10 兄の自嘲
キィと階段の軋む音が聞こえる。実家に帰って来ると眠りが浅くなるから少しの音でも目醒めてしまう。
悠子ちゃんが起きたのか。寝ている俺に気を使っているんだろう。普段より小さな足音だ。布団の中から時計を見れば朝の五時過ぎ。トイレなら階段を降りる必要はないし、朝食を作るにしては早い。
もしかして外へ……?二度寝しようにも妹の様子を確かめないと落ち着けず、俺は寝巻きのまま部屋を出た。
階段を下りた先に見えたのは、今まさに家を出ていこうとしている妹の後ろ姿だった。間に合って良かった。
「どこ行くの」
声を掛けるとピシッと妹が固まった。その手にはオレンジ色の買い物用と思わしき袋が握られている。
「い、行ってきます!」
俺の問いに答えず、扉を開けようとしたので慌てて妹の腕を掴む。妹の腕は思ったより、細かった。力が入り過ぎたせいか、妹の重心が下がり俺の方へ倒れ込んできた。このままでは玄関の段差で転んでしまう。俺は咄嗟に空いている片手で妹の腰に手を回し、妹を引き寄せた。
「うっ」
腹部と臀部同時に痛みが襲った。お尻には固い床、お腹の上には妹が乗っている。ふわりとシャンプーの匂いがする髪が鼻を掠め、ぎゅっと妹の腰に回した手に力が入った。
「だ、大丈夫ですか」
「俺は平気だけど、悠子ちゃんは大丈夫?痛いところはない?」
「ないです。私、重いですよね!どきますから、そ、その腰の手を離してもらえないでしょうか」
「重くはないよ。それよりこれから出掛けるんだよね?僕も付いていっていいかな?」
「え……、行くのは近所のスーパーなんで一緒に行くほどの場所でもないですし」
「俺は悠子ちゃんとなら何処でもご一緒したいけど?それにこんな早朝に一人で出掛けるなんて心配だよ。昼間じゃ無理なのかな。今、どうしても必要な物?」
「そういう訳じゃないですけど」
妹の目が泳いでいる。言い訳を探しているんだろう。
解りやすい事この上ない。
「けど?」
「ほ、ほら早朝なら外も涼しいですし、レジも混まないんですよ!寝ている所、起こしてしまってすみません。部屋でゆっくりしててください」
こうやって拒絶される度に俺が傷ついてないと思ってるんだろうか。
きっとこのコは解ってない。俺にとっての悠子ちゃんは《妹》だけど、悠子ちゃんにとっての俺はまだ兄ではなく《他人》のままだ。これ以上嫌われたくない俺は名残惜しみながら彼女の体から手を離した。
「お願いだから一緒に行かせてくれない?悠子ちゃんに何かあったら妃さんに顔向け出来ないよ」
「大丈夫です!自己責任です!」
だからその責任を悠子ちゃんが取らざるを得ない状況にしたくないから言っているのだ。強姦されて泣き寝入りなんて最悪の事態は避けたい。この思いが伝わらないのが途轍もなくもどかしかった。
「ねぇ、悠子ちゃんが変質者に襲われたらどうやって追い払うの?こんなに細い腕で何が出来るの?俺の手もどかせないのに。大声をあげても、防犯ブザーを鳴らしてもこの時間に歩いている人が少ないのは解りきってるよね。運良く人がいても助けてくれる保証もないんだよ。その人だって巻き込まれたくないんだから。俺はさっき妃さんの名前を出したけど、それは悠子ちゃんが納得する理由になればいいと思っただけで、俺個人としては妃さん以上に悠子ちゃんの事を心配しているつもりだよ。だって悠子ちゃんはこんなにも可愛いいんだから何が起こってもおかしくないでしょう?」
「……」
無言でも正直な悠子ちゃんの目が『何言ってるんだ、この人は。私が可愛いとかあり得ない』と語っていた。
妹は自分を知らない。艶やかな髪も感情豊かな瞳も綺麗な肌も、小さな手も年齢の割にふくよかな胸も美人ではなくても充分可愛い内に入る。普段地味な服装と髪型をしているからぱっと見では解らないだけだ。
「おかしくないよね?」
俺が可愛いと言っただけでそっぽ向いて顔を赤くしてしまうような悠子ちゃんが可愛くない筈がない。真っ赤な彼女の顔を見ているだけで自然と笑みが溢れた。
「そう、ですね」
「解ってくれて良かった!すぐ着替えてくるから待ってて」
朝から悠子ちゃんと出掛けられるなんて幸先がいい。俺は軽い足取りで部屋へ戻って行った。
歩いて二十分のスーパーは近所と言えるのだろうか、疑問に思いつつ目的地に辿りついた。ポケットからメモを取り出した妹は迷わず俺の持つカゴの中に食材を入れて行く。女性の買い物は時間が掛かるイメージがあったから、悠子ちゃんの躊躇いのない買い物は見てて気持ちがいい。妹の新しい面を見る度にひとつずつ好きな所が増えていく。それが最近楽しい。
最終的にカゴの中はいっぱいになった。これを悠子ちゃんが一人で持って帰るつもりだったのかと思うと俺が付いてきて本当に良かったと思える。持っても五キロのお米ひとつで限界だろう。
レジ台にカゴを置くと「サッカー台で待ってて下さい」と言われたので手持無沙汰な俺は会計中の悠子ちゃんを眺める。レジを打つ若い男と何やら喋っている。後ろに他の客も並んでいないのでのんびり会計をしているようだ。
何だ、あの男は。仕事をしろよ、仕事を。
また妹が楽しげに話しているものだから余計に気に入らない。
ちら、と妹が俺の存在を確認したので俺はにっこりと笑う。
レジの男は一瞬ギョッとした顔をしてから俺に頭を下げる。
どういう意味で頭を下げたんだか。
会計を終えた妹に尋問する自分が簡単に予想出来て自嘲的な薄笑いが零れた。
爽やかに雁字搦め。