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決意

桐生(きりゅう)咲夜(さくや)はぼんやりと眼を開けた。視界にはうっすらと,草花が映った。のどかな野原,という印象を受ける。

(ここ,どこ?)

目をしきりにこすり,起き上がって辺りを見回す。見えるものは,今自分が倒れていた野原,湖,湖の奥にお城らしきもの。それくらいである。全く知らない地だ。

綾子(あやこ)?』

一緒にいた親友の片瀬(かたせ)綾子の姿は無い。どうすれば良いのか分からず,そのまま座り続けてしまう咲夜。

(着ているのは浴衣のまま。まるで場所だけが変わったみたい。)

途方に暮れるばかり。時は一刻一刻絶えず刻まれていく。なにか行動に移さなければならないと思うが,あまりの状況の変化に動けない咲夜。

 そのとき,馬が走ってくる音が響いてきた。状況が変化して初めてなにか,あるいは誰かに会うのだろう。咲夜の心には不安しかない。身を隠す場所を探そうと目を走らせるが,あいにく今いる所は見晴らしのよい野原の真ん中。見るだけ無駄である。

(変な人が来たらどうしよう?)

不安で心がざわめく。

ようやく馬が見えるほど近付いてきた。全部で5頭。全ての馬に剛健そうな男性がまたがっている。その中でも1番気品の高そうな人が前へ出て,馬から下りた。咲夜の警戒心は高まる。

『初めまして。(わたくし)は貴女の‘対なる御子’に仕える,スパン・ルジルフと申します。桐生咲夜様ですね?』

優しい物腰。温かな笑み。亜麻色の髪。グリーンの瞳。貴公子という言葉が似合いそうな人である。そんな絵に描いたような人に問われても,咲夜の頭には疑問符が浮かぶばかりだ。

(‘対なる御子’?)

『私の声は聞こえますか?』

『聞こえるけど……。』

咲夜は一応答えたが,頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。知らない所,知らない人たち。状況を受け入れられない。

『混乱していらっしゃるのですか?』

この問いに咲夜は泣きそうな,でも強い視線を向けた。

『混乱しているに決まっているでしょ!川原に行こうとしたら,こんな所に来ているし。綾子はいないし。一体なんなのよ!?』

とりあえず気持ちをスパンにぶつける。スパンとしては困った状況だ。だが,それでも微笑んだ。

『このことについては必ずご説明致します。ですが,今はひとまずあのお城へ同行して頂けますか?』

全くわけの分からない状況。どう見ても自分の方が年下であるのに,尊敬語が遣われること。今まで経験したことの無い状況に,咲夜の頭は限界を越えてしまった。

 咲夜が目を覚ましたのは,夜だった。しかも,場所が変わっている。野原ではなく,ふかふかなベッドに,浴衣のまま横になっていたのだ。

『お気分はいかがですか?』

突然の声にハッとして身体を強張らせる。それと同時に声の主を見る。声の主は,野原で声を掛けてきたスパンであった。

『起きられますか?』

『はい。』

咲夜は未だに混乱したままであったが,とりあえず身体を起こした。薄い青のソファーが目に入る。同時にそこに座っていた人も。

(あれ?夢に出てきた人に似ているような。)

『咲夜様,どうぞこちらに。』

スパンが手を差し出す。咲夜はその手を借りでベッドから降りた。

『やっと起きたようだな。こっちへ。』

『はい。』

スパンはソファーに座っている人に従って,咲夜をソファーまで連れてきた。

『スパンはもういい。ご苦労。』

『失礼させて頂きます。』

スパンが退室すると,部屋は咲夜とソファーに座っている人の2人きりとなってしまった。

『座れ。』

拒否を許さないような声。咲夜は遠慮がちに座る。そこで,改めて相手を確認する。思った通り,夢の人と重なった。

『夢と同じ人。』

『そうだよ。』

咲夜の前に座っている人は,まさに夢に出てきた人であった。実態として初めて見ることにも驚くが,なにより自分とそっくりなことに驚愕する。

『俺の名前はリクト・フォルクス。当然,お前と同じ17歳。』

『なぜ当然と言い切れるの?』

恐る恐る聞く咲夜に,リクトはクスッと笑う。

『今から説明しよう。ひと言も聞き漏らすな。それから途中で口をはさむな。質問は全てあとだ。いいな?』

リクトの傲慢な態度に嫌気がさすが,咲夜はおとなしく従った。

リクトの説明はこのようなものであった。この世界は主に自然であるが,幾つかの国が点在する。ちなみに今いる国はホークリアという。この世界の交通手段は馬か自らの足のみ。(と言っても,旅をする人はほんの一握り。)そして,この世界にいる人は全員咲夜が生まれた地・地球に必ず同じ顔の人がいるのだ。顔だけでなく,年齢も同じである。いわば,双子が地球とこの世界に分かれて生きているようなものだ。

『対になっているみたいだから,同じ顔をもつあっちの人のことを‘対なる御子’と云うんだ。スパンに言われなかったか?‘対なる御子’と。』

『言われた。リクトと私が双子みたいになっているってことでしょ。』

リクトはニヤッと笑む。

『物分かりがいいな。ま,そう言うことだ。だから当然と言い切ったんだよ。』

『それはともかく,なんで私はこっちの世界に来たの?それともこれは夢?』

『現実さ。お前がこっちに来たのには訳がある,助けてもらいたくて,俺が呼んだんだ。』

『呼んだ?まさか夢に出てきて?』

リクトは咲夜にうなずいてみせる。咲夜の頭は更に混乱する。だが,リクトはかまわず話を先に進めた。要約すれば,正体不明の人物が殺戮を繰り返している。それを止める為に力を貸して欲しい,ということであった。

『なんで私が?関係ないことでしょ。』

『いや,きっと関係はある。』

憤る咲夜に対して,リクトは冷静に語り出した。地球の人がこの世界に来てしまうのは‘対なる御子’が呼ぶからでもある。だがもうひとつ,地球の人の問題がこの世界に影響しているからでもある,と。

『私の問題がこっちに影響している?そんなわけ…』


ドクンッ


咲夜の鼓動がはねる。とっさに胸に手を当てる,鼓動が速い。まるで,訴えているかのように。

(一体なに?私の問題がこっち影響していると言いたいの?)

そのとき,咲夜の脳裏にある人が出てきた。頭から足先まですっぽりとマントに覆われていた人である。

(あの人が?)

『思い当たる節はあるようだな。で,どうだ?』

『ど,どうだって?』

『俺に手を貸すか?』

リクトは手を差し出す。咲夜は大いに困った。自分に関係は無い,と言い切ることも出来る。でも,なぜか脳裏に出てきた人が気になる。

『私なんかが役に立つと思う?』

『少々不安だが,俺の呼びかけて応えて来たんだ。何かの役には立つはずだ。』

咲夜にはもう,訳が分からなくなりつつあった。出来るのならば早々とここから走り去りたい,という感じである。だが,咲夜はそう思いつつも彼の手をとってしまった。


 次の日,咲夜は後悔していた。リクトに手を貸すことを。正体不明の人物の殺戮を止めるのは,恐ろしい。

『バカな約束をしちゃったなぁ。』

リクトにあてがわれた部屋のベッドでゴロゴロと横になりつつそうつぶやいた。そのとき,ドアがノックされた。

『ど,どうぞ。』

咲夜は慌てて起き上がり,立って衣服を整えてドアに歩み寄った。

『失礼致します。』

礼儀正しく入室してきたのは,スパンであった。お互いに挨拶をする。

『お着替えしなくてよろしいのですか?』

スパンが挨拶後にこう言ったのは,咲夜は昨日と同じ紺色の浴衣を着ていたからだ。

『ここのクローゼットにある服を着て良いのか分からなかったので。』

『こちらの服は全て,咲夜様がお召しになってよろしいのですよ。サイズは…失礼,身長はおいくつですか?』

『164センチです。』

『それなら丁度合うサイズの物ですから。お好きなものをどうぞ。』

お好きなものをどうぞと言われても,困るのは咲夜である。突然この世界に来て,自分と

そっくりな人に会い,その人に手を貸すこととなり。そして今はとても丁寧な口調で接待を受けている。今までの生活に無いものばかりだ。

『衣服類は全てこのクローゼットに入っております。化粧品関係の物は鏡台の引き出しに。もしなにか足りない物がございましたら,なんなりとお申し付け下さい。』

『はい。』

『それはそうと,お着替えなさいますか?』

スパンはとても気を遣ってくれる。咲夜は少し甘えてしまおうと思った。

『ええ,着替えます。コレ,動きにくいので。でもこんなにあると迷いますね。スパンさん,あの…選んで頂けますか?』

スパンは一瞬驚いた表情を見せたが,すぐに笑顔になり,‘分かりました’と言うようにうなずいて見せてから服を選び始めた。

『丁寧な口調にしなくてよろしいですよ。それから,私のことはスパンとお呼び下さい。』

『でも,あなたは年上のようだし。』

彼は選んだ服を咲夜に手渡してニッコリと微笑んだ。

『歳は確かに4つ上です。しかしあなたには親しく話し掛けて欲しいのです。』

咲夜はなんだか温かいものに包まれたような気持ちになった。スパンに惹かれるような。

『分かったわ,スパン。』

『ありがとうございます。では私は廊下でお待ちしておりますので,どうぞお着替えして下さい。洗濯物はあのカゴに入れて頂ければよろしいですから。』

咲夜はスパンが退室すると急いで着替えた。スパンが選んだ服は,青と白のチェックのワンピースであった。誰にでも合いそうな妥当な服のようだが,咲夜はやけに嬉しかった。

咲夜は着替えるとすぐにドアを開けてスパンを入れた。

『お似合いですよ。』

『ありがとう。』

咲夜はやけにドキドキしながら答えた。

『朝食はいかがなさいますか?リクト様とご一緒に召し上がりますか?』

『リクトは私と一緒でもかまわないのかな?』

スパンは苦笑いをする。‘リクト様は好んで初対面の人と朝食をともにする気は無いようでございます’と語っているようだ。

『いいわ,ここで朝食をとるから。この部屋からの眺めはとってもいいし。』

『では,こちらに朝食をお持ち致します。』

スパンが持ってきた朝食は,ホテルのブレックファーストのようであった。スープ,サラダ,カリカリベーコンにスクランブルエッグ,クロワッサン,フルーツヨーグルトがけ,最後にはコーヒーが出てきた。部屋から眺める湖と森,野原といった綺麗な景色を見つつの食事のため,咲夜の気は少し晴れた。

『ごちそうさま。美味しかったわ。』

『それは良かったです。』

『ところで。あの,リクトってどんな人なの?』

スパンは咲夜にじっと見られて問われ,少し戸惑う。だが,すぐ持ち前の笑顔を向ける。

『じきに行動を供にすることになります。嫌でもリクト様を知ることになりますよ。ですが,これだけは申し上げておきましょう。リクト様はこの国・ホークリアの王家のおひとりです。リクト様は王子様なのです。』

リクト=王子という事実にはかなり驚くものであった。ワゴンに乗せようとしたお皿を落としそうになってしまうくらいに。リクトが王子様のようには全く見えない,ということで驚いたのではない。自分とそっくりな人が,そのような高位であることに驚いたのだ。

『私はただの女子高生なのに。』

『地球の身分と同じ身分でいる,ということはあまりありませんよ。世の仕組みが違うのですから。しかしまぁ,リクト様が王子というのは納得出来るのでは?端麗でスッキリとしたお顔立ちで。身長は179センチですらっとしていますし,身体も太りすぎず細すぎず。外見は全て王子様という感じでしょう。内面もしっかりとしていますよ。』

咲夜は少し,同意することをためらった。リクトの外見は自分とそっくりなのである。(身長は別として)うなずくと,自分の外見に自信過剰になってしまうと思ったからだ。それに気付いたのか,スパンは優しく微笑んだ。

『咲夜様もリクト様と同じくらいお綺麗ですよ。訳を知らない人が貴女を見たら,王女様だと勘違いなさるでしょう。』

こう大っぴらに褒められるとなにも返せず,ただ照れてうつむく咲夜。

『そう,今しがたリクト様のことを王子と申し上げました。国王のことも申しましょう。国王はリクト様の兄上様でございます。2ヶ月前に両親が崩御なされて,兄上様が即位なさったのです。』

『リクトも両親がいないの。私と同じね。』

『咲夜様もですか。お悔やみ申し上げます。』

『あ,そんな気にしないで。私はすっかり立ち直っているし。』

『お強いですね。』

スパンは悲しいような,でも柔らかな微笑みを咲夜に向けた。

『両親を亡くされても,きちんと歩んでこられた貴女はお強い方です。リクト様はようやく元に戻られたのですから。周囲の者が支えに支えて。』

咲夜は少し,リクトを羨ましく感じた。辛いときに支えがいると安心する。しかし,咲夜には支えとなる人がいなかったのだ。だから,独りで強くいなくてはならなかったのである。その点,リクトには支えがいた。羨ましい以外になにもない。

『おっと,急がないと。朝食後に貴女をお連れするように言われていたので。』

スパンは朝食のお皿をワゴンに乗せ,廊下に出しておき(廊下に出しておけば,食事関係の人が片付けてくれるのだ),咲夜をつれてリクトの執務室を訪れた。ノックをし,中からの返事を待つ。数秒たってベルの音が聞こえた。これが入室許可の音。

『失礼致します。』

リクトはまたしてもソファーに座っていた。

『御連れ致しました。』

『よし,前に座れ。』

スパンは咲夜にうなずいて見せ,リクトの前のソファーに座るように促した。咲夜は昨日より更に緊張して座った。リクトが王子である,と聞いたからかもしれない。だが,それを打ち消すようにニッコリと微笑んだ。落ち込んだり,緊張して動けなかったり,引っ込み思案ではなにも始まらない。自分を出していこうと思ったのだ。

『おはよう,リクト。』

リクトは目を見開いて驚いた。隣に立っているスパンもだ。まさか,咲夜から声をかけるとは思っていなかったからであろう。

『あ,ああ。』

リクトは曖昧にうなずく,咲夜に反応しきれないのだ。だが,咲夜は更に声を掛けた。普通の女子高生が,王子に対してこのような態度を取ったのである。

『ちょっと,挨拶もろくに出来ないの?人と話すとき,挨拶は欠かせないものよ。』

この強気な態度に,スパンはハラハラしていた。リクトに対してこのような態度をとることは,不敬に値するからだ。また,リクトの雷が落ちるかと思ったからだ。だが,意外にもリクトは笑い出した。

『面白い奴だな。こんな人は初めてだよ。』

『初めてなのは当たり前でしょ。私はこの世界に一昨日までいなかったんだから。そう,名前をまだ言ってなかったわね。桐生咲夜,17歳よ。では改めて。おはよう,リクト。』

間に入れられないように早口で言って,リクトの反応を待つ咲夜。

『おはよう。』

リクトは素直に挨拶をした。咲夜にとってはホッとする瞬間であった。自分を出していこうと思っていても,このような態度は逆鱗に触れるのではとびくついていたのだ。

『さて,では話に入る。お前について知らないことだらけだから質問をする。』

『かまわないけど,私もリクトについてな〜んにも知らないわ。』

『俺のことはどうでも良い。それにお前について知るのは,この先のことでの参考だ。いちいち口に出すな。』

ぴしゃりと咲夜を押さえつける。咲夜には面白くない状況だ。まして,自分にそっくりな人に言われるので,自分で自分を抑えつけているように感じるからだ。

『スポーツはしているか?』

『8歳からずっとテニスをしているわ。あとは,8歳から12歳までバスケットボールもしていた。』

『ちなみに50m走は何秒?』

『んー,この春計ったのでは,8秒ジャストね。』

リクトは次々に質問をし,スパンは聞き漏らさぬよう書き留めていった。質問の内容は体力的なこと,知識的なこと,芸術的なことであった。

『まあまあだな。』

質問を全て終えたあとのリクトの感想だ。

『午後から乗馬の練習をしてもらう。あと,体力作りのためにテニスだな。救護関係はなんとかなるか。とりあえず,乗馬とテニスだ。あ,それからピアノが得意だと言ったな。試しに弾いてみろ。』

リクトは執務室の隅に置いてあるピアノを指して言った。咲夜はいきなりのことに戸惑ったが,大好きなピアノには逆らえない。

『激しい曲と優雅な曲,どっちが好み?』

『今は激しい曲だな。』

『そう。じゃあ,ベートーヴェン作曲のテンペスト・第3楽章ね』

久々にピアノに触れ,そして久々に人前で引くので緊張は高まっていた。だが,聞いてくれる人がいることに嬉しく思い,素直に奏でた。

『得意と言うだけはあるな。かなり上手だ。』

『ありがとう。』

『今夜弾いてみるか?』

リクトの突然の誘い。

『今夜音楽パーティーがあるんだ。パーティーと言っても,ホークリアの音楽家たちが1曲ずつバックミュージックを演奏するパーティーだがな。どうだ?』

『演奏していいの?』

『俺が主催するパーティーだ。かまわない。』

『なら弾きたいわ。でも,少し練習したいんだけど。』

リクトは顔をしかめたが,うなずいてくれた。

『今日の午後にでも練習をしろ。話を戻すが,乗馬とテニスはスパンに習え。それからスパンはしばらく俺ではなく,彼女につけ。スパンに任せる。』

『かしこまりました。』

『お前は分からないことがあれば全てスパンに聞け。』

『はぁい。』

 こうして咲夜にはスパンがつくことになった。人がつくのは嫌だとしても,知らない世界を独りで彷徨うよりははるかにマシである。それに話しやすいスパンであれば,少しは気が安らぐ。

『昼食まではここ・王城内をご案内致します。午後は悠々とピアノの練習をなさって下さい。ではまず,庭園からどうぞ。』

スパンの案内での王城めぐりは実に楽しいものであった。そこであったエピソードを話してくれたり,王家に仕える人たちと話したりすることが出来たからだ。昼食もスパンと綺麗な景色を見て,美味しく食せた。

『お分かりでしょうが,パーティーではドレスでお願い致します。きっと,リクト様が御選びになるでしょうが。』

『リクトが?そんな感じはしないけど。』

『私もどうかは分かりません。ただ,リクト様は貴女がいらしたことに御喜びのようでしたから。それでは,私は失礼致しますね。』

『え?』

『ピアノの練習をなさるのでしょう。でしたら私はお邪魔ですから。』

咲夜はピアノのことをすっかり忘れていたことに少し恥じた。それだけスパンとのおしゃべりが楽しかったのだ。

『スパンはその間どこにいるの?』

『ドアの前におります。』

『ずっと?』

『もちろんです。リクト様に貴女のことを任された以上,お(まも)りする義務がありますから。それでは,失礼致します。』

昼食のお皿を乗せたワゴンを押しつつ,スパンは退室した。咲夜はひと息をついて,ピアノに向かった。

 午後4時過ぎ,ドアがノックされた。入室してきたのはスパンではなく,リクト。そしてうしろに女性を2人従えていた。

『調子はどうだ?』

『まぁまぁってところね。どうかしたの?』

リクトは答えず,クローゼットを開けてドレスを選び始めた。これには驚きである。スパンの予想が当たったのだから。

『このスカーレットのロングドレスにしろ。』

『私には合わないと思うけど。』

普段鮮やかな色の服を着ない咲夜にとって,スカーレットはまさに避けたい色である。

『この俺が見ているんだから,似合うに決まっている。』

心配する咲夜をよそに,リクトは大した自信を持っているようだ。こうまで言われると,さすがに言い返せない。

『あとは任せる。』

『はい。』

『私どもはメイク担当でございます。咲夜様,こちらにお座りください。』

なんとリクトはメイクの用意までしてくれたのである。しかも,ヘアメイクもしてくれるのだ。いたせりつくせり。まるで王女にでもなった気分である。

『目鼻立ちがくっきりしていてお美しいから,メイクのしがいがありますわね。』

『御髪もつやとハリがあり,さらさらでお美しいですね。』

『ありがとうございます。』

メイク&ヘアメイクになんと40分も掛かってしまった。だが,その成果は素晴らしいものである。咲夜も鏡で自分を見て,驚くぐらいだ。

(私じゃないみたい。メイクって,人を変えるのね。)

『とてもお似合いですね。』

『本当に。さぁ,早くお着替え下さい。』

咲夜はなんだか,久し振りに心が弾んでいた。

 一方リクトは廊下でスパンと話していた。

『まったく。よく口答えをする女だな。』

スパンは小さく笑う。

『なんだよ?』

『失礼。私がリクト様に御仕えする初期,よくそう思っていたものですから。』

『確かに口うるさかったかもしれないが……。まさか,俺とあいつが似ているとでも言うのか?』

『そのまさかですよ。御顔だけでなく,そういった面も似ていらっしゃるのですね。咲夜様といても,リクト様と一緒といるようで。大変なのは変わりませんよ。』

リクトは顔をしかめる。だが,すぐにフッと軽く笑う。

『スパンはときどき突っかかるようになるよな。だからこそ,そばで仕えるようにしたんだがな。』

『突っかかるのが良かったのですか?』

『バカ正直でなんでも従う能無しよりは,はるかにマシだ。』

2人は軽く笑いあう。身分上そんなことは決してないこと。だが,この2人においては別のようである。

 咲夜の準備は出来た。メイク&ヘアメイクはバッチリ。リクト指定のドレスも着た。背が高く,スラッとした咲夜には,スカーレットのロングドレスが良く似合う。これには咲夜も驚きだ。リクトの言葉は,お世辞ではなく事実だ。そこに,リクトが入室してきた。リクトも正装に着替えていた。正装と言ってもタキシードではない。エメラルドブルーの丈の長い上着に,スマトルブルーのワイシャツ。オフホワイトのネクタイ。ズボンは上着と同色のもの。

(かっこいい。)

咲夜は素直にそう思った。あまり男性に興味が無かった咲夜でさえ,ちょっと見とれてしまう。

『ご苦労。下がってよい。』

『それでは失礼致します。』

メイク担当の2人が退室し,部屋には咲夜とリクトの2人だけになってしまった。

『綺麗だな。』

リクトはそっぽを向いて,照れつつ言った。リクトに褒められるとは全く思っていなかったので,ちょっぴり嬉しくなる。

『ありがとう。リクトもかっこいいわ。』

リクトも照れたが,すぐに平常心を取り戻した。

『パーティーの最中は大体俺といろ。だから,言葉遣いには注意すること。大丈夫だとは思うけどな。それから俺が席を外したときには,スパンのそばにいろ。それから演奏の順は1番最後だから。』

『はい。分かったわ。』

リクトは怪訝そうな顔をする。

『妙に素直だな。』

『そう?こんなにも綺麗なドレスを着られて,メイクもしてくれて。ただ嬉しいだけよ。』

リクトはこのときバカにするのでは,と咲夜は予想していた。だが,彼はにこやかに柔らかく微笑んだ。

『可愛いな。』

リクトは咲夜をエスコートする為に腕を示す。咲夜は予想外の展開に戸惑ったが,にっこりと微笑んでリクトと腕を組んだ。

『では行こう。』

リクトにエスコートされるまま,咲夜はパーティー会場に向かった。

 パーティー会場に入ると,一気に静かになった。王子が入ってきたということもあるが,王子とそっくりな女性が並んで入ってきたことに驚いたのである。だが,リクトはそのような音楽家たちの中を何食わぬ顔で歩み,壇上に立った。

『今宵はよく集まってくれた。素晴らしき演奏を期待している。用意した食事は王家直属のシェフの心からのもてなしだ。明日からの活力の為にも食してくれ。』

リクトの言葉が終わると,拍手が沸き起こった。彼は満足げにうなずき,壇上から降りて歩み寄ってきたボーイからワインを受け取る。

『咲夜はどうする?飲むか?』

『ワインは演奏後に頂くわ。アイスティーがあると嬉しいんだけど。』

リクトはボーイにアイスティーを持ってこさせた。

『さすがに演奏前には酔いたくないか。』

『ええ。それに本来アルコールはまだダメな歳だから。』

それから2人はホークリアの音楽家のバックミュージックを聞きつつ,色々な人と談話してまわった。

『リクト様。』

スパンが早足に寄って来て,リクトに耳打ちをする。すると,リクトの表情がすぐに堅くなった。

『分かった。すぐ行こう。スパン,こいつを頼むぞ。』

指示をするなり,早々と退室してしまった。

『なにがあったの?』

スパンは口に人差し指を当てて,咲夜を黙らせてから耳打ちをした。‘貴女が手を貸してくれることに関する情報を仕入れた人と面会するため,リクト様は退室なさったのです’と。咲夜は少しビクッとする。手を貸すこととは,殺戮を止めること。それに関する情報と言えば,今後自分に降りかかることなのである。

『大丈夫ですよ。それにしても,咲夜様は更にお綺麗になられましたね。』

『ありがとう。スパンも,かっこ良くなって。』

スパンは昼,ダークグリーンのワイシャツに黒のズボンだった。だが今は,ボトルグリーンのスーツにエメラルドのワイシャツ,白のネクタイであった。

『ありがとうございます。あ,今演奏なさっている方が今春のコンクールで優勝した方ですよ。まだ25歳とお若いのに,素晴らしい感性の持ち主で。』

『他の人とは違うと思ったら,そういうことだったの。感性もそうだけど,優勝したという自信が溢れているもの。』

それから2人は美味しい食事をとりつつ,まだ話していない人たちとおしゃべりに花を咲かせていた。

 ボーイが咲夜に‘そろそろお願い致します’と耳打ちした。咲夜が弾く番になったのである。

『リクトがいないのに。』

なぜリクトを気にしたのか咲夜には分からなかったが,そうつぶやいてしまった。

『ギリギリ間に合ったようですよ。』

スパンの視線の先には,少し息を切らしたリクトがいた。

『お前の番だろ?間に合って良かった。』

『そうね。じゃあ,弾いてくるわ。』

男性2人に見守られて,咲夜はピアノに向かった。話し声が消えて,静寂が流れる。その中で咲夜はグリーグ作曲の‘トロルドハウゲンの婚礼の日’を演奏した。聞いているだけでもハッピーになれるようなリズム。バックミュージック的な曲ではないのだが,それは構わなかった。会場にいる人たち全てが,演奏に聴き入っているのだ。リクトに似た人の演奏であるから。そして,その澄んだ音色の魅力に誘われて。咲夜が弾き終わると,拍手が響いた。まさか音楽家たちに拍手されるとは思っていなかった咲夜にとって,嬉しき拍手だ。

『テンペストも良かったが,今のも良いな。』

『ありがとう。』

『お疲れ様です。どうぞ。』

スパンが差し出したワインを手に取る咲夜,

『音楽家の前で演奏するのは,とっても緊張するわ。』

『と言うわりにはしっかりと弾けていたじゃないか。なかなかの強心の持ち主だな。』

リクトに小さく笑いつつ,赤ワインで喉を潤す。そのときふと,寂しさが込み上げてきた。目を閉じる。

『どう致しました?』

咲夜はそっと目を開ける。涙目だ。

『死んだ両親が赤ワイン好きだったなぁって,急に思い出しちゃって。』

『お前も両親を……。』

同じく両親を亡くしたリクトは,痛いほど彼女の気持ちが分かった。

 そのとき,天上近くの高窓の1つが激しい音とともに割れ散った。

『なんだ?』

頭に手をやりつつも,見上げる人たち。割られた窓に,誰か立っていた。警備兵は,急いで音楽家たちを誘導して避難させる。

『リクト様。』

『分かっている。マイトブルーンだ。』

咲夜の耳に聞きなれない名前が入った。

(マイトブルーン?あの人の名前?)

窓に立っていた人が飛び降りた。高さが約13メートル。建築物では4階に相当するのに,その人はなんともないようであった。

『あいつが正体不明の殺戮者だ。』

この世界に来て2日目にして,ご対面である。対面と言っても,殺戮者は全身マントに包まれていて顔すら見えない。

『リクト様,お下がり下さい。』

警備兵5人が3人を取り囲む。だが,3人は下がらず,正体不明の殺戮者と対峙した。

『初めまして。それとも久し振りと言うべきかしら?ね,咲夜。』

正体不明の殺戮者・マイトブルーンは冷淡に,嘲るように語り掛けてきた。語りかけられた咲夜にとって,どう答えれば良いのか窮するところだ。だが意外にも強く出た。

『なぜ久し振りだなんて言うの?私はあなたのことを全く知らないのに。』

『嘘おっしゃい。この世界に来る前に会ったでしょう?』

咲夜は記憶の糸をたどる。突然闇に包まれたときの記憶が引っかかった。あのとき,誰かに会っていた。

『思い出したようね。』

『ええ,思い出したわ。で,なんかご用?』

『挨拶よ。咲夜がちゃんとこっちに来たからね。これから嫌と言うほど会うでしょうね。楽しみだわ。』

マイトブルーンは言いたいことだけ言うと,割った窓から去った。

『あの人を止めればいいんでしょ,リクト。』

『ああ。』

『分かった。止める。あんな癪な言い方,腹立たしいわ。その上誰かを殺しているだなんて。許せない。』

『そうか。まぁ,詳しくは明日聞こう。その意志が変わらないと良いが。とりあえずパーティーはもう終わりだ。音楽家たちには帰ってもらう。お前はもう休め。明日の朝,俺のところに来い。スパン,気を抜くなよ。』

『かしこまりました。』

リクトは避難していた音楽家の所へ,咲夜とスパンは咲夜の部屋へ向かった。

 咲夜は部屋のドアの前で,スパンの袖を掴んだ。

『少しの間だけ,一緒にいて……。』

『はい。』

2人は中に入り,ソファーに座る。

『ごめんなさい。気持ちが落ち着かなくて。』

スパンは咲夜の肩を抱き寄せた。

『突然こちらの世界に来て,知らない人に混じって生活することは,かなり神経を使うことです。そうなっても仕方ありませんよ。』

スパンの心遣いが嬉しかった咲夜。張り詰めていた心の線が緩み,涙がこぼれる。


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