13 妹の不覚
「ただいま~悠子、いいコにしてたかしらぁ?」
旅行から帰ってきた母親は明らかに面白がりながら私の顔を覗いた。美兄と二人きりで過ごしたこの二週間が苦行でしかなかったと私の人見知りっぷりを理解している母親の無神経な質問に思わずムッとした。
私がどれだけ両親の帰りを待ち望んでいたことか!話題のネタが切れたのが何日前だと思ってるんだ。兄は気を遣って私に話をフってくれたり、手伝いを買って出てくれたりと普通は感謝すべき所なんだろうが、私は人生稀にみる心労で瀕死状態だ。後半は放っておいてくれと言わんばかりに家事以外の時間は部屋に引き篭っていれば病気かと心配されるし。兄の親切も心配も私には重荷でしかなかった。何が楽しくて話下手のモサい妹に構うのか甚だ検討がつかない。
「悠子ちゃんはちゃんといいコにしてましたよ。食事も毎食二人分作ってくれて俺の好みも考慮に入れてくれて悠子ちゃんはいいお嫁さんになれるね」
聞かれたのは私ですが……?隣に立つ兄が勝手に母の質問に答えて話を進める。この褒め殺しに慣れてきた自分が怖い。兄は一日一回義務でもないのによいしょしてくるのだ。髪が綺麗、料理が美味しい、アイロン掛けからトイレ掃除に至るまで、とにかく何でも褒める。
私は褒められなきゃ動かない人間に見えるのだろうか。それともなんだ、心はイタリア人なのか。失礼ながら何を言われても私はお世辞として受け入れるようになった。私が普通だと否定しても数倍になって褒め返される為、私は口を噤む他なかったのだ。底辺の私にはあの羞恥責めは拷問の時間だった。
「和泉、悠子ちゃんが困ってるだろ。妃さんも悠子ちゃんの事からかわない」
母の後ろから現れた父が助け船を出してくれ、ホッと息を吐いた。この人は私の性格も心情も理解してくれている。メールもすぐに返信してくれ、兄対策のアドバイスもしてくれた。旅行の前にメルアド交換しておいて良かった。相談相手がいないままだったら、私は高確率で兄を嫌いになっていただろう。
「おかえりなさい、お父さん!帰ってきてくれて本当に嬉しいです。どうぞ荷物預かりますよ。お風呂沸かしておきましたが、先に食事にしますか?」
「わぁ、大歓迎だね。ありがとう、じゃぁ先にお風呂を頂こうかな」
父の大きな手が私の頭を撫でようとしたその時、パシンとその手は払われた。
横にいた兄の手によって。
「悠子ちゃんに勝手に触っちゃダメ」
おい、いつからあなたの許可が必要になったんだ。それでなくとも兄は約束を破って触れてくるというのに。むしろ兄に接触禁止令を出したい。
「……嫌な予感してたんだよなぁ」
父は困った顔をしてぽりぽりと頭を掻いた。
「あら、そういうこと」
母は口に手を当てて驚いている。
不吉な父の発言に母は何かを察したようだ。夫婦で以心伝心してないで説明をプリーズミー。そしてこの気まずい雰囲気をどうしてくれる。恨みがましく兄を睨めば、兄はきょとんとした顔で首を横に傾げた。
えぇぇぇ、この状況を作り出しておいて罪の意識がまったくないんか。逆に驚きである。
「和泉さん、お父さんの機材持って貰えますか?私にはちょっと重そうなので」
「あ、ごめんね。気が付かなくて」
私が名前を呼ぶと兄は柔らかく笑って父の荷物を奪った。兄は私に名前を呼ぶと相当嬉しいらしく、私はその思いが伝わってきて気恥ずかしい気分になる。そんな私の顔を見て兄が更に頬を緩ませるのだから堪らない。
「和泉と仲良くなったんだね、悠子ちゃん」
父に追い打ちを掛けられ、私は居たたまれない気持ちになった。仲良くなるつもりはなかったんです。でもこんな引っ込み思案の私ににこやかに接してくれる人を無視するのも難しかった。それだけなのだと、父に伝えたくても、兄の前でそれを口にする程の度胸はチキンの私にはなかった。
次の日、兄は寮に帰っていった。笑顔で見送る私に兄は寂しそうな顔を見せたが「また休みになったら来るからね」と私の頬を撫ぜて去っていた。遠距離恋愛の恋人でもあるまいし。やっぱり女性が苦手だなんて嘘だろう。私は兄が触れた頬に手を当てて自分の頬の熱さを知る。昨日の二の舞にはなるものかと耐えてはみたが、無理だった。異性への免疫力ゼロの私にとって兄は恐るべき強敵なのだ。
夏休みが終わり、学校が始まった最初の土曜日。私は家のソファで判子と財布を持って待機していた。今日は大好きなサークルさんの新刊が届く日なのだ。時間は午前指定にしたからアバウトにしか解らない。けど早めに着くことを願って私はどきどきそわそわしながら新刊を待っていた。関西のインテに参加出来るものなら行きたかった!けれど私の家は関東圏、泣く泣く諦めた。通販をしてくれて本当に良かった。インテで在庫が残らなかったら通販はしない予定とブログに書いてあったからひやひやしていたのだ。
ピンポーンと玄関のベルが鳴り、宅配業者と信じて疑わない私は素早く扉を開けたーーのが失敗だった。
「ただいま、悠子ちゃん」
綺麗な微笑を浮かべた美男がひとり。
な、ぜ、貴方様がここに!!
扉の前にいたのは兄だった。冬休みまで帰ってこないんじゃなかったの!?兄の早すぎる帰省に私は言葉も出ない。こういう時に限ってまた両親がいないのもダメージが大きかった。
「ねぇ、今ちゃんと相手を確認してからドア開けた?」
兄の視線は私の手に注がれている。私は慌てて背中に判子と財布を隠した。兄の顔は笑ってるけど声は低い。静かな怒りを感じて私は身構えた。
「は、は」
「見てないよね?」
兄は私を抱きしめるように背中に手を回し、私の手から証拠を取り上げていく。こ、これから新刊が届く予定だから持って行かれたら困る。
「あの、かえしてくだ」
「その前に俺と少しお話をしようか」
兄は判子と財布という人質を取ったまま、リビングのソファに座り私にも隣に座るように促した。なんでよりにもよって密着を避けられないソファを指定するのだ。ダイニングテーブルでもいいじゃないか、と内心思いつつ訴えられるような雰囲気では無い為、黙って従った。
それから兄は「悠子ちゃんは無防備過ぎる」「強盗だったらどうする」「女のコが一人で家にいるなんて危ない」と懇々と私を叱った。父親より口うるさい兄にうんざりしながら私は「気を付けます」「すみません」と謝り続けた。どうやって兄を追い出して新刊を受け取ろうか模索する私はこの時、兄が退寮する決意を固めていたなんて勿論知る由も無かったのである。