8 兄の天敵
浮かれすぎかな、俺は頬杖を付きながら小走りで御手洗いに向かう悠子ちゃんの後ろ姿を眺めた。
出来立てのガレットを前に花開いた笑顔も、小動物のように少しずつ口に食事を含んでもぐもぐする所も、俺に真っ赤な顔でガレットを分けてくれた時の表情も全て脳裏に焼き付いている。
悠子ちゃんと一緒にいる一瞬一秒が尊いものに感じる。今まで怠惰に流れていた時間を今日に注ぎ込みたいと思える位に俺は楽しんでいた。
俺の前に見知った女が現れるまでは――
「久しぶりね、和泉」
緩くウェーブの掛かった焦げ茶の長い髪、服はペールピンクのアンサンブルに黒のスカートとお嬢様然としているが騙されてはいけない。従姉である冴草安里には昔から辛酸を舐めさせられてきたのだ。
「こういうお店にも来るのね、意外だったわ」
末っ子の親父には二人の兄がいて、安里は長男の一人娘、次男には双子の姉妹がいる。俺にとってその三人の従姉妹は悪魔の三姉妹だった。
「今度ウチにいらっしゃいよ。お父様も和泉に会いたいって言ってたわ」
親父の実家は地元でも有名な資産家で、安里の父親である正寿伯父さんは俺を婿養子にして跡を継いで欲しいと考えているのだ。俺が生まれた時から、ずっと。
「はなし、聞いてる?」
三歳年上の安里は三姉妹の中でも一番気が強い。自分至上主義なので話も通じない。顔も見たくなければ声も聞きたくない。安里は許可もしていないのに、悠子ちゃんの座っていた席に座った。
「同席を許した覚えはない」
喉から声を絞り出す。俺がきつく睨んでも安里はやっと目を合わせてくれた、と嬉しそうに笑うだけだった。反吐が出る。昔から、この女は変わらない。
「相変わらず和泉は私が一緒だと緊張しちゃうのね」
幼い頃の映像がフラッシュバックする。
気付けば俺は、掛け軸の飾られた畳の部屋に座らされていた。床の間の青磁の花瓶には百合の花が活けられていて、俺は昔からその香りが苦手だった。
着物を着た幼い少女達が自分を囲んできゃらきゃらと笑っている。
順番に向かい合わされ、愛の言葉を強要される。
私が一番だよね?と抱き着いて唇を重ねてくる。
その様子を廊下を通りすがる伯父が微笑ましげに眺めていた。
逆らえば三姉妹がお仕置きと称して俺を暗闇に閉じ込めた。
何度伯父に訴えても「安理はかくれんぼをしていたと言っていたぞ」と俺の言葉より娘の嘘を信じた。
俺が許されるのは、首を縦に振ることだけだった。
泣いても、怒っても、訴えても、苦しくても、
助けてくれない。
急に空気が薄くなったように感じた。
手先が震えて、冷たくなってくる。
最近は異性と関わっても拒絶反応が起きなかったから緩和してきたと思っていた。
俺は背中を丸めて、荒くなる息を手で隠す。
「あなただれ」
安里の敵意のこもった声を聞いて俺は目を伏せた。
――こんな所、見せたくなかったのに
俺の大切な妹が帰って来てしまった。
「大丈夫ですか」
戻ってきた悠子ちゃんは俺の様子を察して背中を擦った。その小さな手の感触に俺はホッと胸を撫で下ろす。彼女に触れられても鳥肌が立たない事に安堵した。
「あんまり」
「ですよね……原因はこの人ですか」
悠子ちゃんに小声で聞かれて俺は頷いた。
「ちょっと和泉、このコ誰なのよ!彼女とか言い出すんじゃないでしょうね」
怒りの矛先が俺に変わる。彼女は自分の思い通りにならないとヒステリックになる癇癪持ちだ。従姉の甲高い声を聞いてるだけで俺は過去の記憶が蘇り気分が悪くなった。
「私は、和泉さんの義妹の冴草悠子と云います。兄の具合が悪いようなので失礼しますね」
「あぁ、この前正輝叔父様が再婚相手を連れて挨拶に来たわね。コブツキだったの。和泉が私を前にすると緊張して話せなくなるのはいつもの事よ。血の繋がりもない他人が口出ししないでくれる」
「この方、親戚ですか」
「従姉なんだ。名前は冴草安里」
「随分と礼儀のない方ですね」
「あれで成人してるんだけどね」
悠子ちゃんが驚きで目を丸くした。
彼女と話していると気が楽になる。
冷える両手を擦れば悠子ちゃんがぎゅっと手を握ってくれた。
俺の小さな変化にも気付いてくれたことが何より嬉しい。
「聞こえてるわよ!和泉を知ってて私を知らない方がオカシイのよ。私と和泉は親公認で結婚を約束した仲なの。貴女の出る幕はないわ。お引き取り願えるかしら」
悠子ちゃんを見るとヒいているのが解る。
「お待たせ致しました。苺のミルフィーユガレットでございます」
ウエイトレスが安里の前に皿を置く。
いつの間にか安里が注文していたらしい。
「あの、そこは元々私の座っていた席なんですけど」
悠子ちゃんの言う事は当然の訴えだろう。
しかし相手は普通の神経をしていない。
席を立ったりはしないだろうと和泉には解っていた。
「じゃあ、この食べ掛けのお皿は貴女のよね、差しあげるわ」
安里は皿を悠子ちゃんの方に向けて滑らせた。
テーブルを滑るスピードは思いの外早く、防ごうとした時には既に遅かった。
悠子ちゃんの体に当たって床に落ちた皿は、ガチャンと音を立てて割れた。
服にはガレットがべっちゃりと貼りついていた。
「だ、大丈夫ですか、お客様!今布巾をお持ち致しますね」
傍にいたウエイトレスが慌てて厨房へ戻っていく。
悠子ちゃんはテーブルの上のティッシュでガレットを落としてからスッと立ち上がった。
「安里さん、お外でお話しませんか」
「私は今食事が来た所なんだけど?」
じろっと鋭い目つきで安里がねめつけても悠子ちゃんは怯まなかった。
「お店の方に迷惑を掛けてるのもお分かりにならないんですか?あぁ、和泉さんに嫌われてるのも気づかないんだから当然と言えば当然ですが」
「――なんですって」
「私、安里さんと違って常識を弁えているので、外で話がしたいです。周りを見て下さい。皆さん食事どころではないですよ」
俺達の四方のテーブルは勿論の事、立ち上がってこちらにスマホを向けている野次馬もいた。戻ってきたウエイトレスもいつ布巾を渡せばいいのか困った様子を見せながらも興味津津のようだ。
ようやく好奇の視線に晒されている事実に気付いたのか安里の顔がかぁっと赤く染まった。
「すいません、和泉さん。ここで私の荷物守ってて下さい。すぐに戻ります」
悠子ちゃんは颯爽と安里を引っ張って店を出て行く。
ひとり、取り残された俺はただただ茫然とするしかなかった。




