10 兄の心火
悠子ちゃんを見つけた時、俺は目を疑った。いっそ目の錯覚であればどんなに良かったか。悠子ちゃんは雨の降りしきる公園で地面に倒れていた。
血の気が引いた。
安里は勝ち誇った顔で泥塗れの悠子ちゃんを見下ろしている。誰が悠子ちゃんに危害を加えたかなんて火を見るより明らかだった。
しかも立ち上がろうとしている悠子ちゃんは腕を振り上げ、勇猛果敢に安里に反撃しようとしているではないか。俺は慌てて悠子ちゃんの背後に回り、振り上げた右手を掴んで止めた。
「俺はもう大丈夫だからやめて」
顔を覗けば、頬は赤く腫れて三本の爪痕がくっきりと浮かび上がっている。傷口からは血が滲んでいた。安里など気にしてる場合ではなかった。今何より怖いのは俺が傷つく事ではなく、これ以上悠子ちゃんが傷つけられる事だ。
「帰ろう。体も冷えてるよ。せっかく風邪治ったのに。ほっぺも血が出てる。早く手当てしないと」
「平気です。死にゃしません」
手の甲で血を拭った悠子ちゃんの瞳は闘志に燃えていた。地面に叩き付けられて、泥を浴びて、顔に傷を負ってまで、立ち向かおうとする悠子ちゃんを俺は必至で止めた。そもそも話し合いをすると言って安里を店から連れ出した筈だ、それが何故、手を出す喧嘩にまで発展している。
悠子ちゃんが安里に戦いを挑むのは、鼠が猫に咬みつくようなものだった。俺が、どうして無謀な戦いに応じたのか聞けば、
「……もう拳で語り合うしかなかったんですよ」
と彼女は言った。
正直、意外だった。人見知りで内気で守ってあげたくなるような悠子ちゃんに、こんな負けん気が隠されていたなんて。
けどそれも俺の為に振り絞って出した勇気だったんじゃないだろうか。安里に対して怯えていた俺を、悠子ちゃんは小さな体で精一杯守ろうとしてくれていた。俺は無意識の内に悠子ちゃんに甘えていたのだ。
俺の中で喜びと情けない気持ちが交差した。
何はともあれ、泥で汚れ冷え切った体の悠子ちゃんをこのままにはしておけない。憎き従姉がいる以上ここは危険区域だった。俺は泣き叫ぶ安里を無視して悠子ちゃんと公園を後にした。
家に帰ると電気が点いていなかった。どうやら両親は帰ってきていないようで安心した。顔に傷を作ったずぶ濡れの悠子ちゃんを見られたくなかった。
俺は悠子ちゃんにすぐ風呂に入るように促した。思慮深い悠子ちゃんは俺に先に入って欲しい首を横に振ったけどここは譲れない。
「これ以上俺を心配させないで。体は震えてるし、自分では気付いてないだろうけどココも紫色になってるんだよ」
悠子ちゃんの柔らかな唇に人差し指をのせる。
いつもは赤く可愛らしい唇が紫色に変化していた。
「それとも――俺がここで脱がしたら、すぐお風呂に入ってくれる?」
見開いた悠子ちゃんの瞳が俺を映し出す。先程より顔色が良くなった悠子ちゃんを見て俺は笑った。もし彼女が応じてくれたなら髪に付いた泥を一粒残らず洗い流してあげたい。そして体の芯まで温まるまでお風呂から出してあげないのに。
「お、お風呂先に頂きます!!」
悠子ちゃんは俺から逃げるように、浴室へと走り去った。
――それでいい。
お風呂から彼女が出てきたら大きなバスタオルで髪を拭いて、温めたミルクを出してあげよう。
傷の手当てをする為の救急箱と風邪をひいてるかもしれないから体温計も持ってこないと。念の為に薬も飲んで貰って彼女が眠りに就くまで傍にいる。俺に出来る事は何でもしたい、そう思える事が何より幸せだと思えた。
その日の夜、俺はダイニングで昨日の事を親父に報告した。それでもお前は男か!と鳩尾を殴られた。俺は腹を抑えて痛みを堪えた。悠子ちゃんが不甲斐無い俺を責めなかった分、父が代わりに俺を叱った。
「俺はお前が悠子ちゃんに愛着を抱いているのは誰より知っているつもりだ。それなのにお前ときたら、妹である悠子ちゃんに守ってもらうとは情けないにも程がある。小学校を出て二年しか経っていない女の子にだぞ。しかもあんなにちっちゃくて、かわくて、健気で愛くるしい俺の義娘に……!!すぐ兄に連絡を取る。姪の安里がそこまで常識知らずだとは思わなかった」
「ついでに親父が勝手に口約束で決めた安里との婚約も解消するよう伝えて」
「……その件に関しては俺が悪かった。兄二人には娘しかいない。だから男であるお前に白羽の矢が立ったんだ。俺は実家を捨てた身だったから、世話になった兄に対して罪悪感があった。兄にお前を婿として迎え入れたいと言われた時、断れなかった。だが――それも間違いだったな。自分だって親の決めた道に反抗して家を出た癖にお前にそれを押し付けたようなものだった。長い間、すまなかった」
親父の謝罪に俺は黙って頷いた。親父の家は地元では有名な資産家で沢山の土地を所有している。幼い頃、父親が外国へ飛び、母親がいない期間はよく安里の家に世話になっていた。それは終らない悪夢のような時間だった。悪魔の三姉妹はそれこそ目が醒めてから寝るまでずっと傍に纏わりついた。
一日でも、一時間でも早く父の迎えが来ないかとひたすら父からの連絡を待っていた。
今更謝られても遅い。子供の時の俺のつらさは謝罪一つで許せるようなものではなかった。女が苦手になったのも、父が作り出した環境に寄る影響が大きい。あの時、俺を救い出せたのは父親だけだったのだ。
「俺はずっと親父を待ってたよ。幼稚園でも親父の預けた実家でも病院でも児童相談所でも家でも。解ってただろ。俺が親父の選んだ母親に懐いてなかったことくらい。安里の事だって大嫌いだった。俺はいつもあの家には行きたくないって言ってたんだから気付いてた筈だよな。なのにあんたは自分だって寄りつきたくない実家に俺を身代わりにして置いて行ったんだ」
あれは立派な育児放棄だった。面倒事は全て子供の俺に押し付けて、自分だけ好きな事をして、俺にとって一番ずるい大人は他の誰でもない親父だった。
「でもいいよ、俺にはもう悠子ちゃんがいるから。悠子ちゃんは俺と約束してくれたからそれだけでいい」
「……あぁ、解ってるよ。お前は随分前に俺を見限っていた。俺がお前に出来た事と言えば悠子ちゃんと会わせられたこと位なんだろう」
そう、それが一番の親父の功績だ。だから昔の事はなるべく掘り返さないようにしている。全ての苦労が悠子ちゃんに繋がっていたと思えば堪えた甲斐があった。
「そこだけは親父には感謝してるよ。妃さんが悠子ちゃんを生んで、親父を惹きつけるような魅力的な女性で良かった」
「そうだな。今回の事は俺から妃さんに話しておく」
「俺から言うよ」
「いや、元をただせば安里とお前を婚約させた時点で間違いだった」
「駄目だ。これは俺のけじめだから。親父には関係ない」
「関係なくはないだろ!」
「俺と悠子ちゃんの間には何人たりとも割り込ませない!」
「なんだとっ」
親父が俺の胸倉を掴んだ所で「待ちなさい!全ては聞いたわ」と階段から妃さんが姿を現した。その後ろからひょこっとパジャマ姿の悠子ちゃんが顔を出す。
「悠子ちゃん!」
「妃さん!」
恐らく一番動揺していたのは親父だろう。俺も中々に情けない心情を披露していたが、それ以上に親父は目が泳いでいた。
「和泉君、そんなに責任を感じなくてもいいわ。悠子が他人と喧嘩出来るようになったなんて上等よ。今まではそんな意地も拘りもないようなコだったから。それに悠子も貴方に謝って貰いたいなんて思ってないわ」
「そうです。あれは私と安里さんの戦いであって、結果はどうであれ私は安里さんに一矢を報いることが出来たので満足してます」
妃さんと悠子ちゃんはうんうんと頷いて俺をフォローしてくれる。しかし男としての矜恃がそれを許さない。
「いえ、でも俺がもっとしっかりしていれば」
「ノープロブレムよ!本人が気にするなと言ってるんだから、ごちゃごちゃ言わない。女々しい!正輝さんも最初から完璧な親なんていないんだから、昔の事ばかり気にしてないで前を見なさい。一緒に暮らしてくれてるでしょ、口だって聞いてくれるし、息子から歩み寄ってくれてる証拠じゃないの!自分の間違いに気付いたんだから今から、父親として頑張ればいいでしょ。無理だと思ったら私もいるわ。一人で抱え込まないで一緒に考えましょう」
「き、妃さん……」
隣にいる親父は泣きそうだった。こんな父親でも呆れず叱咤してくれるなんて……。父親は外面がいい為、他人の前では包容力のある男を装っている。だから今までの義母も結婚すると家庭を顧みない親父に幻滅するのが常だった。
「お父さん、人は変われるんだよ。私も最初は不安だったけど、今はお父さんと家族になれて良かったって思ってる。私の父は小さい時に死んじゃったから父親がどんなものかよく解ってなかった。でも今はお父さんがいるからどんな人か言えるよ。優しくて格好よくて、写真撮るのが上手でしょ。気遣いも出来て、車の運転してる時の顔も素敵だし、和泉さんみたいに実は涙脆い所も、このおっきい手も好き」
悠子ちゃんの小さな手がギュッと親父の手を握る。するとその手の上に親父の涙が零れ落ちた。その気持ちはよく解る。けど見ていて面白くなかった。悠子ちゃんにとっての親父はそんなに素敵なのか……良い所取りなだけだろう。納得がいかない。
親父は遂に堪えられなくなったのか、悠子ちゃんを腕の中に閉じ込めた。
すると二人を包み込むように妃さんが両手を回した。
「ほら、和泉君も来なさい」
と妃さんが小声で俺を手招きする。俺はおずおずと恥ずかしい気持ちで家族の輪に加わった。いつか悠子ちゃんが夢虚ろに言っていた事を思い出す。これでは何だか本当に外国のホームドラマみたいだ。
俺はそのぬくもりに浸りながら家族の為に自分に出来る事は何か、将来について真剣に考え始めるのだった。
その後、俺は悠子ちゃんの病院の付き添いに行きたかったが学生の本分を忘れるなと妃さんに諭され、泣く泣く学校に通った。
学校からまっすぐ家に帰ると悠子ちゃんの左足にはギブスが巻かれており、俺は驚嘆した。
足の甲の捻挫で全治三ヶ月、ギブスが取れるのは一ヶ月後らしい。つまり一ヶ月は松葉杖生活を余儀なくされる。他には臀部の打撲と頬の切り傷があったがそちらは時間と共に痛みが無くなるだろうとの事だった。
頬に傷跡が残らなければいい。俺はその傷も含めて全て愛しているけど、他人にいらぬ詮索をされたり差別を受けたりしたら悠子ちゃんは傷つくだろう。現に悠子ちゃんは他人に心配を掛けまいと大きなマスクをしている。
許すまじ、安里。
その気持ちは親父も同じだった。親父が伯父に連絡を入れたら、次の土曜日に伯父は安里を連れて謝罪に来るらしい。だがきっと安里の事だ。素直に謝ったりしないだろう。伯父も娘には甘いので、謝罪は只の建前で婚約破棄する気はないだろう。
ならばこちらも迎え撃つまでだ。妹に傷を作った事を後悔させてやる。
俺は自室でペンを片手に六法全書をめくった。




