19 妹の前進
父とバイトから帰ってきて、家族五人が揃った夕飯の時間に兄に話し掛けようとしたものの、冷静になって思い直した。これは両親の前で話すべき話ではない。
兄の説得は絶対に一言二言では終わらない。下手するとちゃぶ台返しのように机がひっくり返るレベルの話し合いになるかもしれないのだ。
両親はそんな私達の言い争いを見たくないと思う。私だって両親が自分の前で喧嘩してたら泣きたくなるし「もう止めてっ」と止めに入りたくなる。話し合いは、明日に持ち越そう。兄の作ってくれた食事を食べながら泣く泣く断念した。
翌朝を迎え、私は兄の扉の前で深呼吸していた。息を吐き勇気を出して扉をノックしようとした瞬間、階段の下から私を呼ぶ母の声がした。
「悠子、ちょっと手伝ってくれるー」
母が私を呼ぶなんて珍しい。今すぐ行ってあげた方がいいだろう。出鼻をくじかれたなぁと肩を落としつつ、階段を降りていくと兄が下の方から上ってくるところだった。部屋に、いなかったのか。一段一段兄が近づいてくる。降りていく私に兄が気が付いて、目が合う。
あとで話したいことが部屋まで行きます、って兄に伝えないと。
口を開こうとした瞬間、フイッと目が逸らされた。
……まだ、兄は怒ってるんだ。兄が話しかけてこないのも、目を逸らされたのも自分から構うなと言った結果だ。自業自得だとわかっていてもつらい。
兄が自分の部屋に入っていく扉の音が聞こえる。私は階段の壁に寄っ掛かって天井を見上げた。泣いちゃ駄目だ、母さんが心配する。自分の両頬をパンと叩いて階段を降りていった。
台所にはいなかったのでお風呂場を覗くと、母はスポンジを握ってお風呂を掃除していた。
「母さん、私がやるからゆっくりしてなよ」
麻紀ちゃんに相談する前の私だったら、兄の味方をした母に対して悶々とした感情を抱えていて、こんな風に言えなかったかもしれない。
「いいわよ、それよりお風呂用の洗剤買ってきてくれる。無くなりそうなのよ」
「ううん、私にやらせて。今日は朝食も作り忘れちゃったし、何かさせてもらわないと落ち着かないよ。洗剤は台所用でも代用できるから大丈夫」
腕まくりをしてお風呂場に入っていく。母の前に手を出すと、苦笑してスポンジを渡してくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えようかしらね。いつもありがとうね、悠子」
お風呂場を出た母は、ベビーベッドのあるリビングに向かっていた。母の言葉が無性に嬉しくて、掃除をする手にも力が入った。
母さんは、私を見ていないわけじゃなかった……!
ごしごしとお風呂を洗いながら、お風呂を綺麗にすることだけに集中した。
お風呂掃除が終わると気分がすっきりしていた。排水溝まで掃除してお風呂場は隅々までピカピカだ。自分のやったことがすぐに成果に表れるのは気持ちがいい。お風呂場を出て部屋に戻ろうとすると、リビングからウ~という豊の可愛い声が聞こえてきた。
「母さん、終わったよ。今日は一番風呂がオススメ!」
母はテーブルで豊にご飯をあげているところだった。私の言葉を聞いて、母は「楽しみだわ」と笑った。
「頑張りやの悠子にはコレをあげる」
ハイと母は一枚のチケットを手渡してくれた。何かと思いよく見てみたら私の大好きな漫画、フラバタの映画チケットだった。気になっていたけど、イベント続きで金欠になり行けていなかった。
「いいの?」
「いいのも何も悠子が見たい映画を私が見てどうするの。和泉君とは早く仲直りして欲しいけど、その前に気分転換していらっしゃい」
母に痛いところを突かれて、申し訳ない気持ちになる。
「わ、私だってどうにかしたいとは思ってるんだよ」
「大丈夫、悠子も和泉君も優しい子だから大丈夫」
母はポンと私の頭に手を置いて、心強い言葉を掛けてくれた。兄と早く元の関係に戻りたい。母の大丈夫が胸に沁み渡り、本当にどうにかなる気がした。
次の日、私は夕方の時間になって出掛ける準備をしていた。母から貰ったチケットは持ったし、時間も余裕がある。家を出る前にリビングでテレビを見ている母に声を掛けた。
「行ってくるね、夕飯は帰ってきたら作るね」
「ありがとうって悠子その格好で行くの?」
怪訝な顔で母は尋ねてきた。
「うん、そうだけど」
チェックのシャツに七部袖のカーディガンとデニムのズボン。至って普通の格好だ。
「ちょっとそこで待ってなさい」
階段を上っていった母を大人しく待っていると、服の塊を持ってきた母に他の服を着ることを命じられた。
「わざわざいいよ、友達と出掛けるわけでもないし……」
「いいから着てみる」
母の勢いに気圧され、渋々胸の下をリボンで絞った青のワンピースに袖を通して、さっき着ていたカーディガンを羽織った。更に母は、服だけじゃなく髪までいじって頭の後ろでバチンとバレッタを止めた。私は今、猛烈に恥ずかしい。
「悠子は元は悪くないんだから勿体ないのよ。ほら、行ってきなさい。映画が始まるわよ」
「は、は~い」
母に背中を押された私は、重い足取りで家を出た。この格好を知り合いに見られたくない。服が可愛くないからじゃない、むしろ自分には可愛すぎるのだ。地味オタクが服に気合いを入れて一人で街歩きをするのは、端から見たら痛いんじゃないかな……。
でも映画だけは見たい、上映時間に遅れないよう早足で歩き始めた。
母から貰ったチケットは指定席だった。映画館に着いた私は上映室に入る時に来場者特典を貰い、チケットを見ながら席を探した。席を見つけてすぐに座って靴を脱ぐ。
母が出してくれた靴は可愛いんだけど踵の部分が硬くて痛かった。右足の踵を見てみると白い靴下に赤い血が滲んでいた。映画が終わったら絆創膏を買いに行こう。
ブブーと映画が始まるブザー音が聞こえ、ライトが落とされ少しずつ暗くなっていく。用意してくれたチケットは中央にあるいい席だった。両隣は空いてるし気が楽だな、と思っていたら右側から人が歩いてきた。
もう始まるんだから早く座ってくれないと困る。ちらっと横目にどんな人が来たのか確認してみて、息が止まった。
すらりとした長身の体躯に、切れ長の甘い雰囲気の目元、精巧に作られた芸術品のような美貌を持つリア充――兄が立っていた。
「ゆ、悠子ちゃん……」
兄の手には私と同じようなチケットが握られている。普段は私の服装をあまり気にしない母が、わざわざ着替えさせたのはこういうことか。
兄相手に着飾られる私って……もしかして麻紀ちゃんだけでなく、母までもが気づいているのかな。自分でも顔が赤くなっていくのがわかった。これは、このチャンスを生かして仲直りしろという母の応援なのだろう。兄はストンと私の右隣に座った。
しかし、今にもフラバタの映画は始まろうとしていて兄のことを気にしている場合ではなかった。ひとまずは兄の方を見ないように意識して、私は目の前の映画に集中した。
今回のフラバタの映画は原作者考案のオリジナルストーリーで、本編とは関係のない内容だが楽しめる映画になっている。前回の映画は漫画の内容を簡略し過ぎた不完全燃焼映画だったので、この路線変更は嬉しい。
後半になっていくと、いつもは仲のいい部員同志で口論が増えていき、ついに野球部は分裂してしまった。飛人のもう一度みんなの気持ちをひとつにしようと奮闘する姿を見て、胸が締め付けられ涙が零れそうになる。
泥臭くても、みっともなくても、なりふり構わず突っ走っていく飛人にどうしようもなく惹かれた。
エンドロールが終わり、次々と客席から立ち上がった人々が上映室から出ていく。
映画を見ている間は気にしてなかったけど、踵がジンジン痛む。席を立ち、出口に向かって一段ずつ階段を上って行くと、足の踵が靴と擦れガリガリと靴下の上から足の皮を剥いていく。いっそ靴を脱いで歩きたいくらいだった。
「ねぇ、悠子ちゃん、足が痛いんじゃない?」
上映室から出た時、後ろをついてきた兄に尋ねられてぎくりとした。兄は心配性だからどんな反応をするか、わかったものじゃない。疑いの眼差しを受けながら首を降り続けていると、兄は急に私の手を掴んでどこかに引いていく。
その手は振り解こうにも強く、私の抵抗は無と化した。兄は映画館の売店の傍にあるベンチに私を座らせて、片膝を付いてしゃがんだ。
「少しだけ、失礼するね」
突然、右足の靴を脱がされてぎょっとする。兄は自分の太股の上に私の右足を置き、足首を少しだけ持ち上げて踵の裏を覗き込んでいる。咄嗟にスカートの裾が広がらないように必死に手で押さえた。踵の怪我を見てつらそうに顔を顰めていて、真剣に私の身を案じくれているのが見てとれた。
「そんなに、痛くないですからっ」
早く足から手を離して欲しい。このくらいの靴擦れなら、ちょっと手当すれば家まで歩いて行けるだろう。
「痛くないなんて、言わないで」
そう言った兄は私より余程痛々しい表情をしていた。兄を傷つけるつもりで言ったんじゃなかった。安心して欲しくて言ったのに、曲解されてしまったようでもどかしい。
「今から絆創膏と傷薬買って来るから、どうかここで待ってて欲しい」
兄は下から私の顔を覗いていた。その真摯な眼差しから目を逸らせなかった。
どうしてここまで優しくしてくれるのだろう。絶交してずっと冷たく当たられている相手に。自分だったら優しく出来るだろうか。臆病すぎて手を差し伸べることも出来ない気がした。
私の返事も聞かずに兄は映画館の外へ出て行く。
昨日階段で無視された時は怒っているのかもしれないと感じたが、今日の兄の態度を見る限りそのようには思えなかった。喧嘩から時間が経って兄も冷静になってくれたのかもしれない。
今の兄なら私の話を聞いてくれそうだ。今日こそ仲島との誤解を解いて仲直りしてみせる。絆創膏を買いに行った兄の背を見送りながら意気込んだ。