12 兄の画策
「悠子ちゃんはさっきのお店の常連さん?」
いきなりあの男との関係を尋ねても警戒されるだろう。俺はスーパーを出ると隣で歩く妹にさりげなく会話を切り出した。
「前の家から近いんです。買い物は小学生の頃から専らあのスーパーでした」
「じゃあお店の人とは皆顔見知りかな」
「そうですね、皆さん親切ですよ。私なんか背が低いから高いところの商品を取って貰ったり、お店の電話貸して貰ったこともあります」
小学生の悠子ちゃんが背伸びをして一生懸命商品を取っているところ。それはぜひ見てみたかった。俺が傍にいたら何でも取ってあげたし、電話だっていくらでも貸しただろう。親父の再婚が遅すぎたのだ。
「脚立とか足踏み台もお願いしてみたんですけど、それも置くとお客さんが乗って事故になった時の対応とか大変みたいで置けないらしいです」
妃さんが旅行から帰って来たら昔のアルバムを見せて貰えないか頼んでみよう。これから作るのもいいかもしれない。親父のカメラならさぞいい出来栄えの写真が撮れるだろう。
「ってさっきから聞いてま、うっぎ、きゃあぁぁっ」
突然の悠子ちゃんの悲鳴で俺は我に返った。
悠子ちゃんは数歩後ろで立ち止まっていた。顔を背けたまま微動だにしない。
「ど、どうしたの?」
「せ、セミが」
悠子ちゃんの指を差す先には一匹の蝉。悠子ちゃんの胸の上にしがみついている。な、なんというところに。
「苦手なの……?」
妹はこくりと頷いてから何とかしてくれと訴えた。ここで断ったら男がすたる。蝉は飛び立つ気配がなく、遂には妹の胸元でけたたましく鳴き始めた。
「ひっぃ」
「今、取ってあげるから」
俺は買い物袋を置き、そっと片手で蝉の胴体を掴んだ。しかし、なかなか妹から離れない。服の繊維に蝉の足が引っ掛かっていたのだ。
これ以上引っ張ると襟ぐりから服の中が見え……ました。水色のレース。可愛い。決してわざとではない。不可抗力だと言ったら妹は信じてくれるだろうか。蝉が取れないことに耐えられなくなった悠子ちゃんが俺の服の裾を引っ張って早くと急かした。……うっ、そんな涙目でおねだりするなんて反則だ。
「ごめんね」
俺はもう片方の手で上から服を押さえた。ふに、と手に触れた柔らかな感触。
邪心退散!煩悩滅殺!不埒な蝉を素早く引き離し、妹から見えない茂みに放った。
やった、やってしまった。
いくら蝉を取るためとはいえ、胸に触れてしまったのは紛れもない事実だ。腕に触れただけでも怯えた相手に俺は何と言う事をしてしまったんだ……。怒られる分にはまだいいが、以前のように泣いてしまったらどうしよう。恐る恐る振り返るといきなりギュッと両手を握られた。
「ありがとうございます!!和泉さんが私のお兄さんになってくれて本当に良かった!!」
がっちりシェイクハンドされた手が上下に振られる。
ゆ、悠子ちゃんが、あの親が再婚して半年経っても他人行儀だった悠子ちゃんが!!
俺の名前を呼んだ!!
しかも見た事のない満面の笑みまで浮かべて俺の手を握ってくれている。
これは奇跡か。蝉が起こした奇跡だ。
笑った時のえくぼが!輝いた瞳が!涙の滲んだ眦が!何時にない軽やかな声が!
予想以上に可愛い。
悠子ちゃんに握られた両手から伝わる熱が全身に蔓延していく。聞こえていた筈の蝉の声も聞こえない。心臓の音だけが五月蠅かった。
家に帰っても奇跡は続いていた。部屋で妹の笑顔の余韻に浸っているとコンコンと妹に『食事の支度が出来ました』と呼ばれた。俺は食卓を見て目を瞠った。
ダイニングテーブルの上には俺の好きなものばかりが並んでいたのだ。
しかも俺が今まで言った覚えのない大好物まである。
「俺、悠子ちゃんに青椒肉絲が好きって話したことあったっけ?」
「お父さんにメールして聞きました」
メル友か!!
親父に聞かずとも悠子ちゃんになら何だって答えたのに。
「……そういうことは直接俺に聞いていいからね」
「あの、なにか怒ってますか?」
妹は少し怯えた様子で俺の顔色を窺う。折角妹が俺に感謝の気持ちを込めて作ってくれたのに怒ってどうする。俺は親父に対する殺気を押し込めて、悠子ちゃんに向かってにっこり笑った。
「ううん、悠子ちゃんが俺の為だけに作ってくれたんだよね?とても嬉しいよ」
「なら、良かったです」
悠子ちゃんは口ごもりながら下を向く。耳まで赤くして、照れ屋さんだなぁ。こんな悠子ちゃんの事を他の誰も知らないだろう。俺だけの悠子ちゃんだ。
ひとくち、おかずを口に入れると美味しい味と一緒に幸せが広がった。
ひとりベットに転がって思う。以前は味気なかった実家も妹の存在で色鮮やかに塗り替えられてしまった。妹の涙や笑顔ひとつで一喜一憂する俺を見たら友人は目を疑うだろう。それだけの変化を自分でも感じていた。
親父が再婚する相手の連れ子が三つ年下の女のコだと知った時、真っ先に抱いたのは嫌悪感だった。それが妹を見た瞬間、突然感情が反転した。
まずは外見から真面目そうな子だと解ったし、義母から聞く悠子ちゃんの話や本人の戸惑う表情や素直な反応から、このコは信用の置ける子だと判断したのだ。思慮深い母親思いの女の子だ。嫌いになる要素が無くて疑問に思う位、俺は悠子ちゃんを気に入っていた。
だからこそ夏休みでも普段帰らない実家に戻ってきたのだ。
もっと仲良くなりたい、もっと自分を知って貰いたい。
それ以上に俺が悠子ちゃんの事を知りたかった。
俺が来たのは夏休みの半ば、ここに滞在できる期間は二週間しかなかった。俺は焦っていた。短期間で一気に距離を縮めようとしたものだから、結果的に悠子ちゃんを泣かせて怖がらせてしまった。でも最終的には以前より親密になれたと思っている。主に蝉のおかげで。
この二週間で俺は沢山のことを知った。
からいものが苦手で歯磨き粉ははちみつレモン味のものを使っていること。
お風呂の後は髪を解いていて水色のパジャマを愛用していること。
子供が好きで、テレビで赤ちゃんが出てくるとニコニコしていること。
カレンダーにその日の予定を書きいれてたり、料理中は鼻唄を歌っていたり、ソファの上では体育座りで本を読んだり、そういう悠子ちゃんの日常のひとつひとつをインプットする度に悦びを覚えつつ、それでもまだ足りないと訴える貪欲な欲求が胸の底に存在した。
あと数日すれば両親は帰ってくる。悠子ちゃんは俺の手を握った事実など無かったかのように一歩後ろに下がって俺と接するだろう。少なくとも親父は俺を警戒しているから、距離を取らせる筈だ。
俺と二人暮らしだった時は滅多に家に帰らなかった親父が、悠子ちゃんという娘が出来てからは仕事以外の時間は殆ど家にいるようだ。だから悠子ちゃんの話にはよく親父が登場する。奥さんの妃さんは自分の娘を可愛がってくれて嬉しいと純粋に思っているようだが、俺は違う。親父に悠子ちゃんを独り占めさせる気は毛頭ない。
親父が俺を遠ざけようと、悠子ちゃんと俺は家族だ。未成年でも、男女でも、同じ屋根の下で暮らすのが《普通》で一般的なのだ。誰にも文句は言わせない。
俺は夏休みが終わった後の事を密やかに画策しながら眠りについた。