6 兄の落涙
冬休みも終わり、俺は教室で悠子ちゃんから借りた本を読んでいた。
良かったら読んで下さい、と悠子ちゃんの好きな野球漫画のファンブックを部屋まで持ってきてくれたのだ。ここ二、三日暇さえあれば見ていたので、幼馴染キャラの足のサイズまで覚えてしまった。原画展に向けて、俺はテストより真面目に勉強していると思う。
「薄々感じてたけど、お前の妹ちゃんってオタク?」
昼休みになって貴士が弁当を持って前の席に座った。
視線は俺の手元の本に注がれている。
「なのかな。本棚に沢山漫画はあったけど、実写化したのもあったし普通の範囲?俺があまり漫画とか読む方じゃないから判断し難い」
「何か話聞いてるだけでもお前とはあんま縁がなさそうなコだよな」
「ナンデ?」
「おい、睨むなよ。和泉が女に好意的なだけで奇跡なんだけど、聞く限りでは妹ちゃんって教室の片隅で本読んでそうなタイプだろ。お前と何喋ってんのか想像出来ない」
「別に、普通だよ。それにオタクって悪いこと?俺は人見知りで内気で本の世界のめり込んじゃうような悠子ちゃんの感受性の豊かさが好き」
「あばたにもえくぼ、伊達食う虫も好き好きか」
「俺の事はどうとでも。けど悠子ちゃんのことを悪く言わないでくれる?」
「お前も人が変わったなぁ」
貴士は呆れた様子で肩を竦めた。
日曜日、俺はリビングのソファーで悠子ちゃんを待っていた。外出が楽しみなんていつぶりか記憶にない。街に出ると煩わしい視線や声掛けが多くて、俺はすっかりインドア派になってしまった。
「和泉さん、おはようございます」
「おはよう、悠子ちゃん」
階段から降りてきた悠子ちゃんの傍に寄り、上から下まで眺める。ネイビーのPコートに黒のキュロット、グレーのニット帽がよく似合っている。
「あの、早く行きましょうよ」
少し俯いて俺の背中を押そうとした彼女に笑みが漏れてしまう。まだ何も言ってないのに、照れてるんだ。感情の赴くまま褒めちぎったら、悠子ちゃんは羞恥で部屋に閉じこもってしまいそうだ。それも木の穴に隠れるリスみたいで可愛い!
「ちょっと待ってね」
俺は悠子ちゃんの黒いマフラーを取って、くるっと悠子ちゃんの首に自分のつけてたマフラーを巻いた。黄色のチェックのマフラーが差し色になって悠子ちゃんの可愛さをより引き立てている。顔周りも明るく見えて一石二鳥だ。
「うん、もっと可愛くなった」
満足のいく出来に笑うと顔を真っ赤にして難しい顔をされた。
「お世辞じゃないよ?」
「そうそう、悠子ちゃん程可愛い娘はいない!」
いつの間に……。
親父が指でカメラのシャッターを切るマネをして「カメラ持って来るんだった」と呟いた。こういう時、親父と血の繋がりを感じて微妙に嫌になる。
カメラは俺が持ってるから問題ないと内心思いながら、悠子ちゃんの手を引いた。着飾った悠子ちゃんを親父の前に放置していたら、絶対に親父のカメラの餌食になる。
「そんな強く引っ張らなくても!い、行ってきます」
「うん、デート楽しんで来てね」
別に親父に言われなくても、楽しんでくるわ。
あとで土産話を聞いて羨ましがればいい、俺はほくそ笑みながら悠子ちゃんと家を出た。
十時前、原画展の会場に着くとまだ開場前だというのに既に行列が出来ていた。その最後尾に悠子ちゃんと並ぶ。悠子ちゃんは嫌な顔ひとつせず、にこにこしていた。
(すごいご機嫌だな)
出掛ける場所をここにして本当に良かった。最初は映画や水族館がいいかなぁ、と考えていたが毎週発行される悠子ちゃんの愛読書を読んで変更した。その少年誌には、悠子ちゃんの好きな漫画の原画展について特集されていた。これだ!と思った。悠子ちゃんに確実に楽しんで貰えて、俺も勉強になる。
「来場記念に限定のストラップも貰えるんですよ。二種類あるんですけどどっちが貰えるかなぁ」
「じゃあ俺と同じのじゃないといいね。俺の分は悠子ちゃんにあげる予定だから」
「え!いいんですか。ありがとうございます」
いつもは遠慮する悠子ちゃんもこの漫画に関しては別のようだ。
会場の中に入って、俺はまず待ち合わせ場所と時間を決めた。俺が傍にいたら悠子ちゃんは俺に気を遣ってゆっくり見れないだろうと考えての事だった。
俺は少し離れた所から作品に瞳を輝かせる悠子ちゃんを観察し、ついでに絵も見る。完璧だ。
悠子ちゃんは俺の提案に満面の笑みで頷いて、「行ってきます」と額に手を当てて敬礼をした。
(え、何だ、これ)
胸にずきゅんと矢が突き刺さる。何という凶器だ。兵士の敬礼には何も感じないけど、悠子ちゃんがやるとこんなに可愛いものだったのか……!
無言の俺を気にも留めず、原画に夢中の悠子ちゃんは俺から離れていく。これは目が離せないな、と気合を入れ直して俺は一歩踏み出した。
待ち合わせ時間を十五分過ぎた頃、悠子ちゃんは待ち合わせの入り口付近に戻ってきた。その肩に掛けたトートバッグは先程より膨らんでいる。
(グッズコーナーでクッションとマスコットの縫いぐるみで悩んでたもんなぁ)
待ち合わせ時間だから先に戻ったけどどっちを買ったんだろう。気になる。
「遅くなってすみませんっ」
「大丈夫だよ、満喫出来たみたいで良かった。出口の所には特大原画が飾られてるみたいだよ、見に行こう」
「はい!」
元気よく返事をする悠子ちゃんの上気した頬に口づけたくなったけど我慢した。
「写真、お願いしてもいいですか?」
特大原画の前に立って俺がお願いした相手はハイエンドなコンデジカメラを首に掛けた男性だ。この人なら俺と悠子ちゃんの写真を上手に撮ってくれるだろう。
「いいですよ」
了解が貰えたので男性に俺のカメラを渡す。悠子ちゃんは戸惑った表情で「いいんですか」と言いたげだ。会場内では基本カメラはNGだと表記されていたからだろう。だがこの特大原画の前に限っては写真撮影可になっていた。
「ほら、ここに撮影OKって書いてあるでしょ。はい、俺の横に立って。もっと傍に。カメラににっこり笑ってね」
準備が整うと男性は素早くシャッターを切ってくれた。しかもまさかの連写だ。悠子ちゃんの表情は豊かだから、その変化も記録に残っていると思うとファイルを見るのが楽しみだ。
「ありがとうございます」
男性は俺にカメラを返してペコリと頭を下げて立ち去っていく。
無駄話ひとつしないその姿勢に俺は思わず感心してしまった。
「せっかくだから一緒に来た記念に形で残したかったんだ」
悠子ちゃんと会場を出るともう行列は消えていた。外気は思いの他冷たく、雲行きが怪しくなっていた。
「あんまり家族写真撮ったことがないので、少し恥ずかしいですけど新鮮でした」
照れ笑いを浮かべる悠子ちゃんに俺は堪らず抱き締めた。
仕事命の妃さんと悠子ちゃんはあまり一緒にお出掛けしたことがないのだろう。妃さんのことだ、悠子ちゃんの運動会や授業参観に行ったのかさえ怪しいところだ。
「これから、色んな所に一緒に出掛けようよ。俺は悠子ちゃんとなら遊園地だって動物園だって地球の果てまでだって行くよ」
「ぶっ、ち、地球の果てって」
「あ、冗談だと思ってるね。すぐには行けないけど、実際モンゴルの地平線を見れば解るよ。見渡す限りに広がるインディゴブルーの空と草の海の上に立てば、地球の端に立っているような気分を味わえるから」
「行ったことあるんですか?」
「……父さんがね。昔、写真を見せながら教えてくれた。いつか見に行ってみたいな、悠子ちゃんと」
世界で一番不幸な少年だと思っていた頃、自由に飛んでいける父親が羨ましかった。父親からその写真を見せられた時、ファインダーに納まり切らない広大さに目を奪われた。
そこに行けば自分の悩みがちっぽけな悩みになってくれるのではないかと夢想した。
「その時は旅行代金は私も払いますから、金額教えて下さいね」
その所帯染みた現実的な言葉に俺は泣きそうになった。
涙を見られたくなくてぎゅうぎゅう抱き締めると、悠子ちゃんに胸を叩かれた。
「ありがとう、ありがとう」
幸せ過ぎてどうにかなってしまいそうだった。
なんで彼女はこんなに俺を喜ばすのが上手いんだろう。
俺の感じていた孤独を簡単に吹き飛ばしてしまうんだろう。
酷く甘やかで幸せな未来を夢見させてくれるんだろう。
彼女に出会えた全ての偶然に感謝した。
「いい加減離してくださいよ」
そう言う悠子ちゃんの抵抗はもうない。
抱き締められたままでいてくれる妹の存在に俺はまた少しだけ泣いた。




