番外編3 兄の休日 前編
七月中旬、梅雨明けが発表された日に弟の夏休みが始まった。社会人になって夏休みはなくなったが、俺にとっても楽しみな時期だ。インドア派の悠子ちゃんも、豊を一緒に誘うと普段行かないような場所でも高確率で頷いてくれるのだ。
そして、今年は遂に悠子ちゃんと念願のプールに行けることになった!
これも豊がプールに行きたいと言い出してくれたおかげだ。この数日、偶然を装いながら、豊にプール特集の番組を見せ続けた甲斐があった。悠子ちゃんも一緒なら流れるプールだろうが、ウォータースライダーだろうがどこだって連れてってやる。
今まで、何度か悠子ちゃんに「俺とプールに一緒に行こう」と誘ってはいたのだが色々な理由をつけては断られていた。用事があるとか、天気が悪そうだしとか、泳ぐのが苦手でとか、着ていく水着がないとか……とにかく行きたくないんだな、ということだけは伝わってきた。
プールだけでなく昔、温泉に一緒に入りたいって言った時も断られた。顔を真っ赤にして可愛い顔と可愛い理由で拒否するから無理強いなんて出来なかったけど……。
悠子ちゃんの水着姿を小・中学校や高校の同級生だった男子は見たことがあるのに兄である自分が見れないなんて不公平ではないだろうか。常々そう思っていたのだが悠子ちゃんの嫌がることをするのも気が引けた。
だから先月ショッピングセンターを歩いている時も悠子ちゃんにぴったりの水着を見付けた時も購入するかどうか、かなり悩んだのだ。透き通った海のようなエメラルドグリーンの水着。首の後ろで結ぶタイプでデザインだけじゃなく、サイズも悠子ちゃんに丁度良さそうだった。
でも一緒にプールに出掛ける予定もないのに購入するのは時期尚早な気がして、その時は購入を見送った。
しかし、二週間後に悠子ちゃんとプールの約束をとりつけた今、諦めるつもりはない。三人で水族館に行った次の日、俺は早起きして開店と同時にショッピングセンターに入っていった。
エメラルドグリーンの水着は以前と違う場所に飾ってあった。
一瞬、売り切れかと思いヒヤッとした。
目当ての水着を買った後、ついでに通路の向かいにも水着ショップがあったので覗いて行くことにした。というのも購入した水着は俺が見る分には問題はないけれど、他の男には見せたくないな、という思いが俺の中に生まれ始めていたからだ。
どこのプールに行くか、決めるのはこれからだ。でも夏休みの土日に行くとなればどこのプールだって混雑しているだろう。悠子ちゃんの素肌がなるべく隠せる地味めな水着もあった方がいい。体の線が隠せるような上着も欲しかった。
偶然、その店では俺が考えていたような水着やラッシュガードが見つかり、俺はいい買い物をしたな! と満足しながら家に帰った。
家に帰った俺は、荷物を置いてから悠子ちゃんの部屋の扉をノックした。扉を開けて出てきた悠子ちゃんは、すぐに俺の手元の紙袋に目をやった。
「それ、もしかして……」
「うん、買ってきたから着てみて。お金のことは気にしないでね。遠慮しないで受け取ってくれると嬉しいな」
倹約家の悠子ちゃんに素直に受け取って貰えるとは思っていない。でも俺としても一歩も譲る気はなかった。
「あの、私は今日自分で買いに行こうと思っていた次第で」
「そうなの? じゃ一緒に行こうか、他にも気になるのがあったんだ」
にこりと返事をすると悠子ちゃんは小さな溜息をついた。俺が懲りずに服やら、今日のように水着を買ってくるから呆れてるんだろうけど。諦めないよ?
「この水着、絶対悠子ちゃんに似合うから。俺の前で着て見せて」
悠子ちゃんの両手をまとめて包み、その手に紙袋を握らせた。悠子ちゃんは困った顔でおろおろしている。
「ね、お願い」
眉根を寄せて、悠子ちゃんの目を捉えながらお願いする。
どうか断らないで受け取って欲しい。その一心で見つめ続けていると悠子ちゃんは幾分か悩んだ後、苦笑を浮かべた。
「ありがとうございます。じゃあ二週間後にこの水着を着て行きますね」
――良かった、受け取ってくれて。
俺はホッと胸を撫で下ろした。
でも出来ればすぐに悠子ちゃんの水着姿を見てみたい。
「今着るのはダメ?」
「無理です。現実的に不可能なことを仰らないで下さい」
「今が無理なら今夜、悠子ちゃんの部屋に行くからその時に着て見せて。サイズも合ってるか心配だし、何より俺が一番最初に見たいから」
豊より、誰より、俺が一番先に見る権利がある。
一番最初に見て、この目に焼き付けたい。
顔を赤く染めた悠子ちゃんは、俯いて顔を隠す。
「楽しみにしてるね」
悠子ちゃんの耳元に唇を近づけて囁けば、びくりと跳ね上がる。
可愛いなぁ。
この悠子ちゃんが水着を着たらますます可愛くなるに違いない。
今夜、どんな悠子ちゃんが見れるだろう。
俺はわくわくしながら、悠子ちゃんの部屋の扉を閉めて自室に戻った。
夕飯後、一緒にお皿を洗いながら悠子ちゃんに予告した。
「一時間後に行くからね」
「……あんまり期待しないで下さいよ」
悠子ちゃんは自分の容姿や体型に自信がないからそう言ったんだろうけど
、期待せずにはいられない。皿洗いを終え、部屋に戻った俺はドキドキしながら部屋の時計を眺めていた。
スマホでニュースを見ながら心を落ち着ける。
あと少しだ。悠子ちゃんと家族になって約十年、悠子ちゃんの色んな姿を見てきたけれどようやく水着を身にまとった姿を見ることが出来る。
悠子ちゃんに渡した水着はエメラルドグリーンの方だけだ。きっと二つ共渡してしまえば悠子ちゃんは性格上、後から選んだボーダーの水着の方を着てしまうだろうから……。
予告した時間を迎え、コンコンと悠子ちゃんの部屋の扉を叩いた。
「入っていい?」
「ど、どうぞ」
中に入ると悠子ちゃんは、ベッドの上に座って布団でその身を包んでいた。ひょこっと布団から顔だけ出してこちらを見上げている。
「随分とかわいいおばけだね」
その姿があまりにシャイな悠子ちゃんらしくて、口に手を当ててくすりと笑ってしまった。
「布団取っちゃうよ」
「ぎゃっ」
悠子ちゃんの体を隠す無粋な布団を剥ぎ取って、言葉を失う。
悠子ちゃんのスタイルがいいのは昔から知っている。だからこそ悠子ちゃんには男の目を引かないよう普段からゆったりとした服を着て貰っているのだけれど、これ程とは思わなかった。
というか、絶対に昔より成長してるよね……?
もう一度、確認するように悠子ちゃんの胸元を見る。食べ頃の果実が俺の目を奪う。慌てて咄嗟に後ろを向いた。
「そ、想像以上だった……」
落ち着け、落ち着くんだ。深呼吸しなければ。
邪まな目で悠子ちゃんを見たりしたら、怖がられる。
「い、和泉さん、もういいですよねっ!?」
「え、それは駄目。はぁ――ふぅ――、よし、心の準備が出来た」
兄として、毅然とした態度で臨まなければならない。
びしっと心を入れ替えて振り向くが、ベッドの上で枕を抱いている悠子ちゃんを見ると決意が揺らぐ。
「ね、ねぇ、悠子ちゃんは何で枕を持ってるの?」
「……お見せ出来るような身体じゃありませんから隠してるんです」
肝心な所が見えないから余計に気になるんだけど……。
きっと悠子ちゃんはそんな男心など知らない。
「じゃ、じゃあ、どうしてベッドの上に座ってるの?」
「恥ずかしいから、布団の中で隠れてたんですっ!! わざわざ聞かないでくださいよっ」
濡れた瞳で白い肌を赤く染める悠子ちゃんを見ていると『据え膳食わぬは~』ということわざが頭の脳裏を過ぎった。そういうつもりじゃないんだけど……裸に近い格好で、ベッドの上で枕を抱いているというシチュエーションはむしろそれ以外思いつかなかった。
「もう着替えてもいいですか」
「そんなこと言わないで。あの、よく……似合ってるよ」
いつものように言葉が上手く出てこない。思うままに言葉にしたら、それは欲にまみれた台詞にしからならない気がした。
「えぇ、ありがとうございます。気持ちだけは受け取りました」
「そ、それって、もう着てくれな」
「大切にしまっておきますね!」
俺の言葉が不自然過ぎて悠子ちゃんはお世辞として受け取ったようだった。
違うのに!
「もう目的は果たしましたよね?」
悠子ちゃんの目が「早く部屋から出て行ってください」と言っているけれど、まだその水着姿を一瞬しか見ていない。
「ううん、まだ」
俺はベッドの上に上がって、悠子ちゃんの前で正座した。シャイな悠子ちゃんが俺の為だけに水着を着てくれて、見せてくれる機会なんて今後ないかもしれない。今の内にしっかり記憶しておかなければならない。
正面から悠子ちゃんの全身を眺めていると、悠子ちゃんは恥かしさのあまり腕の中の枕に顔を埋めた。
「悠子ちゃん、その枕はなして」
「……イヤです」
「そのままだと水着が隠れてまったく見えないよ。見せてくれるって約束したでしょ――俺、悠子ちゃん相手に無理矢理とかしたくないな……」
悠子ちゃんにぎゅうぎゅう抱きつかれる枕が妬ましくなってきた。
そんな枕より俺の方がよっぽど頼りになるし。
「そ、そういう脅しはやめましょうよ」
「はい、俺が優しくしてあげられる内に枕を貸して」
笑みを浮かべながら、悠子ちゃんの前に両手を出す。
早くここに枕を乗っけないと俺が奪うしかない。
悠子ちゃんの柔らかな体を堪能するとか、枕と言えども許しがたい。
両手を出したまま、一向に引く気のない俺に悠子ちゃんは怯えながら枕を俺の手の上に乗せた。
「ありがとう」
受け取ってすぐベッドから届かない距離に枕を投げた。
これで悠子ちゃんの体を隠すものはなくなった。
悠子ちゃんが両手で胸元を隠すように押さえるとより谷間は深くなる。水着の胸を覆う面積が小さいから上から見るとより危険な状態だった。
――彼女は、無意識でやっていることなんだ。心頭を滅却しかない。
透けるような白い肌にモルディブの海のようなエメラルドグリーンの水着が映えて悠子ちゃんの魅力をより際立たせている。着たら可愛いだろうな、と考えていたけど思った以上に煽情的で……きっと俺だけでなく周囲にいる男の目を釘付けにしてしまうだろう。
「先月偶然、ショッピングセンターでこの水着を見つけた時ね、これは悠子ちゃんの為の水着だと思ったんだ。大人っぽいデザインだから着て貰えるか心配してたけど……ありがとう。本当に、想像以上に似合ってて……びっくりした」
殺人的なまでの破壊力。恥らう姿も見上げる瞳も触れたくなるような体も全部が俺を誘っているように見える。
これは、絶対に俺以外の誰にも見せてはならない。
料理上手で気立ても良くて可愛い。その上、異性を虜にするだろう性的な魅力に溢れる身体。先程から頭の中で危険信号が赤く点滅していた。
「そ、そうだったんですね。てっきり私が太っているから顔を逸らされたのかと」
「悠子ちゃんは太っていません。平均より少し軽い位です。だからもっと太ってもいいと思います」
小さな悠子ちゃんの体はいつ抱き上げても軽々と持ちあがる。俺が高校生の時、初めて中学生の悠子ちゃんを持ちあげた時は軽くて心配になった程だ。あの頃から悠子ちゃんの身長は伸びず、一部分だけ成長し続けている。
今日水着姿を目にして、それを十分という程理解した。
「でも似合いすぎて心配だから、その水着は俺の前専用にして欲しい。もう一枚、水着は買ってあるから豊と行く時はそっちの水着を着ようね」
「な、何故わざわざ二枚も?」
「うん、ちょっと待ってて」
俺は一度、悠子ちゃんの部屋を出て二枚目の水着を自分の部屋に取りに行った。
もう一枚買っておいて本当に良かった。あの水着を着た悠子ちゃんを出歩かせるなんて、一瞬でも考えた俺は何て馬鹿な男だったんだ。半裸の狼だらけがいる場所で最大限に魅力を発揮した妹を晒せるか!!
悠子ちゃんの部屋に戻り「開けてみて」と別の水着が入った紙袋を手渡す。中から出てきたのは紺と白のボーダーの水着。なるべく体の線が出ない物を意識しながら、悠子ちゃんの好みも考慮した。
「たぶん悠子ちゃんはこういう水着が欲しかったんでしょう? でも俺はどうしても今着てる水着を身につけた悠子ちゃん見てみたくて……けど危険過ぎたね。俺はそれを心の底から思い知った。悠子ちゃんはどこも悪くない! だから再来週はこっちのボーダーの水着を着てプールに行こう」
俺がそう提案すると悠子ちゃんは迷わず頷いた。
「はい、そうさせて頂きます」
何だかこの様子だと今着てくれている水着、今後は着てくれない気がする。とてもよく似合ってるんだけどな。
目の前の悩ましい体を見下ろすと俺の視線に気付いた悠子ちゃんは「見ないで下さい」と俺を睨んだ。……勿論可愛いこと、この上ない。
――プールに行くの、止した方がいいかな。
そう思ってしまうのも仕方がない、困惑と誘惑の夜だった。
悠子がこの水着を次に着ることになるのは、数年後の新婚旅行。
プライベートビーチだから兄も安心です。