響く。鋭い眼光に重圧を感じた。
「うむ、その心意気や良し。それでこそ男の中の男、兄の中の兄だ」
祖父は腕を組み、大きく頷いた。
「では君の目から見て正輝君は父親としてどうだね」
自分のことなら自信を持って答えられるが父のこととなると迷いが生じた。何と言っても三度離婚経験がある上、三年も妻の実家に子供を連れて帰省しなかったのだ。いくら忠義さんと会うのが怖かったのだとしても、これだけ悠子ちゃんのことを思ってくれていることを知っていて帰らなかったのは、無神経だ。
「妃さんに会う前の父は、正直駄目な父親だったと思います。家には滅多に帰って来ないで、家族との会話も最低限の仕事に逃げるような人でした」
「昔の正輝君はそんなに酷い父親だったのか」
「何かをされた訳ではないんです。家族に対して関心が薄かっただけで。今は妃さんと悠子ちゃんのおかげで別人ですから安心して下さい。二人を育てて下さった忠義さんには感謝しきれません。妃さんと悠子ちゃんは父だけではなく、俺にも幸せを運んで来てくれました。本当にありがとうございます」
祖父に向かって俺は深々と頭を下げた。
「妃も悠子も私の宝だ。二人を傷つける何者からも守る覚悟でいる。だから信二くんが妃と幼い悠子を残して亡くなった後、何度もこっちで同居しないかと声を掛けたんだ。妃には頑なに断られたがな。その妃が、俺には頼らずバツ三のろくでもない男を連れてきた時の私の気持ちが君にはわかるかね」
「わかります、当然門前払いですよね!」
実際悠子ちゃんが男を連れて結婚の挨拶に来ようものなら誰であろうと門前払いだが、親父のような男を連れて来たら催眠術でも掛けられて騙されてるのか疑うわ。
「君は話がわかるね。そう、あんなのは追い払って当然……妻には大人げないと叱られたが、私の大事な妃と悠子を簡単に諦めるような男には渡すつもりはない!」
祖父の気持ちが死ぬ程理解出来て、俺は拍手をして讃えたくなった。そんな意志薄弱な軟弱男に悠子ちゃんは任せられない。
しかし、娘と孫を溺愛する祖父が何故父と妃さんの結婚を最終的に認めてくれたのか。どうしても気になり祖父に尋ねた。
「でも、何で父との結婚を許して下さったんですか」
俺が祖父の立場だったらきっとどうにかして引き離そうとしただろう。
「妃が、悠子とはもう会わせない言ったからだ」
「それは、耐えられませんね……」
一年に二度しか会えない機会さえ奪われるなんて胸が引き裂かれる。
「フリーランスのカメラマンの収入なんてあてにならんと反対しても、『なら私が養うわよ』と言う始末。妃は一度決めたら梃子でも曲げん」
親父は更に妃さんに惚れたことだろう。
「自慢の娘だ。いい娘過ぎて二十歳で結婚してしまったがな」
二十歳、悠子ちゃんならあと三年だ。
「それはいくら何でも早すぎます」
「だろう。だから悪い虫が寄りつかんようにボディーガードをつけようか悠子に提案してみたんだが却下された」
「わかります、つけたくなりますよね。悠子ちゃんは自分のことがわかってないんですよ」
「そこが問題なんだ。妃は気が強いし口も達者で運動神経も悪くない。だがなぁ、悠子はその逆で内気で口下手、運動も得意じゃないし小柄でいつさらわれてもおかしくない」
実に悩ましい問題だ。
「和泉君、今現在悠子に恋人はいないな?」
「いません」
仲島も悠子ちゃんも友達だと主張しているのでそこは信じるしかない。
「そうか、では好きな男は?」
いない、と思う。年々可愛さも女性らしさも増してるから男の影響ではないだろうかと疑ってしまうことはあるけど。
「……わからんか。私が聞いても恥ずかしがり屋の悠子は言えないだろう。しかし兄である君が尋ねたら答えてくれるかもしれん。聞いてみてくれないか」
祖父に信頼されている。嬉しくなった俺は、迷わず了承した。
「好きな人がいるのか、いないのかだけでもいいんだよ」
「言いません! 和泉さんはもっとデリカシーを学んで下さい!」
――結果、俺の聞き方が良くなかったが為に失敗に終わった。
居間にお蕎麦を持ってきてくれた悠子ちゃんを捕まえて、好きな男の存在を聞き出そうとしたが顔を真っ赤にして怒られてしまった。
いつもより怒ってたから嫌われたかと思って目の前が真っ暗になった。その後、謝ったら許してくれたし嫌われてもいなかったからほっとした。
もう悠子ちゃんとは喧嘩したくない。長引けば長引くほどつらくなるのは自分だ。
食後、部屋に戻ろうとする祖父の元へ聞き出せなかったことを謝りに行くと「気にしないでいい。君はよくやってくれた」と励まされた。不甲斐ない結果に終わったというのに懐が広い。
「和泉君、君と私は目指すところは同じだと思っている。出来れば私が悠子を守ってやりたいが、それも出来てあと三十年だろう。傍にもいてやれない」
縁側の廊下で祖父は腕を組み、空に浮かぶ月を見上げた。
「だから君に悠子のことを任せたい」
祖父の言葉が頭の中で木霊した。任せたいって……祖父が宝だと豪語していた悠子ちゃんをこの俺に? 祖父と俺はまだ出会って一日しか経っていない。その俺を信用して悠子ちゃんを託してくれるなんて……‼
「俺は忠義さんに比べればまだ未熟な所も多々あると思います。けど悠子ちゃんに対する思いだけは誰にも負けません」
「それが一番大切なことなんだよ、和泉君」
ポンと祖父の両手が俺の両肩に乗った。俺は祖父の燃えるような情熱を放つ瞳に強く頷いた。
自分もこの人のようになりたい。
家族の為に生きて、それを正直に口に出来るようなまっすぐな人に。
しばらくの間、縁側で祖父と向き合いながらじーんと感動に浸っていると隣の障子がズズッと開いた。驚いて部屋の中を見るとそこには腹立ちを露わにした妃さんが立っていた。
「……黙って聞いてれば二人共、悠子は物じゃないのよ。本人の意思も確認しないで勝手に決めるのは止めて頂戴。悠子が二人に甘いからって調子に乗らないこと!」
と言ってバタンと妃さんは扉を閉めた。まさか妃さんに聞かれていたとは。
祖父と俺は目を見合わせて、同時に苦笑を浮かべてしまった。
祖父母の家にいる間、俺は祖父と友好を深めた。祖父は家族の為ならどんな苦労も厭わない。祖父の価値観は自分とよく似ていていた。
悠子ちゃんの為に購入した振り袖や悠子ちゃんの子供の頃のアルバムを見ながら話していると深い愛情が伝わってきた。
アルバムには雪のかまくらにはしゃぐ悠子ちゃんの写真もあり、夜に祖父と一緒にかまくらを作り、朝に悠子ちゃんに披露したらとても喜んでくれた。豊をだっこした悠子ちゃんがかまくらに入った時、俺と祖父が一緒にスマホを出してシャッターを切ったのには悠子ちゃんも笑っていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ四日目の夕方、家に帰ることになった。家族皆でボードゲームをしたり、もちつきをしたり、人生で一番賑やかなお正月だった。
「和泉君、頼んだぞ」
「はい、頑張ります」
祖父と握手をした後、俺は車に乗り込んだ。
祖父には、悠子ちゃんのボディーガードを任された。自分だけで思っているのと信頼されて任命されるのは大違いだ。今まで以上に気を引き締めていきたい。
「和泉さんがこんなにおじいちゃんと仲良くなるとは思いませんでしたよ。おじいちゃんとスマホでやりとりしてるし……私もスマホにしようかな」
それは朗報だ。悠子ちゃんは慣れてるからといって携帯からスマホに切り替えていなかったが心境が変化してきたらしい。
「色んなアプリも使えて便利だし、操作方法が不安なら俺が教えるよ」
「そうそう、家族割がきくからそんなに高くもないし」
と運転席の親父が加勢してくれる。
「なら、スマホにしてみます。機種とかよくわからないんですけど和泉さん教えてくれますか?」
「勿論!」
これで悠子ちゃんが部屋にこもってパソコンをする時間が減れば嬉しい。そんな思いはおくびにも出さず、週末に悠子ちゃんと携帯ショップに行く約束をとりつけた。




