21 妹の奮闘
兄が走り去った後、大人しくベンチに座って鞄からパンフレットを眺めていると、自分の前で誰かが立ち止まった気配がした。兄にしては帰ってくるのが早すぎる。顔を上げると、
「やっぱり冴草だ。いつもと感じが違うから、一瞬わからなかったぞ」
仲島が立っていた。
出来れば知り合いにはお洒落しているところなんて見られたくなかった……。
しかもよりにも腐の仲間である仲島に見られてしまうとは気恥ずかしい。
「き、気にしないで、それより仲島もフラバタを見に来たの?」
「愚問だぜ! それ以外にここに用事はねぇ」
仲島は隣に座って、私のパンフレットを覗いてきた。
「今回の映画は面白そうだよなぁ。前回は内容に対して尺が短すぎた」
「仲島もそう思ったんだ。今回はいいよ、さっき見てきたけどハンカチ無しでは見れない」
話を続けていると仲島はチケットを買った後、次の公演時間まで時間をつぶしているようだった。兄を待っている間、私も暇だったのでしばらく話していると来場者特典の話になった。
「私は飛人の貰ったよ。メモパッド可愛いよね」
「なぬ、俺は穂積だった」
仲島は穂積君のメモパッドを私に見せた。仲島の推しキャラは飛人、私は穂積君だ。つまりすることはひとつ――私達はガシっと手と手を握り合って交渉が成立した。私と仲島は互いの特典を交換し、ほくほくしながら穂積君のメモパッドを鞄の中にしまった。
「……なぁ、冴草さっきから俺達を見ているイケメンがいるんだけど知り合いか」
仲島が私に近付いてこそこそと話掛けてきた。仲島の指を差す方向を見てみると、兄が少し離れた所でこちらを茫然と眺めていた。その手の下には倒れた紙袋、顔はショックを受けているように見えた。
――もしかして、仲島と私の仲を誤解されてる!?
今すぐ仲島は友達だと紹介してわかって貰うしかない! と思い立ち仲島の手を取って立ち上がった。
「ちょっと付き合って」
動揺しながらも焦った様子の私に、仲島は付いてきてくれた。兄の前に仲島と並んだ私は、早速仲島を紹介することにした。
「和泉さん! おかえりなさい。あの彼が私の」
「彼氏の、仲島君でしょう。うちの悠子ちゃんがお世話になっているようで」
私の言葉は突然遮られ、兄は仲島に笑顔で小さく頭を下げた。
仲島を睨むくらいしそうなのに……穏便な対応に息を飲んだ。
私としては仲島が恋人だと兄に認められても嬉しくも何ともないのだけれども!
「いや、オレがこいつの彼氏とかありえませんから! 友達としてはイイ奴ですけど、異性としてはナイっす」
いきなり彼氏だと勘違いされた仲島は顔の前で手を横に振りながら私との恋仲を全否定した。否定してくれるのは嬉しいが、随分な言いようである。私だってお断りだよ。
「何言ってんの、俺の悠子ちゃんがアリエナイとか。こんなに可愛い子、地球上に一人しかいないだろ。その目、節穴?」
「ふ、節穴。冴草、なんなのこの人。初対面なのに貶してくるとか酷くねぇっ」
仲島に助けを求められ、正直に白状した。
「ごめん……うちの兄が」
「これで兄なの!? スゲェな、お前の兄貴」
こういう反応をされると思ったから、仲島には兄の話していなかったのだ。今、仲島は兄を重度のシスコンとして記憶しただろう。
「俺が、悠子ちゃんの兄で何か文句があるのかな?」
「そうですか……お兄さんなんですね……」
仲島から同情の視線を受けて、罰が悪くなりサッと目を逸らした。
察しが良くて助かるが居たたまれない。
「わかってもらえて何よりだよ、仲島。……そ、そろそろ次の映画始まるんじゃない。行ってきたら」
これ以上私達の兄妹喧嘩に巻き込むのは悪いし、そのせいで仲島が映画を見逃すことになってしまうのも申し訳ない。スマホで時間を確認した仲島は、目を丸くした。
「うぉ、やべぇ。じゃもう行くわ
「うん、また今度ね」
おぅと返事をして仲島は上映室の入り口を潜って行った。
仲島は私と交際はアリエナイとまで言ってくれたし、これで私達が友達だと理解して貰えただろう。
そう思って、兄に向き直ると二重の眦からボロボロと涙を流していた。
涙を拭いもせず、兄は語り出す。
「……悠子ちゃんは、仲島のことが好きなんだね。――兄として、応援するよ。ラブレターの時も俺が反対してたから、言えなかっただけで本当は付き合ってるんだろう」
何故、勘違いが進化していている!?
「これから、悠子ちゃんはあいつと同じ道を歩み始めるんだね。近い将来、俺は悠子ちゃんの結婚式で一緒にバージンロードを歩くんだ」
「あの、私、仲島と結婚するなんて一言も言っていませんよ!」
話が飛躍し過ぎている。急に始まった兄の妄想劇場に私は二の句が継げない。
「仲島との間に子供を設けて、俺に可愛がって下さいねって姪か甥を実家に連れてきて……」
「こ、子供って……人の話をちゃんと聞いて下さいよ」
「俺は、叔父として悠子ちゃんの幸せを見守るしかないんだ」
泣きながら完全にトリップしている兄はまったく私の話を聞いていない。私も飛人と穂積の妄想をするけど、自分を題材にされて好きな人に他の人とカップリングされるのは拷問でしかなかった。これ以上、兄の話を聞くのは精神が持たない。
妄想の世界に旅立っている兄の目を覚ます為に、渾身の力を込めてパシンと両手で兄の両頬を挟んで目線を合わせた。
「仲島と私は付き合ってません! 仲島と電話で話していたのは、ま、漫画の話ですよ。あのカートに旅行グッズ入れてるなんて中も見ていないのに決めつけないで下さい。行きに関しては中身は空っぽでした」
「そ、そうなの……」
「そうなんです! 正直、和泉さんには話せないことだってあります。でも私の特別は和泉さんだけです。私の心を無視しないで下さい」
兄の涙はもう止まっていた。
泣きながら、仲島との仲を認めようとした兄はどんな気持ちだったのだろう……。
私が仲島を好きだと思い込んでしまうのは、私の思いがまったく兄に伝わっていないからのような気がした。もっと態度で示した方がいいよ、とアドバイスしてくれた麻紀ちゃんの言葉が脳裏に蘇った。
言葉だけじゃ、伝わらないなら――私は勇気を出して兄の顔を引き寄せ、頬に唇を寄せて口付けた。
「わたしは! 和泉さんにしかこういうことはしませんから、わかって下さい」
信じてくれるまで兄から目は逸らさない。兄は瞳を大きく見開いて、その琥珀色に私を映し出していた。私がキスした箇所に手を当て、呟いた。
「お、俺だけ?」
「はい、和泉さんだけです」
大きく頷いて答えると兄は目に見えるくらい顔を一気に赤面させた。
嬉しくて、心臓が止まりそう、と兄が呟く。
長かった……ようやく思いが伝わったんだ。私の肩口に顔を預けた兄のそっと抱きしめた。その時、耳にパチパチと拍手の音が聞こえ始めた。
――拍手?
嫌な予感を覚えながら、恐る恐る顔を上げた。壊れた人形のようにギギギとゆっくり首を回して周囲を見渡すと、家族連れの人や、カップル、老若男女の人々は笑顔で拍手をしながら私達を見守っていた。主婦の一人が「若いっていいわねぇ」と口にすると周りの人々はウンウンと頷いている。
兄への告白も、頬へのキスも、抱擁も、全て見られていた!!
瞬時に大いなる羞恥が私のチキンハートを襲った。
「恥ずかし過ぎて死にたい……」
その言葉を拾った兄が、耳元で「ちょっと我慢してね」と囁いて私を胸に抱いて持ち上げた。キャーキャー興奮する女性の声が聞こえて、私はいっそ意識を失いたくなった。
映画館を出て、兄が私を下ろしたのは映画館の傍の歩道にあるベンチの上だった。兄は忘れ物をしたと言って映画館に戻って行った。
私はベンチに座って頭を抱えた。
何でドラマのラブシーンのごとくやらかしてしまったんだ……。
見るつもりはなくても、目立つ場所で繰り広げられれば見てしまうだろう。後悔の念に襲われていると、兄が紙袋を持って戻ってきた。ハイとその中から絆創膏と傷スプレーを渡してくれた。
それを受け取って、腰を丸めて靴下を下にずらした。皮がめくれ、思っていた以上に生々しい傷だった。ティッシュで血を拭き取り傷スプレーを噴射した後、絆創膏を貼ろうとして屈むと踵まで手が届かない。私の背が低いのか、ベンチが高すぎるのかどちらも原因のような気がした。立ち上がって貼ることも考えたが、ワンピース姿の自分を振り返り首を振った。スカートの丈がこころもとないのであまりやりたくない。私は恥を忍んで兄にお願いすることにした。
「和泉さん、すみません。お手数ですが踵に絆創膏を貼って頂いてもよろしいでしょうか」
「――うん」
今の頷くまでの間は何だ。気になりつつも、私の前で屈んだ兄に踵を向けた。兄は絆創膏が皺にならないよう、慎重な手つきで貼ってくれる。兄の手が離れていきホッと肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
靴下を上げて、靴に足を入れた。家に帰るまでに絆創膏がずれないといいけど。またこの痛い靴を履かなければならないのかと思うと憂鬱だった。
「あの、良かったらこれ使って」
そう言って兄が手に乗せて差し出してきたのは、新しい靴だった。しかも踵が低くて、内側にはふわふわのクッションが入ってるのが見えた。あの紙袋に入っていたのはこれだったのか。用意の良さに驚いていると、兄が私の靴を脱がせて新しい靴を履かせようとしていた。
「え、いいですよ、そこまでして頂かなくても」
「さっき、腕を伸ばしてつらそうにしてたでしょ」
よくご存じで。私は反論を諦めて、意識を逸らす為に顔を上げた。来る時は眩しかった夕日が沈み人通りはすっかり減っていた。
「もう、暗くなっちゃったから帰ろうか」
兄の言葉で立ち上がり、夜道の中を兄と並んで歩き始めた。
映画館に向かう前は、どうやって兄の誤解を解けるか悩み続けていたけど……こうして一緒に帰れるようになって良かった。兄と喧嘩してからずっとあった胸のつっかえがようやく取れた。
――でも、先程から兄が静かなのは何でだろう。
バイトのお迎えの時は色々話しかけてきてくれる兄が一言も発さないのは不自然だ。ちら、と兄の方を見ると兄は、怯えたような顔で私を見ていた。
その時になって私は気づいた。私達、まだ絶交したままだった。すっかり仲直りしたつもりになっていた。兄を許したい。でも、その前に最終確認をする必要があった。
「和泉さん、まだ誤解してますか」
何も言わなくても、わかって欲しい。黙って兄の答えを待った。
「――ううん、もうしてないよ」
穏やかな声で答えてくれた兄に安心した。
仲島との仲を完全に勘違いし、私を扉に押し付けた時の兄は怖かった。あの時の兄の目は、私の知らない熱を孕んでいて咄嗟に反撃することしか思い浮かばなかった。
でも今は違う。私の言葉を信じて、しっかりと受け止めてくれている。
「じゃあ、仲直りです」
にっこり笑って兄の手をぎゅっと握ると、そっと私の手を握り返してくれた。
兄と喧嘩して長い一週間だったけど諦めないでよかった。
帰り道は、兄にフラバタの映画の名場面について語りながら帰った。仲島とはあまり話せなかったから、誰かに話したくてたまらなかったのだ。すると歩いていた兄はふと立ち止まり、ポケットの中から何か出してきた。
「これ、チケットの半券切ってもらった時に渡されたんだけどいる?」
兄が手に持つ物を見て目を疑った。
そ・れ・は、幻の飛人&穂積のメモパッドではないですか……!
噂には聞いてたけどこの来場者特典、本当に存在したのか。ネットでは話題に上がりながらも、激レア過ぎて誰も映像もアップしていなかった。
「くっ、悠子ちゃん、欲しいんだね。はい、どうぞあげる」
兄は目の色を変えた私を笑いながら、ポンと手にメモパッドを置いた。
飛人と穂積君が二人でバットを掲げて×を作っている。
ミニキャラ可愛い……まるで同人グッズのようじゃないか。
「一生大切にします!」
感動しながら礼を伝えると兄はくすくすと笑っていた。兄からすればただのメモ帳なんでしょうけど、フラバタファンにとっては垂涎の逸品なんだぞ。
「和泉さん、笑いごとじゃないんですよ。これはとても貴重な特典なんです。日本中に喉から手が出る程欲しがっている人がいるんですからね」
「うん、うん、良かったね」
私の熱弁に対して相槌を打ちながらも兄は笑い続けている。本当にわかってるのかな、疑わしげに兄を見るとポンポンと私の頭を撫でた。微笑まし気な目で見られて毒気が抜かれる。
兄がもう一度、私の手を繋いで歩き出す。とくとくと胸に響く心音が心地よい。
空を見上げれば、夏の星空はと無数の輝きを放って瞬いていた。
家に着いた私達は、夕飯の鍋作りに取りかかった。
ワンピースのままだと服が気になって料理がしづらいので、私だけ一度部屋に戻って普段着に着替える。母がアレンジしてくれた髪をいつもの一本結びに戻し、鏡に写った自分を見てホッとした。これでこそ私だ。
部屋を出て、キッチンに戻った私はエプロンを身につけた。
「あ、和泉さんもう始めてくれてるんですね」
兄の傍に寄ってみると冷蔵庫から出した野菜をまな板の上で切り始めていた。バイトのおばちゃんから貰ったトウモロコシを使いたいけど、鍋にコーン……味噌とバターを入れればアリか? うむ、悩む。
両親は豊を連れてデートに出掛けているらしく、あと三十分もすれば帰るとメールがあった。それまでには鍋を完成させたいから兄の素早い行動は助かる。私は戸棚から鍋を出し、水を入れてガスコンロの上に置いた。
「悠子ちゃん、夏なのに今日は何でお鍋にしたの」
「母さんが鍋好きなんですよ、チケットをくれたお礼の気持ちを込めてです」
母と二人暮らしの時は、結構作ってたけど最近は作っていなかった。これからはもっと頻度を多くしてもいいかもしれない。雑炊にすれば豊の離乳食にも応用出来そうだ。
「父さんから、渡されたんじゃないんだ」
「へ、私は和泉さんも母から貰ったと思ってました」
私達は目を丸くして、顔を見合わせた。
「両親が計画したみたいだね」
「お父さんにも感謝しないと!」
「……うん」
兄は複雑そうな顔で頷いている。自分から父にお礼を言いたくないような空気を漂わせている。
「……お父さん、和泉さんのこと心配してくれてましたよ」
バイト帰りの時に父がしてくれた話を思い出す。自分の所為で兄は不遇な状況に置かれ人格形成にも影響が出たと心苦しそうに語っていた。責任を感じたからこそ、私達に仲直りしてほしくて行動に移してくれたのだろう。
「知ってるんだけど、どうしてもね」
眉を顰めて兄は苦笑をこぼした。そういう顔をされてしまうと何も言えない。二人に仲良くなって欲しいと思うのは、私の我が侭なのかな。いつか兄が父を許せる日が来ることを祈るしかない。
「はい、次は何をすればいい」
兄の目の前には切り終わった野菜の山が築かれていた。以前の兄は、包丁の使い方もたどたどしかったのによくぞこの三年で料理上手になってくれたものだ。料理の他にも母さんからアイロンの掛け方を習ったり、本を読んで庭の剪定を勉強したり、その向上心は目を瞠るものがある。
「……和泉さんは、凄いですね。三年前とは随分イメージが変わりましたよ」
弟の面倒も進んで見てくれるし、家庭的で、こうして当たり前のように隣に並んで料理をするようになるとは昔は考えられなかった。
「悠子ちゃん……それはどういう意味で?」
「え、勿論いい意味ですよ」
そう答えると兄は、白い頬を少し赤らめてへにゃりと笑った。その思わず崩れてしまったような人間味に溢れた笑みに目を奪われた。
「うん、俺ね、悠子ちゃんにそう思って欲しくて頑張ったんだ」
「わ、わたしにですか!?」
自分を指差して問いかけると兄はこくんと嬉しそうに笑みを浮かべている。
「前の俺って空っぽで魅力のない人間だったから、どうすればいいかなって考えた時、悠子ちゃんみたいになりたいって思ったんだ。家事をしてるとさ、悠子ちゃんと近づける気がした。同じことを共有して段々価値観が似てきて、家族として好ましい兄になりたかった」
そんな理由で頑張っていたとは露知らず……兄なりにコンプレックスを抱えていたんだ。
「まだ未熟なところも多いと思うんだけど――ダメなところがあったら正直に言ってね」
「はい! でもあんまり喧嘩はしたくないので肝に銘じて下さいよ?」
兄は兄なりに変わろうと努力してくれているのだ。
家族になってまだ三年。全く違う環境で育ってきた上に腐女子の私とリア充の兄は正反対だ。思考回路からして違うレベルだろう。
男女の友情に対しての認識や過保護過ぎる兄に思う所はあるけれども、こればっかりは時間を掛けてわかってもらうしかない。
兄と出会うまで、私は人との摩擦はなるべく避けてきた。
でも兄に関しては諦めたいとは思わなかった。
これから長く一生を共にする人だと思っているからこそ、理解して貰いたいし、理解したいと思う。きっと私がどんな気持ちで向き合っているのかなんて、この人は知らないんだろうけど――熱くなってきたお鍋のフタを開けて兄に笑いかけた。
「さぁ、三人が帰ってくる前に準備を再開しましょう、和泉さん」