4 兄の察知
夜になると、悠子ちゃんが階段から降りてきた。
「俺が夕飯を作っておいたよ」
と味噌汁をよそいながら伝えれば、満面の笑みでお礼を告げてくれた。
――良かった、今度は間違っていなかったみたいだ。
ここで「余計なことしないで下さい」って悠子ちゃんにすげなくされたら俺は泣く。
温かい食事を二人で机に並べて準備する。今、妃さんは豊を連れて実家に帰っていて、親父は仕事で海外にいるから、必然的に悠子ちゃんと二人きり。視界に入るのも喋るのもお互いだけなんて一生この時間が続けばいいのに……。
しかし、この幸せな時間も明日になれば三人とも帰宅する為、終了だ。
悠子ちゃんは生まれたばかりの弟に夢中でこの四か月間、俺は寂しい思いをしている。眦を下げて弟を可愛がる悠子ちゃんはとても可愛いんだけど……もう少しその愛情を俺にも分けて欲しいのが本音だった。
「あの今日、私が当番の日でしたよね?」
「うん、でも日中やることなくて暇だったから」
どうせスマホいじったり、テレビ見て時間を潰すだけなら悠子ちゃんの為に何かしていたかった。
悠子ちゃんの前の席に座り、互いに手を合わせて食事の挨拶をする。テーブルの上の朝食を見渡して、悠子ちゃんが真っ先に手を伸ばしたのは卵焼きだった。悠子ちゃんが作る時は俺の好みに合わせてしょっぱいのだけど、俺が作る時は悠子ちゃん好みの甘いのを作っている。卵焼きを口に含むと悠子ちゃんはもぐもぐと目を細めて噛みしめている。
「本当に美味しそうに食べてくれるね」
「顔にだって出ちゃいますよ。いつもありがとうございますね」
その綻んだ表情に胸が温かくなる。黄金色のふっくらとした卵焼きになるまで、何度練習したことか。それも全てこの一瞬で報われる。
「他にも手伝って欲しいこととかあったら何でも言ってね」
それが例えば今は出来ないことだったとしても、必ず収得してみせる。悠子ちゃんが喜んでくれたら、それが俺の喜びになる。自分の作った料理を咀嚼しながら、悠子ちゃんの食事風景を見守った。
俺は高校を卒業して、家から程近い国立大学に入学した。学部は法学部を選んだ。以前悠子ちゃんが従姉に怪我をさせられた時に法律に詳しいと有利になることも多いと学んだし、そう思うと勉強する意欲が湧いた。
女嫌いの俺にとって共学というのはネックだったが、近くの国立大は共学しかなかったから仕方がない。わざわざ悠子ちゃんとの時間を減らしてまで遠方の大学に通う気にはなれなかったのだ。
「よ、ひさしぶりだな」
講義が終わり、食堂に向かう途中で貴士に声を掛けられた。貴士は偶然同じ大学に入ったが、学部の違いにより偶にしか会わない。紙パックを飲みながら、貴士は俺の周囲を見渡した。
「やっと周りが落ち着いてきたみたいだな」
「あぁ、ようやく」
入学した当初は毎日サークルの勧誘や、女の告白や合コンの誘いだの騒がしかった。
ぶんぶんと集ってくるハエのような連中には心底嫌な思いをさせられたのだ。なるべく何を言われても大学では問題を起こしたくないから、笑顔でスル―するようにしているのだが疲れる……。
大体のヤツは半年もすると俺の一辺倒の対応に引き下がっていったが、諦めが悪い例外もいて早く飽きてくれないものかと願っている。
今日のお弁当も美味しそうだな。大学にいる間、一番楽しみなのが昼食の時間だった。いそいそとお弁当のフタを開けると、中には色鮮やかなおかずの数々が詰められていた。ひじきと人参のきんぴらとブロッコリーの胡麻和えに唐揚げと卵焼き、ご飯にはシャケが混ぜられている。見栄えもばっちり、栄養満点。本当に俺はいいコを妹に貰った。
「これが噂の彼女からの弁当か」
学食のランチを手にした貴士が俺の目の前に座った。
彼女? そんなの作った記憶はない。また誰かが自称してるのかと片眉を持ち上げて訝しんだ。
「和泉が妹ちゃんの弁当開けていつもにやにやしてるから、あれは恋人からの手作り弁当に違いないって噂になってんだよ」
「へぇ」
都合のいい噂だ。それで女が寄って来なくなるなら助かる。
「霧谷とか、俺の所までお前の彼女がどんなコかまで聞きに来たからな」
「――悠子ちゃんのこと、何も話してないよな」
「当然、アイツ相当性質が悪いぞ」
「わかってる」
だからこそ悠子ちゃんには近づけたくない。
諦めの悪い例外――霧谷は、明るいキャメルブラウンの髪に耳に幾つもピアスをつけていつも違う女を引き連れている。俺がいくら邪険にしても懲りずに声を掛けてきて、あれはもうストーカーと言ってもいいんじゃないだろうか。
「ま、妹ちゃんはお前がいれば大丈夫だろ。マジで美味そうな弁当だな、俺のハンバーグ分けっからその唐揚げ」
「一欠けらもやらない」
素早く貴士が伸ばした箸から守るように、弁当を自分の方に寄せた。
「あぁ、うん、言ってみただけだ。それはそうと和泉、夏休みに親戚のペンションで泊まりこみのバイト出来るヤツ探してるんだけど一緒に行かないか? ほら、バイトの金で妹ちゃんにプレゼントとか! いい案だろ」
悠子ちゃんをダシにすれば俺が頷くと思っているのがバレバレだった。そんな餌には簡単には釣られない。
「断る。大体俺がペンションに行っても、女の争いに巻き込まて迷惑を掛ける可能性の方が高いぞ」
「確かにそうだな……」
大学に入ってからも何度かそういうことがあったから、貴士は納得しながらも協力者が得られず肩を落としていた。
「それに夏休みは悠子ちゃんと出掛ける計画がびっしり詰まっている」
「びっしりって、それ妹ちゃんの許可貰ってんの」
「ん、それはこれから貰おうかなって」
貴士の質問に答えながら、俺はスマホで食べ終わった弁当の箱写真を撮った。ごちそうさま、今日も美味しかったよ。とメールを書いて写真と一緒に送信する。
「今、空になった弁当箱の写真を妹ちゃんに送ったんだろ……同じこと、愛妻家の芸人がやってる番組見たことあるぞ」
「愛妻家がいれば、愛妹家もいるだろう」
悠子ちゃんは、マメにメールをする方じゃないから返信はない。自己満足だと言われてしまえばそれまでだけど、俺がお気に入りのおかずをメールで伝えると悠子ちゃんは必ず二、三日後には入れてくれるからそれがメールに対する返事だと思っている。
「勝手に造語を作るな」
「じゃあ、なんて言うんだよ」
シスコンじゃ、ないかな……と貴士は遠い目をしながら呟いていた。
大学から家に帰ると、妃さんと豊が帰宅していた。リビングで豊をだっこする妃さんは明るい顔をしている。どうやら実家でリフレッシュしてこれたようだ。出掛ける前の妃さんは育児疲れでフラフラしていた。
悠子ちゃんも俺も手伝うとは言ったんだけどな……、学業を優先してねとやんわり断られた。こういう所が悠子ちゃんと似ている気がする。家族円満の為にも、ここはひとつ親父に頑張って貰いたい。
「和泉君、おかえりなさい。一週間も留守にしちゃってごめんなさいね」
「いいえ、大丈夫ですよ。実家でゆっくり出来たようで良かったです」
「ええ、あっちはもう年金暮らしで、のんびりしてるからね。豊は天使だって毎日喜んで面倒見てくれたわよ、もっと早く行けば良かった」
妃さんは豊と「ねー」と顔を合わせると豊がにぱっと笑った。豊の目鼻立ちや眉は悠子ちゃんに通じるものがあって、妃さんの両親が天使に例えた気持ちに激しく同意してしまう。
妃さんと話した後、俺は買ったばかりのソファで『フライングバッター』の最新刊を読むことにした。
――この漫画で、女が出張るなんてめずらしい。
新章では、野球でスランプに陥り落ち込む飛人を新マネージャーである向井アヤカが励ましていた。自主練中とかランニングコースとか随分タイミング良く現れるものだ。そのせいか悠子ちゃんの好きな穂積の出番が減っているような気がするし。悠子ちゃんはどう思っているのか、帰って来たら聞いてみようかな。
しばらくして、学校から帰って来た悠子ちゃんはまっすぐ豊の元へ向かった。妃さんが豊を悠子ちゃんに渡して、肩をぐるぐる回している。悠子ちゃんは豊をだっこしながらご満悦の様子だ。
「悠子ちゃん、お弁当出してくれれば俺が洗うよ」
「助かります! あ、すみません、鞄を玄関に置いてきちゃったんでそこから出して貰ってもいいですか」
申し訳なさそうな顔で悠子ちゃんが頭を下げた。そのくらいお安い御用だ。俺は玄関で悠子ちゃんの鞄を回収し、リビングの机の上でお弁当箱を出した。
その時、はらりと机に手紙が零れ落ちた。
白い封筒には丁寧な文字で悠子ちゃんの名前が書かれており、バッと後ろにひっくり返すと仲島新の文字。――男からの手紙だった。
「悠子ちゃん、これは何かな?」
人差し指と中指で手紙を挟んで、悠子ちゃんに問うとその手紙を見て、悠子ちゃんの紅潮した頬が一気に青褪めていく。にじり寄ると「な、何でしょうね」と白を切ろうとした。
うん、それじゃまったく納得出来ないからね。
俺は腹の底から怒りが込み上げるのを自覚しながら、悠子ちゃんににじり寄っていった。




