3 妹の発見
窓から差し込む日が陰り、時計を見上げると夕飯の時間が近づいていた。今日は私が夕飯を作る当番なのだ。後ろ髪引かれながらも、本をベッドの下に隠して部屋を出た。
階段を降りていくと、台所の方から漂ってきた食事のいい匂いが私の鼻を掠める。
ん? もしかして……。
ひょこっとリビングに顔を出すと机の上には既に二人分の料理が並べられていた。
今、母は弟と一緒に祖父母の家に帰っていて、父は仕事で外国に行っている。二人とも帰ってくるのは明日の予定だから、今日の夕飯は二人分で済むのだ。
「俺が夕飯を作っておいたよ」
台所で兄がお玉とお椀を手に、お味噌汁をによそっている。きらきらしい兄と味噌汁、何だかミスマッチな組み合わせだ。
「あの今日、私が当番の日でしたよね?」
「うん、でも日中やることなくて暇だったから」
暇だから料理するって……日本は娯楽に溢れているというのに家事で時間を潰すとは。私はやりたいことがあり過ぎて時間が足りないからその時間を分けて欲しいくらいだ。暇があったら、パソコンつけてフラバタサーチで検索掛けてるわ。
食事の準備を終え、私は兄と向かい合わせで席に座った。「いただきます」とお互いに手を合わせてから、食事を口に運ぶ。卵焼きを食べながら頬っぺたが落ちそうな美味しさに感動する。このふわふわの触感、程よい甘味、見た目も上手に焼けていて食が進む。
「本当に美味しそうに食べてくれるね」
兄は箸を持ちながら、にこにこと私を眺めている。兄が家事にこんなに協力的な人になってくれるとは三年前は思いもしなかった。同居を始めた当初から手伝いは申し出てくれてはいたが、今はもうその段階を越えている上達ぶり。
小学生の頃から料理洗濯掃除にと家事に追われていた私にとって、家事に協力的な兄の存在はは救世主でとても助かっている。
「顔にだって出ちゃいますよ。いつもありがとうございますね」
「他にも手伝って欲しいこととかあったら何でも言ってね」
兄はもう充分やってくれている。弟の面倒もよく見てくれて、この前の休みは布団も干してくれてたり、無くなりかけのシャンプーを買ってきておいてくれたり痒い所に手が届く。そのやる気はどこから湧いてくるのか。主夫の入社試験があったら即決で合格を出す積極性だ。
「思いついたら頼みますよ」
あまり甘えてしまうと、兄は際限なく甘やかしそうだ。私はぱくりと兄の作ってくれた料理を口に含んで、舌鼓を打った。
イベントの翌日の月曜日は、現実との闘い=学校の日だ。
五時間目の授業の終了のベルが鳴り、立ち上がった。次は化学室へ移動だ。
私は教科書とノートを持って教室を出た。
二年生になった今でも、私にはクラスに仲のいい友人がおらず基本一人行動だ。中学と違うのは、クラスのみならず学校全体で友達らしき人がいないこと……コミュ症にも程がある。
麻紀ちゃんは私とは違う高校に進学したし、この高校には漫研が存在しない。だから漫画以外の話は無口になってしまう私は、友達作りに難航した。最初は焦りも感じて、大人しそうな子と話してみたりしたけど、すぐにしゃべることがなくなってしまって結局一人でいることを選んだ。
それに高校は小学校や中学校に比べると密接的な空気が薄く、一人でいてもそんなに苦痛じゃないことに気付いたのだ。
廊下の角を曲がった瞬間、スッと向かい側から人影が現れる。避けなければ、そう思った時にはもう既に遅かった。
「うわっ」
ドンッと人とぶつかった衝撃で教科書とノートが手から滑り落ちる。すぐに拾おうとすると、その上に相手のノートや筆箱の中身がぶちまけられた。
「あ、わりぃ、手滑ったわ」
その低い声に思わず、びくっと体が強張った。小学生の時、同級生の男子にイジメられた経験のある私はどうしても異性相手だと身構えてしまう。相手の口調が元同級生を彷彿とさせて、きゅっと口を噤んだ。
ぶつかった男子は足元で落としたペンをかき集めている。私も素早くしゃがんで自分の物を回収しようとした瞬間、手の上に男の手が重なった。バッと手を引いて男子から距離を取る。
「い、今のはわざとじゃないぞっ」
真面目そうな真っ黒な髪で眼鏡を掛け男子は無実を証明するように慌てて両手を振っている。どこか見覚えがあるような気がするが思い出せない。去年クラスメイトだったとか?
「い、いえ、私が過剰反応し過ぎただけなんで気にしないで下さい」
私は拾った自分の教科書とノートを胸に抱いて、化学室へと走って行った。
化学室で授業が始まり、教師がカツカツと黒板にチョークを走らせ始めた。教科書を隣に置き、自分のノートを広げて驚いた。
これ、私のノートじゃない。
ノートは男子特有の角張った字で埋め尽くされている。シャーペンじゃなくて鉛筆で書いてるのかと思うくらい筆圧が濃い。触ったら手が黒くなりそうだ。
さっき、ぶつかった時に入れ替わったんだ……。デザインが同じノートだから気付かなかった。誰のノートなのか確認しようとした時、私は余白の隅のイラストに釘づけになった。
――これは、飛人と穂積君!! お世辞にも上手とは言えない絵だが二人の特徴をよく掴んでいて、私にはすぐわかった。野球部のユニフォームを着た黒髪眼鏡の穂積君を短髪の飛人が不自然な角度に曲がっている肘でうしろから抱きしめている。
この構図だと飛人×穂積……ここは逆だろ! マイナーにも程がある。
更にイラストの左右には吹き出しで、台詞まで書かれていて、
『こんな所でやめろよ』
『大丈夫だ、月しか見てない』
って私が見てるから!?
これは、見たらあかんヤツや……。
私はパタンと静かにノートを閉じた。私も自分のノートにポエムめいた文章を書いたりするからわかる。間違いなく、このノートの持ち主は腐に染まった仲間だ。
今はっきり思い出した。あの男子、見覚えがあると思ったら、昨日の即売会で私の隣に立って溜息をはいていた腐男子だ。ノートの表紙を見てみると《2―B 仲島新》とクラスと名前が書かれていた。
きっと落書きしてあるノートが他人の物と入れ替わっていると気付いたら恥ずかしくて死にたくなるに違いない。このノートは一刻も早く返してやらねば、胸の中には使命感が生まれていた。私は先生の長い化学式の説明を右の耳から左の耳へ聞き流し、そわそわしながら授業が終わるのを待った。
授業が終わり、まっすぐ二年B組に向かう。隣のクラスの人に声を掛けるのは緊張するが、後回しには出来なかった。
扉から一番近い席には男子しか座っていない。しかも私が特に苦手としているチャラいタイプ……仕方なく声を掛けると、彼は「仲島ー、女が呼んでるぜ」と大きな声で仲島を呼んだ。教室の中にいる数人がきょろっとこちらを見る。目立つから、出来ればもっと静かに呼んで欲しかった。
「仲島だけど。ん? あんた、どこかで顔見たことがあるな」
教室の入り口までやってきた腐男子、仲島は首を傾げて不思議そうな顔で私を見ている。
「そ、それはさっき廊下でぶつかったからですよ。これ、仲島君のノートです。ぶつかった時に入れ替わってしまったみたいで、私のノート持ってませんかっ」
仲島の前にノートを差し出すと、ジィッとノートを注視している。
もしや、私が見たと気付いたか? 大丈夫、月しか見てないことにするから!
「……どうも。今ノート取ってくるから、ちょっと待っててくれ」
咄嗟に昨日の邂逅については隠してしまった。
私は隠れ腐女子、一人でも私の秘密を知る者は少ない方がいい。
「持ってきてくれてあんがとな。ほい、あんたのノート」
「こちらこそありがとうございますっ」
仲島の手からノートを受け取ろうとすると、ひょいっと腕を上に持ち上げられた。
……届かない、いじめっこか!
「ノート返す前に聞きたいんだけど、オレのノートの中身、見てないよな」
――答えは決まっていた。
「大丈夫です。月しか、ではなく誰も見てません」
「ってお前その台詞……見たんじゃねぇかっ」
つい無意識の内にノートに書いてあった台詞が口から飛び出た。あまりに印象的なイラストと吹き出しだったから頭にこびりついて離れなかったのだ。
突然の相手の怒声に身体が震える。怖くなった私はノートも受け取らないまま踵を返して走り出した。勝手に見たのは悪かったけど、親切で返しに行ったのにあんなに怒ることないではないか。私は仲島が追いかけてくるのを恐れて女子トイレに逃げ込んだ。 個室のトイレに座って大きな溜息をはく。自分のノート、返してもらってないけどどうしよう……、トイレの天井を見上げて途方に暮れた。
あれから、幸か不幸か仲島が私のノートを返しに来ることはなかった。放課後までずっと考え続けていたが仲島の手にあるノートは諦めようかと考えている。優しそうなクラスメートに頭を下げて写させて貰うか、或いは先生にはノートを紛失してしまったと伝えて救済策を求めるか。どちらにしても究極の選択なのだが、怒っているだろう仲島の元へはもう行きたくなかった。
ホームルームを終え、教室を出た私は階段を降りて行った。下駄箱のフタを開けて靴を取り出そうとした時、自分の目を疑った。靴の上に手紙が乗っている。
パソコンやスマホでの連絡が主流になったこのご時世でわざわざ書いてきたと。もしやこれが噂の不幸の手紙? 私は恐る恐る手を伸ばして白い封筒を手にした。
封筒の宛名には「冴草悠子殿」の文字。裏には仲島の名前が書いてあった。
……カッターの刃とか、入ってないよね。私は警戒しながらその場で封を切った。
腐女子冴草悠子に告ぐ。
明日の昼休み校舎裏にて待つ。
必ず一人で来るように!
プルプル手紙を持つ手が震えた。な、何で腐女子だってバレてるんだ。あの後、私がイベント会場で会った人物だと思い出してしまったんだろうか。ノートを返した時の会話で滲み出るものがあって察してしまったとか? だとしたら怖すぎる。
何の為に呼び出すのかはわからないけど行きたくないことだけは確かだった。もしかしたらあの落書きを私が勝手に見たことによって恨みを抱かれているのかもしれない。
大体少年漫画だとこういう時は校舎裏の傍に数人の仲間が隠れていて、呼び出した相手を羽交い締めにしてボコボコにするのだ。インドア派で小柄な私の戦闘力はスカウターで覗くまでもなく低い。一対一でも仲島に勝てる要素はなかった。
自分の身を守るのが先決だ。ノートのことは惜しいけど呼び出しには応じないと判断を下した。仲島に私が腐女子だと知られても相手だって腐男子。偏見はないだろうし私が腐女子だと学校中に言いふらすなんて非人道的なマネはしないはずだと自分に言い聞かせた。
手紙を鞄にしまい、校舎を出た。仲島のことは忘れて、楽しいことに思いを馳せよう。家では愛しの弟が私を待ってくれている。私は少しだけ軽くなった足取りで家路を目指した。




