12 兄の観察
先月下旬から、悠子ちゃんの夏休みが始まった。学校の時間がなくなり、悠子ちゃんと一緒にいる時間が増えて嬉しい。
朝、階段を下りてリビングを覗くと、悠子ちゃんが椅子に座って豊を抱いていた。慈愛に満ちた表情で微笑みを浮かべながら絵本を読んでいる。
本当に面倒見がいいんだよな……。
弟の豊に限らず、友人の越田に対しても悠子ちゃんは寛容で情が深い。人見知りな性格だけど一度その懐に入れた人間にはどこまでも優しい。
深みに嵌って抜け出せなくなる、その気持ちはとてもよくわかる。俺が知らない内にその沼に転がり落ちる人間が多発しそうで怖い今日この頃だ。
「あ、和泉さんおはようございます。和泉さんには頼みたいことがあるんです。机のチラシ見てみて下さい」
悠子ちゃんの目の前にあるチラシを手にとって内容を確認してみる。気になる商品には全て赤い丸がついていて、何が欲しいのか一目瞭然だった。
「和泉さん、このお一人様一個の商品が欲しいんで週末つき合って貰えますか」
「いいよ、車で行こうか」
「お米も買おうと思ってたんで助かります!」
喜んでくれる悠子ちゃんに癒しを覚えながらチラシを見やり、そういえばとカレンダーを確認した。
今月のカレンダーにもこのチラシと同じように赤い丸がついている日がある。他の月でも見覚えがあったのでカレンダーをぺらぺらめくってみると春休みにゴールデンウィーク、六月にケーキ屋に誘いたかった日も印がついていた。この日は全て悠子ちゃんが朝から出掛けて行った日だ。
この丸について三年前に尋ねた時――花火大会に行ったと話した記憶があるけど、この日も朝から出たのなら違和感だらけだ。花火大会に朝からは行かないだろう。
まさか、この丸の日に男とデートしてるとか?
嫌な想像を追い出すように黙って頭を振った。
ちらと悠子ちゃんを見れば携帯をいじっている。前はあまり家の中では持ち歩いていなかったのに、最近は常時ポケットに入れているのを俺は知っている。
「悠子ちゃん、今日もバイトが終わる時間は一緒だよね」
「はい、雨だから行きたくないんですけどね。和泉さんも面倒だと思うんで、今日は家でゆっくりしてて下さい」
俺が声を掛けると悠子ちゃんは窓の外を見て、溜息を吐いた。庭の向日葵は悠子ちゃんの気持ちを表すようにがくんと首を下に向けて雨に濡れていた。
「いや、行くよ。危険はどこに潜んでるかわからないからね」
「危険なんてないと思うんですけどね」
「あるよ、見えないところから突然やってくるものなんだから」
悠子ちゃんはそんな俺に苦笑して「わかりましたよ」と肩を竦めていた。
悠子ちゃんのバイトが終わる時間近づき、俺は雨の中家を出た。朝に外を見た時に比べると雨は弱くなっていた。悠子ちゃんの働く総菜屋は家から十五分程歩いた場所にあり、その道のりは街灯が少ない道があったり、通りにある掲示板には痴漢に注意!と書かれたポスターが貼られている。
こんな道を悠子ちゃん一人で歩かせられない。この道を避けて歩けば安全だが、家までかなり遠回りになってしまうのだ。
総菜屋の裏口に着くとちょうど悠子ちゃんが傘を開いて出てくる所だった。俺はそのまま悠子ちゃんの傍に寄って行った。
「雨の中、お待たせしちゃってすみません」
「さっき来たばかりだから。雨、なかなか止みそうにないね」
悠子ちゃんは雲に覆われた空を見上げてから、深く頷いた。
「暇過ぎて何度あくびを耐えたか。今日はめずらしく店頭に立ってたんです。慣れない仕事でしたけど何とかなるもんですね」
それは見てみたかった。あの総菜屋は鶯色の作務衣のような制服を着て接客するのだ。
「悠子ちゃんが接客してくれるなら買いに行ったのにな」
「買うより作った方が安上がりですよ。和泉さんは自分で料理が出来るんですから。今日店に来た友達なんかは全く料理をしてないみたいで、食生活改善の為に簡単な料理のメモを渡してあげましたよ」
出てきた、悠子ちゃんの新しいお友達。悠子ちゃんはこの友達の話をする時は越田の時とは違った感じで話す。気安いというか、親しみのこもった話し方だ。
「友達ってこの前、車で言ってたコ?」
「……はい、偶然うちの店に来たんですよ」
「趣味が合うって話してたよね」
料理とか漫画のことかな、と思い話を振ってみる。
「よ、読んでる小説の系統が似てるんです」
「それはどんな小説なの、有名なベストセラーとかだったら俺も聞けばわかるかも」
「恋愛物で一概にどんなものとは言えなくて……発行部数が少ないですし和泉さんは知らないかと……」
随分アバウトな説明だが、恋愛物全般を読んでいるというこどだろう。発行部数が少ないってことは、入手は困難かもしれない。
悠子ちゃんが恋愛物を好んで読んでいるのは意外だった。フラバタのような野球漫画やもしくは少年漫画を好んでいるイメージがあるのだ。
「男の俺が読んでも面白いかな?」
「か、完全に女性向けの内容なので、男の人はあまり読まないと思いますよ」
「そっかちょっと読んでみたかったんだけどな。その友達、近々俺にも紹介してね。どんなコか気になるからさ」
「……はい、その内」
悠子ちゃんはあまり気が乗らないようで返事が小さく、曖昧な答えだった。俺が女を苦手をしているから、気を使ってくれているのかな。だったら嬉しいんだけど。雨の中を歩きながら、悠子ちゃんのお友達の想像を巡らせた。