11 妹の敗北
「どこ行くの」
声低っ!怖っ!
早起きして準備万端。玄関のドアノブに手をかけた正にその時、兄に呼び止められました。兄は笑顔のまま表情を崩さない。え、いや、そんな浮気を責める恋人(女)のようなこと言われても、スーパーに行くだけですが。それが何か?と言い返せないのが私のチキンたる所以である。
扉は目前、もうここまで来たら逃げるが勝ちだ。
「い、行ってきます!」
と扉を開けようとしたら、ぐいっと後ろに腕を引っ張られた。つま先が浮いて、踵を重心に体が後ろに傾く。
というか勝手に触らないって言ったよね!?
明らかに私の腕は兄に掴まれている。更にその強い力に私の細腕は悲鳴をあげていた。体育会系には見えないのに!パワフル過ぎる!絶対に腕に痣が出来る。とか考えている間にも私の体は後ろから床に激突しようとしていた。頭を打ったらどうしてくれる。入院費を請求したい。私は脳内で兄に恨み言を連ねながら、訪れる痛みを覚悟した。
「うっ」
まず耳に入ったのは兄の呻き声だった。……痛くない。お尻の下にはクッション、ではなく兄がいた。自分を犠牲に助けてくれたんですね、流石イケメンは違う。とりあえず助けてくれたお礼を思った瞬間、思い直す。
そもそも転んだ原因は兄なのだから私が律儀にありがとうと言うのもおかしい。けど人として何も言わずにはいられない状況だったので、
「だ、大丈夫ですか」
と心配してみた。私からすれば兄の自業自得。私のヒップドロップは天罰だと思って欲しい。
「俺は平気だけど、悠子ちゃんは大丈夫?痛いところはない?」
「ないです。私、重いですよね!どきますから、そ、その腰の手を離してもらえないでしょうか」
「重くはないよ。それよりこれから出掛けるんだよね?僕も付いていっていいかな?」
重い重くないの話じゃない!この後ろから抱き締められている至近距離が問題だということにこの人は気付かないのだろうか。指一本触らない的な事言ってなかったっけ?念書を書いて貰うか、録音しておけば良かった。
後悔を胸に秘めつつ、私は兄の申し出を断る努力をした。
「え……、行くのは近所のスーパーなんで一緒に行くほどの場所でもないですし」
「俺は悠子ちゃんとなら何処でもご一緒したいけど?それにこんな早朝に一人で出掛けるなんて心配だよ。昼間じゃ無理なのかな。今、どうしても必要な物?」
「そういう訳じゃないですけど」
「けど?」
「ほ、ほら早朝なら外も涼しいですし、レジも混まないんですよ!寝ている所、起こしてしまってすみません。部屋でゆっくりしててください」
それでも何かあったらどうすると心配するので、それは自己責任です!と強調した。もうここまで抵抗すれば私の言いたいことは伝わった筈だ。買い物くらい一人で行かせろという熱意が!と意気込んでいたのに反論が倍以上になって返ってきた。
「ねぇ、悠子ちゃんが変質者に襲われたらどうやって追い払うの?こんなに細い腕で何が出来るの?俺の手もどかせないのに。大声をあげても、防犯ブザーを鳴らしてもこの時間に歩いている人が少ないのは解りきってるよね。運良く人がいても助けてくれる保証もないんだよ。その人だって巻き込まれたくないんだから。俺はさっき妃さんの名前を出したけど、それは悠子ちゃんが納得する理由になればいいと思っただけで、俺個人としては妃さん以上に悠子ちゃんの事を心配しているつもりだよ。だって悠子ちゃんはこんなにも可愛いいんだから何が起こってもおかしくないでしょう」
えぇ~~~~~!?
家族の欲目だか何か知らないけれど、可愛いなんてお世辞でも言われたことありませんが!?美容院に行くのが嫌で伸びた髪を後ろに一本に結び、前髪の下にはポツンと出来た憎らしいニキビ、世間から遅れを取っているから話下手だし、自慢じゃないが私服にスカートが存在しない眼鏡必須の私に!かわいい?かわいそうの間違いじゃなくて?
私の疑いの眼差しが伝わったのか、兄が「おかしくないよね?」と追い打ちをかけてきた。もういっそ冗談であって欲しかったが、兄は本気で言っているようだ。それが堪らなく恥ずかしい。
「そう、ですね」
私は敗北した。
鏡の前に立つのも嫌な私にとって他人に自らの容姿を語るのは抵抗があり、言ったら言ったでそれを優しい兄にフォローされるのは目に見えていた。傷口に塩を塗られるのは御免だ。もう何も言うまい。
「解ってくれて良かった!すぐ着替えてくるから待ってて」
兄が部屋に消えたのを確認して私は一人反省会を始めた。玄関に座って地面を見つめる。
私は徘徊老人でもなければ、家から逃げ出すペットでもなく、迷子になる子供でもない!
何が兄をあそこまで不安にさせるのだろう?
監視しなければならない程の要注意人物か、わたしは。
料理中には背後から、食事中には正面から、皿洗い中には隣から、洗濯物を干している時は斜め後ろから、部屋から一歩外へ出たら最後、痛い程の視線が私を待っているのだ。これを監視と言わずしてなんと言う。私は囚人ではなかった筈だが。兄が来るまで快適だった我が家が今では檻のようだ。
兄が階段から降りてくる音がする。ベージュのパンツにⅤネックのシャツ、肩には紺色のカーディガン。プロデューサー巻きでもさらっと着こなす兄は雑誌から飛び出て来たモデルさんのようで私はその隣を歩くのかと思うと一気に気が重くなった。
早起きは三文の徳じゃなかったのか……?
行きつけスーパーに着くと私は黙って兄にカゴを渡した。もうね、解ってる。この人は低姿勢のようでごり押しが得意というロールキャベツ男子代表なのだ。私がカゴを持った所で難癖のような理由をつけて「俺が持つよ(にっこり)」とカゴを奪っていくような紳士(?)だということに。
「指一本触れない」と油断させて「可愛いお前が悪い」とかほざいてぶちゅっとかますような攻めと一緒だ。読み物としてなら萌えるが実際に似非ジェントルマンな振る舞いをされても嬉しくもなんともない。ようは私の意見などガン無視だからだ。
私はポケットからメモを取り出してカゴに食べ物や日用品を放り込んでいく。一人だったら買うつもりのなかったお米やトイレットペーパーもガンガン兄に渡す。これは決して意地悪ではない。
兄をサッカー台で待たせてレジに行くと見知った顔があった。私は彼が研修生だった頃から知っている後藤さんである。おそらく二十代前半。いくつかバイトを掛け持ちをしているようで午前中しか見掛けたことがない。眼鏡を掛けてていかにも文系ですという期待を裏切らない人で勝手に親近感を覚えている。
「こんな朝早くからめずらしいね」
「まぁ、たまにはいいかなと。この時間なら日焼け止めもいらないですし」
「あぁ、いいよねぇ。俺は日焼け止めの匂いって嫌いだからさ。必要最低限しかつけない」
「わざわざ落とすのも面倒臭いですしね」
喋りながらも、後藤さんは見事な手さばきで会計済用のカゴに商品を移していく。
「ねぇ、さっきからあの人に睨まれてる気がするんだけど……知り合い?」
びくびくと怯えた様子の後藤さんがちらりと横目を送った先は兄がいる方向だった。
外面のいい兄は初対面の人間にガンつけるような人ではないのだが、と思って兄を見るとうさんくさい笑顔を浮かべている。目があった後藤さんはぺこぺこ頭を下げてる。そんな舎弟でもなんでもないんだから頭下げんでも。
「一応、兄なんです」
「え!一応なの」
「兄のような何かなのです」
私が何となく後藤さんに放った言葉は的を得ていて、私は一人納得してしまった。最近、理想的な兄の綻びが見えてきたからだろう。最初の頃は「ありがとう」の一言で流せたものが流せなくなってきた。この買い物に関しても、さりげないスキンシップも謎の監視も。
兄も人間だ。完璧ではない。だが私はその兄が見せるようになった人間味が怖かった。自分の感情をコントロール出来ていないような不安定さが私をも不安にさせる。兄の言動も行動も一貫したものではなく簡単に覆されるもので、正直信用がないのだ。
だから私は早く両親が帰って来ることばかり願っている。
そうすれば私達は普通の家族に戻れるだろう。あの心穏やかな時間に。