4 兄の心配
お風呂から出て脱衣場でばったり出くわした所で、悠子ちゃんが熱を出して倒れた。俺はさっと服を着て悠子ちゃんを抱き上げる。軽い体に不安を覚える。ちゃんと食べてるのかな。意識を失った悠子ちゃんは顔色が悪く、息も荒い。
(夕飯を食べてる時はそうでもなかったのに……)
だけど熱を出した原因として心当りはある。今日は一日中こたつの中で過ごしていたから具合を悪くしたのかもしれない。注意するべきだったんだろうけど、悠子ちゃんが少しずつ素を見せてくれるようになって浮かれていたのだ。
今朝、部屋から持ち出した漫画をこたつの上に積み、飲み物やお菓子を置いた悠子ちゃんは腰に腕を当て、非常に満足げな顔で頷いていた。それは秘密基地を作り上げた子供のようで微笑ましくとても水を差すようなことは言えなかったのだ。
以前は自室で過ごす時間が長かった悠子ちゃんもこたつが来てからというもの、日向を求める猫のようにリビングのこたつに入り浸った。夏休みの間は家で一縷の隙も見せなかったのに、こたつの中の悠子ちゃんに寝ぼけ眼で「おはようございまふ」と挨拶された時にはもう!もう!言葉にならなかった。
こんな猫が家にいたら愛でるしかないだろう。
こたつと猫はセットなのだ。有名な童謡もそう言っている。だから悠子ちゃんだってセットでもいい筈だ、と思いこんでいた。しかしその結果、悠子ちゃんは体調を崩してしまった。これからは考えを改める。猫にも多少の躾は必要なのだ。
夜も遅く年始の為、病院もやっていない。原因と症状から判断して恐らく風邪だろう。俺は悠子ちゃんをベットに下ろした。氷嚢や体温計が欲しいけど何処にしまってあるのか解らない。家の電話で妃さんの携帯に電話を掛けるとすぐに出てくれた。
「氷嚢は食器棚の一番下の段で体温計は救急箱の中に入ってるわ。常備薬の場所は解る?なら良かった。あと一階の和室に置いてある加湿器も悠子の部屋に持って行ってあげて。喉を痛めてるでしょうから。和泉君ありがとうね。悠子、いつもぎりぎりまで我慢するから私でも気付けなかったりするのよ」
「お礼なんて……いいんです。俺がやりたくてやってるんで気にしないで下さい」
「っもうなんていいコなのかしら!あと薬も大事だけど抹茶のアイスもお願いね。風邪の時は無性に食べたくなるみたい。明日の夕方には家に帰るわ。それまでよろしくね、和泉君」
電話を切ってから俺は近所のコンビニへアイスを買いに行った。なんとなく知識はあるけど他人の看病をするのが初めての俺にとって妃さんのアドバイスは大変ありがたいものだった。
喉が痛いようならのど飴いるかな。病人食といえばおかゆ、だけど作ったことないからレトルトにしよう。スポーツドリンクは家にあったっけ、買っておいて損はない筈。あと肝心の抹茶アイスを二つ。俺がこうしている間に悠子ちゃんの病状が悪化しているかもしれない。レジでお会計を済ませた俺は急いで家に帰った。
コンコンと、扉を叩いてから悠子ちゃんの部屋に足を踏み入れる。俺が悠子ちゃんの部屋に入るのは今日が初めてだった。悠子ちゃんは扉を閉めるとすぐ内鍵を掛けるからね、その音を聞く度に俺はベルリンの壁の前に立っているような気分になった。この難関の扉をどうにか攻略出来ないものかと頭を悩ませていたのだ。
部屋のインテリアを見れば悠子ちゃんがどんな材質や色を好んでいるのか解るし、本棚を覗けば趣味や傾向も察することが出来る。クリスマスプレゼントを選ぶ前に欲しかった情報だ。悠子ちゃんに関しては知りたいことが多すぎて困る。奥ゆかしい悠子ちゃんは秘密主義なのだ。それを少しずつ暴いていくのが最近の俺の楽しみだったりする。
悠子ちゃんの机の上に薬や水などを置かせて貰っていると悠子ちゃんがその物音で目を覚ました。部屋の電気は消えてても窓から入る明かりで確認できた。
「起きたんだね。風邪で熱があるから無理をしないで」
「ごめんね、母さん」
悠子ちゃんは寝惚けているのかここにいるのが母親だと勘違いしているようだ。病人の悠子ちゃんにわざわざ訂正をする気にもなれず、俺はそのまま会話を続けた。
「……謝らないで。少し起きあがれる?薬を飲むためにアイスを買ってきたから」
「起きる」
あまりにも早い返答に俺は笑いを噛み殺した。
そんなに好きなんだ、抹茶アイス。そんなに好きならいつでも買ってきたのに。
「母さんコレどこで買ったの?」
妃さんには店までは指定されていなかった。もしかしたら専門店のアイスでなければ駄目だったとか?質問に答えられないでいると悠子ちゃんはそこに答えを見つけたようだった。
「いつも言ってるでしょう?駅横のスーパーならいつでも四割引きだからそこで買ってねって」
「ごめん、急いで買いに行ったから」
そうなのか。知らなかった俺は素直に謝った。
「ポイントカードもちゃんと持ってってね。袋も有料だからエコバックも必須だよ。忘れて袋買う位なら手で持って帰ってきていいから」
病人だと言うのに女子中学生らしかならぬ主婦発言。うん、節約が好きなんだな悠子ちゃんは。言わずにはいられなかったのだろう。
「クスっ、アイスが溶けちゃうでしょう」
「少し溶けたくらいが丁度いいからいいの!」
いつもは言わないような甘えた口調が心地良かった。
「ごめんね、母さん」
「ここはありがとうって言って」
「うん、ありがとう――いつも、ありがとうって言いたいんだよ。でも言いたい時、母さんが家にいないだけ。通訳の仕事が好きな母さんの邪魔はしたくないの。誇らしいのよ。わがまま言ってごめんね。風邪を引いたときアイスが食べたいのはね、アイスを食べてる間はずっと傍にいてくれるでしょう。プリンを頼んだときはすぐに部屋に戻っちゃったから……」
母子家庭の悠子ちゃんはこれまで寂しい思いをしてきたのだろう。早々に父親を見限った俺とは違い、母親に嫌われないように沢山努力してきたのだろう。だから悠子ちゃんはこんな時も節約を意識するようなしっかり者になった。
こうして寂しさを口で訴えるのはいけない事だと律しているに違いない。
その悠子ちゃんの本音を聞けた俺は脳裏で妃さんに謝りながら悶えていた。
「っ、ほんと、まいったなぁ」
頭を撫でれば悠子ちゃんは気持ち良さそうに円らな瞳を細めた。
はじめて悠子ちゃんに会った日から彼女の印象は変わらない。俺の顔に見惚れることなく、母親の為に義父や義兄に嫌われないよう一生懸命な女の子だった。今にして思えば、家族に愛着を抱いたことのない自分と真逆に位置する悠子ちゃんに俺は羨望を覚えたのかもしれない。純粋に母親を慕い尽くす姿に惹かれたのだ。
傍目にも手間が掛かったと解る料理の数々を褒めれば困ったように笑って、『ありがとうございます』しか言えないような口下手な悠子ちゃんに心が高揚していた。このコは自分を評価して欲しいんじゃない。母親が第一で、母親の幸せを自分の幸せに繋げられるような娘なのだ。
妃さんは確かに悠子ちゃんを愛していると思う。
だけど、俺ならもっと大切にしてあげられる。
寂しくても寂しいと言えないような我慢なんかさせない。
悠子ちゃんの前髪を優しく払い、額に唇を落とす。
女性への拒絶反応も悠子ちゃん相手なら現れない。
それがどんなに嬉しいか、彼女は知らない。
「外国のホームドラマみたいだね」
そう言って彼女はクスクスと無邪気な笑みを浮かべる。悠子ちゃんは俺を母親だと思っているからこそ笑って受け入れてくれた。
(今、君の傍にいるのは俺なのに)
沸々と腹の底から沸き出てきたのは妃さんに対する嫉妬だった。
義母に対して抱く感情ではないだろう。
「みたいじゃないよ。おやすみ、悠子ちゃん」
君の家族はもう妃さんだけじゃないんだ。それを骨の髄まで思い知らせてあげたい。他人の事など思い浮かべられない位、俺に甘えて頼ればいい。悠子ちゃんのふっくらとした頬を撫ぜてから、俺は部屋の扉を閉めた。
「申し訳ございません!!ご迷惑をお掛けしました」
翌日、悠子ちゃんの部屋の扉を開けると、悠子ちゃんに土下座された。
何でこの寒い中、布団から出て床の上で頭を下げるかな。
「――悠子ちゃん、頭を上げて体育座りになってくれる?」
声のトーンを落として告げれば、悠子ちゃんは慌てて俺のお願いに従った。
「君は病人なんだから安静にしててくれないと困るな」
俺は彼女の背中と膝の裏に腕を回してヒョイと持ち上げ、ベットの上に寝かせた。
「言っておくけど、俺は迷惑を掛けられたから怒ってるんじゃないよ。むしろ俺以外の人間に看病させた方が不快だから」
「ふ、不快ですか」
「家族なんだから当然の事をしたまでだよ。俺が怒っているのは、俺の大事な悠子ちゃんが自分を大切にしないから。風邪が悪化したらどうするの?昨日は意識朦朧としながら喋ってたよ。熱も高かったし、良くなった?病院行く?」
「大丈夫です!いつも市販薬で治るので、病院には行きません」
「心配だなぁ。少しでも悪化したら病院に連れてくからね。しばらくは家事もしないで部屋で大人しくしてて。解った?」
「えと、しばらくとはどれくらいでしょうか?」
「冬休みが終わるまで」
「それはちょっと」
渋る悠子ちゃんに俺は深々と溜息を吐いた。びくっと悠子ちゃんの体が強張ったがここは心を鬼にする。
「なら別にいいよ。外側からドアストッパー挟むから。そうすれば部屋から出れないね。トイレとお風呂の時は部屋から出してあげる。あ、お風呂も入らないか。体は部屋で拭けばいいし、水のいらないシャンプー使えば問題ない」
「それは問題しかないのでは……」
「ん?トイレも行かなくても何とか出来るね」
にっこり笑って有無も言わせない。飛び上がった鼠のような反応をする悠子ちゃんに内心可愛いなぁと思うと余計に笑みは深まった。
「部屋で大人しくしてます!だから監禁だけは許して下さいっ」
「監禁じゃなくて、看病でしょう?俺は本気で悠子ちゃんのこと心配しているのに心外だな」
「すみません、ごめんなさい」
「謝らないでって言ったのにもう忘れてる」
この様子だと昨夜の事は覚えていなさそうだ。
「何のことですか?」
「ううん、何でもないよ」
時間を掛けて解って貰うしかない。
俺の傍にいれば、自然と覚えてくれるだろう。
謝るより、ありがとうと言ってくれた方が俺が喜ぶという事実に。