22 兄の氷解
映画館から近い商店街にあった薬局で絆創膏と消毒スプレーを買った俺は、全速力で悠子ちゃんの元へ戻ろうとする途中で靴屋を見つけて立ち止まった。
店頭には可愛いバレーシューズが置いてあった。この靴ならヒールが低いしクッション性もありそうだから悠子ちゃんが痛い思いをしなくても良さそうだ。悠子ちゃんの代えの靴も購入し、辿り着いた映画館でスマホ出して時間を確認すると十分程で帰ってこれたようだった。
入り口を潜り、悠子ちゃんに走り寄ろうとして足が止まった。
悠子ちゃんが隣に座った男と手と手を取り合って満面の笑みを浮かべている。
目の前の光景に力が抜け、手から紙袋がばさりと抜け落ちる。
あんな無防備な笑顔、俺には滅多に見せてくれないのに。
相手の男は黒髪でメガネを掛けていて真面目そうだ――あれが仲島か。悠子ちゃんは友達だと言っていたけれど、二人はどう見ても恋人同士にしか見えなかった。
仲島は悠子ちゃんの好きなキャラである居城穂積と似ているし、恋する乙女のように白い頬を薄く紅潮させている。あの可愛い服だってあの男の為に着てきたに違いない。何より、男が苦手な悠子ちゃんが自分から仲島に触れているのは決定的だった。
描いていた未来が砂の城のようにさらさらと崩れていく。
ずっと隣で笑っていて欲しかった。
俺の一生を彼女に捧げたかった。
けど、悠子ちゃんの幸せを祈るなら俺は身を引くより他はないのだ。ショックを受けていると、俺に気づいた悠子ちゃんが仲島と手を繋いでこちらに走ってきた。
悠子ちゃんに仲島との仲良しアピールをされて大打撃を受けた。
つらい、つらすぎる……!
「和泉さん! おかえりなさい。あの彼が私の」
「彼氏の、仲島君でしょう。うちの悠子ちゃんがお世話になっているようで」
悠子ちゃんが皆まで言わなくてもわかっている。俺は理解のある兄に見えるよう、力を振り絞って笑顔を作った。
「いや、オレがこいつの彼氏とかありえませんから! 友達としてはイイ奴ですけど、異性としてはナイっす」
――アリエナイ? 女の子としてナイ?
照れ隠しにしても性質が悪すぎる。
「何言ってんの、俺の悠子ちゃんがアリエナイとか。こんなに可愛い子、地球上に一人しかいないだろ。その目、節穴?」
この時、俺の中に迷いが生じ始めた。
こんな男に、悠子ちゃんを渡してもいいんだろうか。
「ふ、節穴。冴草、なんなのこの人。初対面なのに貶してくるとか酷くねぇっ」
「ごめん……うちの兄が」
最初に悪く言われたのは悠子ちゃんなんだから謝る必要はない!
俺より仲島の肩を持つ悠子ちゃんに悲しみを覚えた。
「これで兄なの!? スゲェな、お前の兄貴」
「俺が、悠子ちゃんの兄で何か文句があるのかな?」
抑えていた声が思わず低くなる。
「そうですか……お兄さんなんですね……」
仲島は悠子ちゃんの方を見て、目と目で会話をしている。俺と悠子ちゃんより、仲島はわかりあえている存在なのだ。アイコンタクトをする二人の仲の良さを目の当たりにして涙腺が緩み始めた。
「わかってもらえて何よりだよ、仲島。……そ、そろそろ次の映画始まるんじゃない。行ってきたら」
「うぉ、やべぇ。じゃもう行くわ」
「うん、また今度ね」
また、今度。俺の前で仲島とデートの約束をする積極的な悠子ちゃん。俺とのデートは素気なく断るのに、仲島は特別なのだ。絶交もされて、悠子ちゃんに嫌われてしまったような自分に出る幕はない。
上映室に入っていく仲島の背を悠子ちゃんの目は追っていた。本当は俺とじゃなくて、あいつと映画が見たかったんだろう。
堪え続けていた涙腺は遂に決壊した。涙で悠子ちゃんの顔が見えない。
けれど姿形で近づいてきてくれているのだけはわかった。
「……悠子ちゃんは、仲島のことが好きなんだね。――兄として、応援するよ。俺が反対してたから、言えなかっただけで本当は付き合ってるんだろう」
仲睦まじい二人の様子を見た今となっては疑いようのない事実だった。
「これから、悠子ちゃんはあいつと同じ道を歩み始めるんだね。近い将来、俺は悠子ちゃんの結婚式で一緒にバージンロードを歩くんだ」
ウエディングドレス姿の悠子ちゃんの隣に立って歩く俺。バージンロードをその向こう側には、神父と新郎がこちらを見ながら俺達が来るのを待っている。腕に絡まる悠子ちゃんの手をそのままに歩く足を止めてしまいたい。
「あの、私、仲島と結婚するなんて一言も言っていませんよ!」
「仲島との間に子供を設けて、俺に可愛がって下さいねって姪か甥を実家に連れてきて……」
仲島の遺伝子を微塵も感じさせない悠子ちゃんにそっくりの女の子がいい。小さな足で俺の方へ走り寄ってきてにぱっと笑ってくれたら、抱きしめて離さない。
「こ、子供って……人の話をちゃんと聞いて下さいよ」
「俺は、叔父として悠子ちゃんの幸せを見守るしかないんだ」
仲島が家を構えるのはうちから近ければいい。そうしたら悠子ちゃんとスーパーで会うような偶然もあるかもしれない。今後、おかえりなさいと玄関で見送る相手も、悠子ちゃんがエプロンをつけてお味噌汁をよそう相手も、唇を許す相手も――全部仲島なのだ。
考えれば考えるほど涙が止まらなかった。俺の想像が晩年に差し掛かった頃、パンッと俺の両頬を悠子ちゃんが叩いた。目の前には悠子ちゃんの怒った顔が目の前に迫っていた。両手は頬から離れず、俺の両頬を包んでいる。
「仲島と私は付き合ってません! 仲島と電話で話していたのは、ま、漫画の話ですよ。あのカートに旅行グッズ入れてるなんて中も見ていないのに決めつけないで下さい。行きに関しては中身は空っぽでした」
結婚して欲しい、部屋に泊まりたいと電話で話していたのは全部漫画の話でカートは空っぽだった? 何より仲島とは付き合っていないと言った言葉が頭の中でぐるぐる回っている。突然のことで理解が追いつかなかった。
「そ、そうなの……」
聞き返す声には喜びの色が混じった。もしそれが本当なら悠子ちゃんを諦めなくてもいいのだ。
「そうなんです! 正直、和泉さんには話せないことだってあります。でも私の特別は和泉さんだけです。私の心を無視しないで下さい」
苦しげに歪んだ悲痛な表情で悠子ちゃんは訴えた。確かに悠子ちゃんはずっと俺に仲島は友達だと説明してくれている。
だけど、男女の間に本当に友情が存在するのだろうか。悠子ちゃんに拒否さればかりの俺より、仲島の方が大切にされているように感じた。
すると、悠子ちゃんの手が俺の頬を引き寄せて小さな口づけを落とした。
「わたしは! 和泉さんにしかこういうことはしませんから、わかって下さい」
顔を真っ赤にして悠子ちゃんはまっすぐ俺の目を見据えていた。あのシャイでウブな悠子ちゃんが自分からキスをしてくれた……。頬に手を触れて、先程の感触を思い出す。
「お、俺だけ?」
「はい、和泉さんだけです」
躊躇いなく頷く悠子ちゃんを見て、顔に熱が集まり始めた。悠子ちゃんの唇が触れるのは俺だけ。仲島より、誰より俺は悠子ちゃんの特別だったんだ。
「嬉しくて、心臓が止まりそう」
絶交もされて、嫌われてしまったのかと思っていた。でもそれは勘違いに過ぎなくて、仲島は俺以上にはなり得ない正真正銘の友達だったのだ。
喜びに浸っていると、悠子ちゃんが抱きしめてくれる。こんな幸せなことはない。動いてしまうのが勿体なくてその体勢のままでいると周囲から拍手の音が聞こえてきた。
顔を上げた悠子ちゃんに合わせて、俺も周りを見渡すと観客に囲まれていた。どうやら俺達はいつの間にか注目の的になっていたようだ。
「恥ずかし過ぎて死にたい……」
最高潮に顔を赤面させて悠子ちゃんが呟いた。……だろうな。俺は比較的他人からの視線に耐性があるけど、悠子ちゃんにはない。
「ちょっと我慢してね」
悠子ちゃんの耳元に囁いて、その小さな身体を持ち上げた。このままここにいても悠子ちゃんに恥ずかしい思いをさせてしまうだけだ。映画館の出口を目指して歩いていった。
外に出ると日は沈み、すっかり暗くなっていた。俺は映画館を出て角を曲がった所にベンチを見つけて悠子ちゃんの身体をゆっくりと下ろした。地面に足をつけると、悠子ちゃんは顔を歪めて踵に視線をやった。
怪我の手当としないと、そう思った所で俺ははたと気づいた。絆創膏や靴が入った袋を映画館に置いてきてしまった。
「悠子ちゃん、ちょっと忘れ物をしたから取ってくるね」
映画館に入り受付で忘れ物について尋ねると、預かっていてくれた。俺は礼を伝えて悠子ちゃんの元へ戻っていった。
ハイと絆創膏と傷スプレーを渡すと悠子ちゃんは靴下を下ろして手当てを始めた。俺は背を向けて悠子ちゃんの素足が他人に見られないよう周囲を警戒した。
後ろでは傷口にスプレーを噴射している音が聞こえた。すぐに終わるかなと後ろを振り向くと子ちゃんは腰を曲げて必死に腕を踵に伸ばしていた。前のめりになって転んでしまいそうでひやひやする。
悠子ちゃんは、しばらくすると諦めて俺に声を掛けた。
「和泉さん、すみません。お手数ですが踵に絆創膏を貼って頂いてもよろしいでしょうか」
勿論! 俺に出来ることなら何だって!
珍しい悠子ちゃんのお願いにそう言いたい所を抑えてウンと平静を装って答えた。悠子ちゃんの足下にしゃがみ絆創膏のシート剥がすと、悠子ちゃんは俺の方に踵を向けてくれていた。絆創膏を伸ばしながらずれないように慎重に踵にペタリと貼り付けた。
「ありがとうございます」
悠子ちゃんがあの痛い靴を履こうとしているのに気づいて、すかさず紙袋から靴を出して差し出した。
「あの、良かったらこれ使って」
サイズは二十二センチで合うはずだ。靴を脱がせて、新しい靴を足にはめようとしていると悠子ちゃんは慌てた。
「え、いいですよ、そこまでして頂かなくてもっ」
「さっき、腕を伸ばしてつらそうにしてたでしょ」
そう言うとぐっと黙って俺のさせたいようにさせてくれた。靴は悠子ちゃんの足にぴったりのサイズだった。デザインも可愛いから、普段も使ってくれると嬉しい。
「もう、暗くなっちゃったから帰ろうか」
足の怪我を考慮して、ゆっくりと悠子ちゃんと並んで歩き始める。親父がいる家に帰るのが憂鬱だった。親父は悠子ちゃんと仲直りさせる為にチケットを渡してきたんだろうけど、まだ悠子ちゃんの絶交宣言は解けていない。何を言われるかわかったものではない。
……悠子ちゃんは、もう怒ってないのかな。聞きたくても聞けない。俺は無言のまま悠子ちゃんと駅までの道を歩き続けた。信号が赤になり、立ち止まると悠子ちゃんは俺を見上げて尋ねた。
「和泉さん、まだ誤解してますか」
すぐに仲島のことだとわかった。ここで答えを間違えたら振り出しに戻ってしまう。息を飲んで、短く答えた。
「――ううん、もうしてないよ」
俺の答えに悠子ちゃんは晴れやかな笑顔を向けてくれた。もっと悠子ちゃんの言葉を信じてあげればよかった。
「じゃあ、仲直りです」
俺の手を握ってくれた柔い手を握り返した。
もう二度とこの手を握れなくなるかと思っていたから、夢のような幸福感だった。
そのまま二人で歩いていると悠子ちゃんはフラバタの映画の感想を話し始めた。悠子ちゃんには申し訳ないけどあまり映画の内容を覚えていない。あの時は映画を楽しめるような心境ではなかったのだ。
悠子ちゃんの話を聞きながら、ふと俺はポケットに入れていた物を思い出した。
「これ、チケットの半券切ってもらった時に渡されたんだけどいる?」
すっかり存在を忘れていたけど悠子ちゃんが欲しいかな、と思って貰っておいたのだ。貰った時は絵柄までよく見ていなかったけど、主人公の飛人と幼なじみの穂積の二人が印刷されたメモ帳だった。
すると悠子ちゃんは、俺の手の上のメモ帳を見下ろして子供のように目をきらきらと輝かせている。
「くっ、悠子ちゃん、欲しいんだね。はい、どうぞあげる」
そのわかりやす過ぎる反応に笑いがこみ上げてきた。手渡したメモ帳を悠子ちゃんはプルプル震える手で眺めている。
「一生大切にします!」
そんな大げさな。メモ帳一冊でこんなに喜んでもらえるとは。俺が笑い続けていると悠子ちゃんは怒った顔で語った。
「和泉さん、笑いごとじゃないんですよ。これはとても貴重な特典なんです。日本中に喉から手が出る程欲しがっている人がいるんですからね」
「うん、うん、良かったね」
悠子ちゃんのこういう姿を見てると安心した。ポンと悠子ちゃんの頭を撫でれば、ムッとした顔で俺を見上げる悠子ちゃん。とても高校生には見えなかった。
どうか今はまだこのままでいて。俺が手を離さなくても済むように。
暗い夜道の中、悠子ちゃんの歩幅に合わせて歩く。たとえ何も見えない暗闇の中に飛び込もうと彼女がいれば明るくなる。輝く月を見上げながら、悠子ちゃんと笑い合う未来に思いを馳せた。
家に帰った俺は悠子ちゃんと一緒に夕飯の鍋を作り、家族全員で夕食を食べた。俺達が仲直りに協力してくれた両親に礼を言うと、映画のチケットを渡す計画したのは親父だと妃さんが明かしてくれた。
妃さんは時間が解決すると考えていたようだが、親父はかなり心配していたらしい。
悠子ちゃんも夕飯を作ってる時、そう言ってたしな……。
もう少し素直にチケットを受け取ってやれば良かった。
夕飯を終えた後、俺は皿洗いを引き受けた。自分の勘違いの所為で皆に迷惑を掛けてしまい、申し訳ない気持ちもあって何かさせて欲しかった。最後の一枚を洗い終え、部屋に戻ろうとしている所で親父に声を掛けられた。
「和泉、そこに座れ」
今、周囲には悠子ちゃんも妃さんもいない。
真剣な表情の親父から逃げたい気分になったが、踏み止まって椅子を後ろに引いた。目の前に座った親父は、内心びくついている俺の前に座って机の上で手を組んだ。
「オレが渡したチケットはきっかけに過ぎないと思ってる。和泉はどうして悠子ちゃんと仲直り出来たかわかってるか?」
「……悠子ちゃんのおかげです」
完璧に冷静さを失っていた俺の目を醒ましてくれたのは、他の誰でもない悠子ちゃんだった。親父には勘違いと言われ、仲島には悠子ちゃんとは付き合っていないと交際を否定されたにもかかわらず信じられなかった。
照れ屋の悠子ちゃんが俺の頬にキスをするなんて……誤解を解くためにかなりの勇気を出してくれたんだと察せずにはいられない。
「そうだろう。一言も会話をしなくなったお前達にオレでさえどうすればいいのか、困り果てていた。オレが悠子ちゃんに『和泉のこと許せなくてもいいから口だけでもきいてやって欲しい』って頼んだ時、悠子ちゃんは何て答えたと思う?」
俺は見当も付かず、親父の質問に首を振った。
「『いいえ、私は許すことを諦めませんよ』って言ったんだ。喧嘩してても、悠子ちゃんはどんな形であろうとお前を許す気でいたんだよ」
悠子ちゃんは親父にそんなことを言ってくれていたのか。
彼女の隠れた強さを知り、更に好きになってしまう。
「……オレは父親として自分が情けなくて、何とか力になってやりたかった。悠子ちゃんは優しくてとても繊細な子だ。大切にしたいのはわかるが、今のお前じゃ悠子ちゃんだって頼れない」
「前のままじゃダメだって……俺だって変わろうと努力してるんだ」
悠子ちゃんは俺の変化を喜んでくれた。他人行儀だった彼女が以前より家族として認識してくれているようで嬉しかった。なのに、親父も……貴士もまだ俺は《普通》になりきれていないと言う。
「俺がお前に言いたいのは悠子ちゃんに感謝しろってことだ。兄ならあんまり可愛い妹を困らせるな。――それに悠子ちゃんだって年頃の女の子なんだ。今回のことは誤解だったが、悠子ちゃんがいつ誰を好きになるかわからない。その時、お前は目を逸らさずに受け止められるか?」
無理だ。仲島のことだって自分の心を殺して認めようとしたくらいだったのだ。
悠子ちゃんは恋なんて知らなくていい。
だから、今度こそ危険は見逃さない。
余計な虫がつかないように、どこかの狼に狙われないように完璧に守りを固めなければならない。兄として、俺が悠子ちゃんの全てを守ってみせる。
俺は反抗的な目で親父を見返した。
「それがお前の答えか。オレは、お前がわざとわからないふりをしてるんじゃないかって思わずにいられないんだが」
何を、なんて聞かない。
俺がわかっていることはひとつ。
誰にも悠子ちゃんをやりたくないということだけだ。
その為にも、悠子ちゃんが他の男に目移りしないようにしなければならない。
悠子ちゃんの一番近くにいるのは俺だ。少しずつ悠子ちゃんの異性の好みを把握していって、ひよこに刷り込むように俺が彼女の理想になればいい。
「俺は悠子ちゃんが隣で一生幸せそうに笑ってくれるなら何でも出来るよ」
「オレに言われてもな……」
と親父は苦笑いをこぼした。
親父が話したいことは終わったようだ。
俺はスッと席を立ち、親父に背を向けた。
自分が頼んだことだ、これだけは伝えなければならないだろう。
「悠子ちゃんのバイトの迎えに行ってくれて助かった。明日からはもう俺が行くから」
そうか、と親父の嬉しそうな声を聞いた俺は颯爽と階段を駆け上がっていった。