我が元に
大粒の雨が降り続ける中,桐生咲夜はまだ茫然と座り込んでいた。涙はもう,だいぶ前に枯れていた。だが未だに深い自己嫌悪に襲われたままだ。殺人を止められなかった自己嫌悪とは違う,どん底の自己嫌悪だ。
私の一部が人を殺めていた
全身を獣に牙で深くえぐられるような思いに苦しむ。そして,果てのないような暗闇に沈んでしまう。どこまでも暗く,暗く,暗く……。
そこに,一条の光が差し込まれた。
『咲夜。』
咲夜はゆっくりと声の主を見る。声の主はランプを2人の間に置く。お互いの顔に,ぼんやりと明かりが照った。
『リクト…!』
今まで気が抜けていて身体に力が入らなかったのだが,咲夜は自分でも驚くほど早く立ち上がった。
『リクト,マイトブルーンは――』
リクト・フォルクスは咲夜が言い終わる前に,強く抱き締めた。離すまいとして,想いを込めて。
『あとで話してくれればいい。今はとりあえず落ち着け。俺はお前のそんな表情を見たくない。』
相変わらずな命令口調。だが,深い優しさが込められていた。咲夜はリクトのことを散々言っていたのに,甘え,すがっていた。
徐々に雨はやみ,次第に日が昇り始めた。木々の葉についた雨の露が煌めく。夜明けだ。
『咲夜,大丈夫か?』
この問い掛けに返ってきたのは,規則的な寝息であった。
(どおりで,さっきからやけにすがってくるわけだ。)
抱きつきながら眠ってしまった咲夜を,リクトは横抱きにする。そして,テントに戻った。
テントに戻ると,スパン・ルジルフとウェルナ・アルキーがどうにかしてたき火を焚いていた。
『ご無事でなによりです。咲夜様,いかがなされたのでしょうか?』
『ひどくショックを受けたらしい。今は眠っているだけだ。ウェルナ,着替えさせてやれ。』
『はい。』
リクトは咲夜をテントに入れ,それからたき火で温まる。雨でびしょぬれになった服が,徐々に乾いていく。
『リクト様はお着替えなさらなくてよろしいのですか?御身体に差し障ると良くないですよ。』
『俺は大丈夫だ。朝食を摂ったら即出発する。咲夜が目を覚まさなくても。』
スパンはうなずき,手馴れたように朝食(パン,干した牛肉,リンゴ)を用意した。
朝食も済み,テントを片付けて出発となった。咲夜はまだ目を覚ましていなかったのでスパンに同乗させ,咲夜が選んだ馬・フェイにはついてくるようにした。雨でぬかるんだ地に足をとられないよう,注意深く進む。
昼過ぎ。ムシャルゲ国に到着した。咲夜がまだ目を覚ましていなかったので,リクトだけが謁見し,3人は客間で待機することにした。
謁見の間でムシャルゲ国の女王に拝謁したリクト。女王は卑しい雰囲気が無く,人を安心させるようなオーラが出ている人であった。
『ムシャルゲ国にようこそ。どうぞ気楽になさってくださいませ。』
まだ20代と若い女王は,にこやかに話し掛けた。モーデ国といい,ラテンカ国といい。腹黒い人に会ってきたから,とても澄んだ気持ちになる。
『こちらにいらしたということは,まだマイトブルーンを捕まえていないのでしょう。』
『お察しの通りです,あと一歩のところまで詰め寄ってはいるのですが……。』
『神出鬼没と云われている人を捕まえるのは至難ですわ。徐々に追い詰めればよいでしょう。』
心中を察して,穏やかに優しく声をかける女王。
『ところで,‘対なる御子’たるお方をお呼びになったのかしら?』
リクトは目を伏せる,咲夜のあの状態が心配なのだ。
『呼びました。ただ,何か強いショックを受けたようで,今は眠っております。』
『薬師は必要かしら?』
『いえ,きっと大丈夫だと思います。』
『そう。何か必要なものがあれば,なんなりと申し付けなさい。出来る限りお手伝いしましょう。まずは少し,お休み下さい。』
『はい。お心遣い,痛み入ります。』
リクトは深々と頭を下げ,退室した。
客間では。咲夜はベッドで眠り,2人は紅茶を飲みつつリクトを待っていた。
『咲夜様,なかなか目を覚ましませんね。大丈夫なのでしょうか?』
『心配性ですね,スパン様は。咲夜はあれほどのテニスの腕前を持っています。精神力は人並み以上でしょう。大丈夫ですよ。』
ウェルナは強く返す。それだけ咲夜を信じているのだ。だが,イマイチ安心しきれないスパン。そこにリクトが入室してきた。
『お疲れ様です。紅茶を御飲みになりますか?』
『ああ,くれ。』
スパンが淹れた紅茶の湯気を見つつ,この先を考えるリクト。マイトブルーンの囮として咲夜とリクトがこの国にいる以上,マイトブルーンが出没するかもしれない。そのことが頭の中によぎる。
『スパン,ウェルナ。2人別行動で国中を歩け。マイトブルーンらしき人物がいるかどうか見て来い。夕方には戻ること。いいな。』
『かしこまりました。』
2人はリクトの命令に従って退室した。リクトは再び考えにふける。
(マイトブルーンは――咲夜はそのあとなにを言おうとしたのだろうか。)
リクトは咲夜が眠っているベッドのふちに座る。
『リクト?』
か細い声で,咲夜は彼を呼んだ。
『ごめん。起こしたか?』
『ううん。リクトが来た感じがしたから…。』
ゆっくり起き上がり,リクトを見つめる。その目はうつろであった。生き生きとした瞳ではない。
『ここ,どこ?』
『ムシャルゲ国の王城だ。ずっと眠っていたんだよ,咲夜は。気分はどうだ?落ち着いたか?』
『少しは。』
ベッドから出て,リクトの横に座る。2人の間に沈黙が流れる。だがそれを,リクトはなるべく優しい声で壊した。
『夜明け前,テントから抜け出してから何があったのか話してくれるか?』
咲夜は少しビクッとしたが,両手をぎゅっと握ってうなずいた。それから,夜明け前の出来事を語り出した。何かに誘われてテントを抜け出したこと。歩いているうちに聞き覚えのある啜り泣く声が聞こえてきたこと。その啜り泣き声の主はマイトブルーンであったこと。そして,マイトブルーンの正体は咲夜の寂しい感情の化身であること。それら全てを,とうとうと語った。
『寂しい感情の化身か。奴が咲夜の一部というのは納得出来るな。髪型を変えたばかりなのに同じだったのも,うなずける。』
リクトは咲夜の肩を抱いて寄せ,そっと頭を撫でた。
『辛かっただろ。今はひとまず落ち着いて忘れろ。この先のことは,また夜にでも考えるから。』
とても優しい声。枯れたはずの涙が再び溢れ出した。
夕方,スパンとウェルナが帰ってきた。リクトは咲夜が語ったことを伝え,まずは3人で話し合った。
『感情の化身なんて。実体として存在しそうにもないことですが……。』
『人の感情は計り知れない。何をしでかすか分からないものだ。強い感情が実体化してもおかしくないだろう。』
『咲夜の感情は起伏が激しいから,そう言えますね。それでリクト様,この先はいかがなさるおつもりですか?』
リクトはウェルナに頭を振って見せ,ため息をついた。
『相手は咲夜の感情の1つだ。矢で射ることはおろか,何一つ出来ないだろう。全ては咲夜次第だ。』
2人はうなだれる。もう何も手を貸すことは出来ない。
夕食が済んだあと,今度は4人で話し合った。話し合うといっても、3人で話し合ったことを咲夜に伝える程度であるが。
『全て私次第。』
自分の口から言ったことなのにも関わらず,重くのしかかった感じがした。
『しかし,奴が出来るほどのことがあったのか?』
『あったよ。両親が死んだとき,凄く寂しくて。しかも,誰も頼りに出来なかったから余計に寂しくて。だったら寂しい感情なんてどこかに行けばいいって思っていたの。次第に寂しさは感じなくなったわ。どこかに置いてきたみたいに。ううん。みたいにじゃない。実際に置いてきたのよ。だからマイトブルーンが出来てしまったのよね。私が9人も殺して…!!』
手で顔を覆う。実際に自分で手を下したわけではない。それでも,避けられない事実であることには変わらない。自分が恐ろしくなる。
『死んだ人はどうやっても生き返らない。悔いているのなら奴を止め,死んだ人の分も生き抜くことだ。それはそうと,事の発端は両親の死か。俺も咲夜のようになりうる可能性もあったんだな。』
リクト自身にもマイトブルーンのような人を実体化させてしまう場合もあったのだ。それを思って,少し身震いする。だが,すぐに考えをめぐらせた。そしてすぐに,はじかれたように立ち上がる。3人は驚く。
『い,いかがなさいました?』
『少し待て。』
自分の荷から犠牲者名簿を出して,目を通す。次第に苦々しい表情になる。
『迂闊だった。もっと早く気付くべきだったよ。』
リクトは3人にも犠牲者名簿を見せ,指で示す。
『モーデ国王以外,犠牲者は皆肉親を亡くしている。奴は,マイトブルーンは咲夜と同じように寂しさに暮れる人を,寂しさから開放しようとしたのかもしれない…!!』
リクトの推論に、3人は何も言えなかった。それがまさに,事実のように感じるのだ。
『ただ,モーデ国王がどうして殺されたかが分かりませんよね。肉親を亡くしたわけではないし……。』
『嫌だったから。』
咲夜がぽつりと言った。3人の視線が咲夜に向けられる。
『だって,あんな国王に連れて行かれるのは汚らわしくて。怖くて。だから,それを読み取ったマイトブルーンが手を下したのよ。きっと,そうだと思う。』
咲夜はあの時,犯されたくない思いでいた。だから咲夜の一部であるマイトブルーン自身も犯されたくなかったのだろう。‘汚れたらたまらない’と言っていたのだから。
『とにかく。』
リクトは咳払いをして,話を改める。
『モーデ国王はそういうこととして,他の犠牲者8名は寂しさから開放されたんだな。開放という名の‘死’か。あ…。』
リクトは熱を入れて語ったことを後悔した。咲夜がしょげているのだ。
『ごめん。走り過ぎた。』
『ううん。私も,リクトの言う通りのような気がするから。』
言ってから再びうつむく。だが,すぐに顔を上げた。何かを感じている表情を浮かべている。
『来る…!!』
咲夜はベランダに出る。満月と無数の星が見下ろす中,待った。
『マイトブルーンが来るのか?』
リクトの問い掛けに,強くうなずく。そして,心の中で‘戻っておいで’と強く語り掛けた。
強い,強い語りかけ。相手の心に響くような。相手の心を引き付けて離さないような。
それは,届けられた。マイトブルーンがストンッと軽い音をたててベランダに降り立った。その姿はうっすらと透けている。それは,少しずつ咲夜に寂しい感情が戻ってきている証拠であった。
『やっと,どういうことか分かったみたいね。』
『いいえ。推測でしかないわ。マイトブルーン,私の寂しい感情,どうして人を殺したの?』
『咲夜のためよ。』
毅然として答えるマイトブルーン。つい逆上しそうになったが,咲夜はくいとどまった。
『どうして私のためになるの?』
『モーデ国王を殺したのは,犯されるのが嫌だからに決まっているでしょ。私はあなたの一部。あなたが犯されれば私も犯されてしまう。だから奴を殺した。それだけは私自身のためと言えるわね。他の人は全て,咲夜のためよ。寂しさなんていらないと言っていたでしょう。だから咲夜と同じように寂しがっている人を殺したのよ。そうすれば,寂しさは無くなるもの。』
リクトの推論は当たっていた。咲夜はうなだれる。
両親を亡くして寂しく,独りで生活して寂しく……。
その結果として生まれたマイトブルーンの存在と行為。
全て自分の責。止めなくてはならない。
『寂しさが無くなるわけがない。殺された人の親しい人が寂しくなるもの。あなたの行為は堂々巡りよ。マイトブルーン。いえ。私の寂しい感情。もう,私の中に戻って。』
『捨てたくせに何を言うのよ!』
透ける姿であっても,強く反抗する。それだけ咲夜は強く,寂しさを感じていたのだ。
『寂しさが無くなればいいと散々思っていたわ。でも,人間には必要なものよ。喜怒哀楽というでしょ。‘哀’には寂しさも含まれているの。あなたも大切な一部よ。捨てたことは,本当にごめんなさい。戻ってきて。』
『戻ったら完全に寂しさを感じることになるわよ。辛いのは承知でしょ。』
咲夜の胸に,寂しさの辛さが蘇る。でも,逃げてばかりではダメなのだ。咲夜は強くなろうと思った。心を強く。寂しくても,それを乗り越えられるような強さを持とうと。
『辛いわよ。分かっているわ,それは十分に。でも,人が死ぬのはもっと嫌なの。たとえ知らない人でも。だからあなたの行為は許せない。それに,あなたはもともと私の一部。私の中に戻ってくるべきなのよ。戻ってきて。』
咲夜は自分の一部に手を差し出す。
これが咲夜の答えであった。自分でしか解決出来ないことと言われ,短い時間の中で考え抜いた答えだ。
それには,咲夜の生命に対する思いが含まれていた。
マイトブルーンは黙って咲夜を見つめた。咲夜は目を離さずに見つめ返す。それが約1分間続いた。それは,まるで折伏のようで。咲夜からマイトブルーンへの,自分自身への折伏。そしてついに。マイトブルーンは咲夜の手をとった。
『ただいま。』
『お帰りなさい。』
挨拶が終わると,マイトブルーンはきらきらと光る粉となって消えた。
無事,約2ヶ月前に捨ててしまった一部が帰ってきた。咲夜はよほどのことに力尽き,倒れてしまった。