20 兄の苦痛
悠子ちゃんと話そう話そうと思いつつ、翌日を迎えてしまった。
俺の決意、弱すぎる……。
昨日いざ夕食の席で、断腸の思いで「仲島との交際を認めるよ」と言おうと口を開けても声になって出てこなかったのだ。
何で俺の悠子ちゃんを他の男に渡さないといけないんだ? と俺の中の悪魔が囁き、悠子ちゃんの幸せを思うなら潔く認めましょうよ! と天使が悪魔を改心させようとしている。それを繰り返している内に食事は終わってしまい、言うタイミングを逸してしまった。
さっき洗面所から部屋に戻る際に悠子ちゃんと階段ですれ違った時も、悠子ちゃんの顔を見るのが怖くて目を逸らしてしまったし、意気地なしの自分に自己嫌悪してしまう。
頭を悩ませながらスマホで悠子ちゃんの写真を眺めていると部屋の扉が叩かれた。扉をノックした相手は自分が誰だか言わない。俺は一縷の望みを託して扉を開けたが、残念なことに相手は親父だった。
「何……」
「お前、悠子ちゃんと喧嘩してるせいで機嫌が悪いのはわかるけどオレに当たるなよ」
「で、何」
悠子ちゃんのバイトのお迎えをしてくれているのはありがたいが、茶化されたくない。自分は悠子ちゃんと普通に話せるからって……妬ましい。俺は用件を話そうとしない親父を急かした。
「これ、お前にやろうと思ってな。気晴らしに行って来いよ」
親父がポケットから出したのは、映画のチケットだった。作品名はフライングバッター、悠子ちゃんを誘おうと考えていた映画だった。
「悠子ちゃんに渡したら。俺はいらない。話がそれだけなら戻るけど」
部屋の扉を閉めようとすると、親父は悪徳訪問業者の如くドアの隙間に足を挟んできた。そして、手を伸ばして無理矢理俺のポケットにチケットをねじ込む。
強引過ぎるだろっ、何が親父にそこまでさせるんだ。
「お前はこれを見に行かないと一生後悔する。絶対に見に行け」
どう考えたって俺じゃなくて悠子ちゃん用だ。親父が俺に映画のチケットを渡してくるなんて怪しすぎる。
扉を閉めようとする俺と、こじ開けようとする親父の争いがなかなか収束しない。俺は戦っている内にチケット一枚でいい歳の親父と争い続けるのが馬鹿らしくなり、渋々頷いた。
「わかったよ、見に行けばいいんだろ」
親父は俺の返事に満足したようで、「それでいいんだ」と扉の隙間からから足を引き抜いて、部屋に戻っていった。何様のつもりだ。
ポケットからぐしゃぐしゃになったチケットを取り出し、部屋の椅子に足を組んで座った。広げてみると、日付指定になっている。しかも、明日なんて随分急だ。
悠子ちゃんの好きな漫画の映画だし、気になるから行くけど。何故、親父があんなに必死になってチケットを押しつけてきたのかが不思議でならなかった。
翌日、自分に集まる周囲の視線を無視しながら、街中を歩いていた。映画は嫌いじゃないが、一人で歩いていると声を掛けてくる人間が多くて不愉快だ。
映画館に入るとぎりぎりの時間だった。店員にチケットの半券を切られる際、何かオマケのような物を渡されて断ろうかとも考えたが、一応貰っておく。中に入るとライトが消えてとっくに暗くなっていた。
チケットの座席番号を確認しながら列の間に入っていく。すると、座ろうとしている席の隣に一人の少女の姿が見える。俺は思わずごしごしと腕で目を擦った。
これは、ゆめまぼろし?
一歩ずつ近づいて、それが本物なのか目を凝らして確かめる。視線の先にいる眼鏡を掛けた少女が俺を見上げた瞬間、確信した。
「ゆ、悠子ちゃん……」
親父が俺にチケットを渡したのは、この為だったのか。
悠子ちゃんも大きく目を見開いているから知らなかったに違いない。
茫然としていると、後ろ座っている人物から前が見えないと注意を受けて、悠子ちゃんの隣の席に座った。映画が始まると、悠子ちゃんはスクリーンに釘付けになったが、俺は悠子ちゃんから目が離せなかった。
いつもと髪型が違うから一瞬、わからなかった。いつも一本に結んでいる髪を下ろしてハーフアップにし、真珠のバレッタで留めている。服だって普段は着ないようなワンピースで、俺の見たことのない私服だった。
何で、今日はそんなに可愛い格好をしているの――?
悠子ちゃんはお洒落が苦手で、お出かけする時はいつも俺がコーディネートしている。なのに俺の手も借りずにドレスアップして――もう、頼ってくれないのか。心が萎んで段々と悲しみに変わっていった。
俺の悲しみを余所に悠子ちゃんは熱心な目で映画に集中している。仲直りしたいけど、後にするべきだろう。フラバタに目を輝かせる悠子ちゃんを眺めながら映画が終わるのを待った。
エンドロールが終了し、周囲が明るくなっていく。今言うべきだと話しかけようとした時、悠子ちゃんは椅子から腰立ち上がって歩き始めた。俺はその背中を追って階段を上がっていく。悠子ちゃんは右足を下ろす度に痛ましげに歪めている。
履いているのは黒いエナメルの少しヒールが高い靴。いつもスニーカーやぺたんこの靴の悠子ちゃんには履き慣れない靴だった。
「ねぇ、悠子ちゃん、足が痛いんじゃない?」
階段を上り終え上映室を出て尋ねると、悠子ちゃんの目は泳いでいて、首を振られても本当のことを言っているようには到底思えなかった。悠子ちゃんの手を引いて、近くにあったベンチに座らせた。
「少しだけ、失礼するね」
俺はその場でしゃがみ、右足の靴を脱がせた。右足の踵を自分の膝に置き、確認してみて驚いた。白い靴下に直径三センチもの赤い血が滲んでいる。
「そんなに、痛くないですからっ」
それは一週間ぶりに悠子ちゃんが俺に掛けてくれた言葉だった。
けれど、まったく今は嬉しくない。
「痛くないなんて、言わないで」
こんなに傍にいるのに頼って貰えない自分の不甲斐なさに悔しくなった。
傷で足を痛めている悠子ちゃんをそのままには出来ない。
靴を履かせて、悠子ちゃんの顔を覗きながらお願いした。
「今から絆創膏と傷薬買って来るから、どうかここで待ってて欲しい」
悠子ちゃんからの返事はない。でも否定をする動作もなく、それに期待するしかなかった。スッと俺は立ち上がり、ドラッグストアへ駆けて出していった。