ありきたりじゃ、だめですか?
恋愛モノは初挑戦(汗
最後まで読んでいただければ幸いです。
「ごめんなさいわたし……リキくんと付き合ったりとかは、その……」
鴉の濡れ羽みたいな純黒、ストレートの長髪をもつ少女——高音スズは、そう答えた。
高校二年の冬休み——クリスマスイブ。俺——有田リキの人生初告白が見事に失敗した瞬間だった。
高音さんとは一年のときから同じクラスの女の子——普段からよく話していたし、クリスマスイブの予定だって俺と出掛ける事を選んでくれた、のに……。
「な、なんで……?」
当然のように疑問が口をついて出る。
「え、なんでって……だってその、わたしリキくんの事、『普通』だし」
「ふ、普通って……」
な、なんだそりゃ? というような返答だった。
確かに俺は運動神経も成績も平均値だけれど……。
「えとね、リキくんは彼氏っていうより、普通に友達、みたいな。好きでも嫌いでもない、普通……って感じなの。だからこそ気兼ねせず、こうしてクリスマスイブ関係なしに遊びに出掛けられるというか……あ、ごめんね! リキくんがそういうつもりで誘ってくれてたなんて思いもしなかったの!」
「いや、うん……俺の方こそ、ごめん」
謝られてしまう。……告白して謝られるのがこんなに胸にクるものだとは、思いもしなかった——思わず謝り返してしまう程度には辛いものだった。
「あ、あの……それでね、リキくんはこれからも『友達』でいてくれる? 付き合うとかは無理だけど、わたし、こんな風に気とか使わずにいられる人少なくて……、ダメ?」
「いや、全然オッケーだよ。大丈夫。寧ろ俺の方こそ、そうしてもらえると助かる」
なんだこれ? なんなんだこれ? ——頭の中に疑問符が蔓延するが、話の流れはもはや止められないものとなっていた。
「ありがとね。じゃあ、その……また休み明け。今日は楽しかった。誘ってくれてありがとね。それじゃまた!」
「うん、またね……」
そうしてひとつの恋が終わった——というか、相手にとっては始まってすらいなかった。……全ては俺の勘違い。
……残りの冬休みを俺は、コタツに籠もり続けて寝正月で過ごした。
そして三学期初日、人生の転機がやってくる——クリスマスイブでの出来事を発端とする事件の幕が上がる。
『普通』——『ありきたり』にまつわる物語が始まった——……
+ ー * /
「あー……それはリキが悪い」
久しぶりに登校した学校——二年B組の教室。
友人——相戸ユウキはそう答えた。
俺の座席は真ん中の辺りに位置している——彼は、登校してきた俺に気付くと、そのひとつ前の座席の椅子を拝借し、最近、音信不通気味だった理由を尋ねてきたのだ。
時刻は授業開始の二十分も前——まだ高音さんは登校してきておらず、この話を聞かれる心配はない。
……というかなぜ俺は、高音さんから『リキくん』と下の名前で呼ばれているのに、『高音さん』と苗字で呼んでいるのだろう? 今更ながらに疑問を感じてしまう——フられた今になって、それもまた『普通』であった事に一役買っていただろう事に気付く。
はぁ……とため息を吐きつつ、泣き言を漏らす。
「——で、俺のどこが悪かったんだ? 正直、さっぱりわからん。今後、どんな態度で会えばいいのかもわからん……」
「そんなときこそ『普通』にだろ」
「やめてくれ……」
もはや『普通』やそれに準ずる単語は俺に取ってタブーとなりつつあった。
「で、まあ、なんで悪いかっていうと——リキには魅力がねえんだよな」
「やばい、泣きそう。もう少し優しい言葉が欲しい」
名前とは違い、『愛と勇気』を全くくれないユウキの言葉に「アソパソマソのクセに……」と声を漏らす——即座に「次、俺をそう呼んだら殺すぞ」とドスを利かせた声で脅してくる。
金髪にピアスにラフな制服の着こなしと不良学生三拍子が揃ってるから妙に迫力ある——いや、あったのだけれど、かれこれ二年弱になる付き合いの間に既に見慣れてしまっていて、脅してしては効果を発揮していなかった。
「つかそれをいうならリキ——お前は、『ありきたり』じゃねえか」
「やめろ! 俺をその名で呼ぶんじゃねえ!」
有田リキ。アリタリキ。アリキタリ。ありきたり。
そう呼ばれるようになったきっかけは一年生の時——担任の先生の呼び間違えだった。ちなみにうちのクラスのほとんどの生徒が、その先生の発言がきっかけであだ名をつけられている。ユウキの場合は、小学校の時から色々言われていたらしいけれど。ちなみに、棘のある格好をするようになったのは、小学校とのとき名前に関して色々言われた反動だとか。
「つか、そうじゃなくてだな、お前——リキに魅力がないっつうのは、つまり、惹かれる部分がないっつうことだ。容姿も普通、性格も普通、リアクションも普通」
「あ、なんだろ……最後のだけ特に傷ついた」
「ほら、『ありきたり』だ」
「う、……うぅ」
言い返そうとして、確かに、自分の返答が誰にでも出来そうなものばかりである事に気付き、言葉を詰まらせる。
「でもよ、そうだろ。誰だって特別なものに惹かれるもんだろ。自分も持ってる物には大した価値なんて感じねえんだよ。まあそんなお前相手だからこそ、高音も気を——見栄を張らずに付き合えてたってことなんだろうけど」
まあそれも、友達という条件に限られるがな——そうユウキは言葉を締めくくり、ちょいちょいと指先で俺の斜め後ろを指し示した。
振り返る。
教室入り口に、噂の高音さんが登場——登校してきていた。
彼女は俺達に気付くと、「あけましておめでとーっ。リキくん、相戸くん」と片手を上げながらこちらへ歩いてくる。そしてすれ違い様、俺の耳元へ片手で囲いを作りながら顔を近づけ、「これからもよろしくねっ」と囁くと、さっさと自分の席へと去って行ってしまった——彼女が肩に掛けていた学校指定の鞄には、以前と同様に、俺が家族旅行のお土産として渡したキーホルダーが取り付けられていた。
……ほんと以前と変わらない、さらっとした態度だった。
実は少し期待していた。告白された事をきっかけに気になり始める——という王道ラブコメ的展開を。……まあ、現実は非常なものだったけれど。
「はぁ……」
「まあ、そう落ち込むなよ。今のお前じゃ誰相手に告白してもそんなもんだって。オーケーしてくれるのなんて、誰でも良いから付き合いたい——って恋に恋しちまってるようなやつだけ。そういう意味では、お前のお目は高かったと思うぜ。断る、ってことはそれだけ、きちんと自分の好きを大切にしてるっつーか、本当に好きな人としか付き合わないっつーか、身持ちがしっかりしてるっつーか、貞操管理ができてるっつーか——端的に言うとあれはかなり、一途なタイプだぜ」
「……うっせ」
照れ隠しにそう言葉を吐く。
自分の好きな人を褒められ、少しだけ気分が良くなってしまった。単純だけれど、好きなものを褒められて嬉しくない人もそうそういないだろう。
教室の端で同性のクラスメイトと話し始めた高音さんをちらりと見る——少し胸が高鳴る。少なくとも今はまだ、彼女の事を好きなままであるようだ。
「……」
いつの間にか、ちらり——という言葉では収まらないほど視線を注いでしまっていた。
その事に気付き、ユウキへ視線を戻す——と、ユウキもまた、俺が視線を注いでいた事に気付いていたらしく「はぁ……しゃーねーな」と頭をガシガシとかき乱し、言った。
「今日は付き合ってやるから、一緒に遊びに行くぞ」
「……さんきゅー」
悔しい事に、俺たちは二人とも名が体を表していた。
『愛と勇気』に『ありきたり』。俺も、もっと格好いい名前が欲しかったものだ——……
+ ー * /
放課後。
俺はユウキに連れられて大型ショッピングモールにまで遊びに出てきていた。
お互い制服姿のまま——学校から直行してきた。
吹き抜けのエントランス。天井の高い三階建て。飲食店から衣料店や雑貨屋、日用品売店に理髪店まで——ここにくれば全てが揃う、というくらい多数の店舗が並んでいる。
男二人でこんなところに来るなんて、『普通』は——じゃなかった一般的にはほとんどない事なのだけれど、どうやら今回連れてきたのには何か目的があるらしい。
「リキ、今っていくら持ってる?」
「いきなりだな……大体、五千円くらいだけど」
「足りねえな。キャッシュカードとか持ってるか?」
「……持ってない」
なんだろう——不穏な気配。
まさかこいつ、カツアゲ——「違うからな?」……違うらしい。
じゃあ一体……? ——と考えているうちに目的地へ到着したらしく、ユウキが足を止めた。
「服屋……?」
「ああ。とりあえず、入るぞ」
そう言ってユウキは先行して店内に足を踏み入れる。俺も慌てて、後ろについて入る。
店内は気後れしてしまう程にお洒落で、商品が、息が詰まってしまうほど奇麗に陳列されている。冬服と、これからに向けた春物の服が並んでいる。どれもこれも、自分が着たって似合わないと感じてしまう服だった。
そのとき、「らっしゃーせー。なんかお探しっすかー?」と、すぐ横から男性の店員が俺達に声を掛けてきた。
俺が普段行っているような衣料品店にはなかったシステムに思わずビクっと過剰反応してしまう。だがユウキは自然な態度で、「あ、今日はこいつの服を買いにきたんですよ。いっつもだっせえ格好ばっかしてる所為で、女にフラれやがったんです」と俺の事情を——て、おいっ!
「なに暴露してくれやがってんだっ!?」
そもそも、フられたのは服の所為では……いや、そうなのか? てか、そうだったのか!?
「別に隠すような事でもねえだろうが。クラスメイトでもあるまいし。それに——事情を話したりしてた方が、そっち的にも服を探すのに気合いはいりますよね?」
そう最後は店員さんに向けてユウキは言葉を返す。俺の驚愕は置いてけぼり。
「確かにそうっすね。こっちも接客商売っすから、お客さんの好みとか近況とか聞かせてもらえると探しやかったりするっすね」
「ほらな」
……まあ、確かに俺はこういった店に来るのは初めてなのだし、郷に入っては郷に従え——ユウキの言う事に従った方が無難かもしれない。
——と、そこまではいいのだけど、この店員さん……あまりにも口調が砕け過ぎではないだろうか? それともこういうものなのだろうか? 服装や雰囲気が、シンプルでありながらも自分よりも明らかに『上』とわかることもあり、タジタジとしてしまう。
「そんな緊張しなくっても良いっすよ。自分の事は友達とかそんな風に思って、気軽に頼ってくれていいっす。んで、おすすめっすけど——」
と次々、話が進んで行く。
俺は目が回るほど——めまぐるしく次々と試着を繰り返され、そして何着目かを数えるのを止めてから三十分近くが経った頃、「よしっ、こんなもんだろ」とユウキの声が聞こえた。
解放された気分になった——ユウキの声が神の救いのようにも感じてしまった。
店員さんも、「いやまじ良いっすよ。自分がここで働き始めてから、今までで一番の仕上がりっすね」と首を頷かせている。
「じゃあこれで会計お願いします。あ、服はこのまま着せて行くんで——」
とユウキが言葉を発しながらカウンターの方へ、伊福タカシさん(店員さんはそんな名前らしい)と出来について語り合いながら歩いて行く。俺も試着室から出て付いて行き——はた、と気付く。
慌てて、腰を捻ったりものすごい体勢になりながらも自分が今着ている服の値札を確認。
……。
……。
……高えええええええっっっっ!?!?
なんだこれ!? シャツと、もこもこした——カーディガン?と、分厚いアウター?と、ズボン——じゃなくてパンツ?を着ているのだけれど、それぞれが自分が今までの人生で買ってきた——着てきた物の、数倍の値段はしている。というか、シャツ一枚すら俺の財布に入っている金では払いきれない額が書かれている。
「その、いや、あの、俺——」
——と、しどろもどろになりながら金がない事を伊福さんに伝えようとするが、「いや、わかってるわかってる」とユウキは横から言い、続けて「じゃあこれで」と福澤諭吉を数人、会計トレイの上へ正座させた。
わーすごい。
……ちょまってこれ。実は詐欺とかじゃないよね? 高い物を奢る——かのように見せかけて、後でその金額を請求するとか。……いやいやいやいや、いくらなんでもそんなことは、ユウキに限って……ない、か?
そんな風に混乱しているうちに「カードは作るっすか?」「あ、じゃあコイツに作ってやってください」「りょーかいっす。ポイント貯めとくっすねー」と会計どころか、カードまで作り終えてしまっていた。
さらには、「だめだ……俺はもうダメだ……」——と絶望にかられているうちに、服のタグまで切り離されてしまい、後には引き返せなくなっていた。
「はぁ……。もう帰りたい……とりあえず、母さんに小遣い前借り出来ないか——いや、それでも全然足りない……もうダメだ……」
そんな風に悲観的な事ががボドボドと口からこぼれ続ける。だが、絶望はこれで終わる事はなかった。
「——じゃあ次、靴屋だな」
母さん。父さん。俺はもう、永遠に普通のままでいいです。あなた達の名付けには一切間違いなんてありませんでした……。
そう謝罪を続けているうちに、俺の負債はますます増えていった——……
+ ー * /
意識が現実に回帰したのは、それからさらに二時間近くが過ぎた頃だろうか。
「おい、終わったぞ」
というユウキの声で、ようやく自分が今いる場所に気付く——理髪店だ。同じく、モール内の。
そして鏡の中にいる自分の姿を視界に収め……収め——
「誰だお前は」
そう問いただしていた。
「いやお前だろが」
とツッコミが入るが、そんなもの信じられるはずがない。——俺は、黒色で平凡な髪型をしていたはずだ。なのに鏡の中にいるコイツは、明るい茶色で左右非対称でさらには一部分を刈り上げた髪型をしているのだ。
……マジでなにがあった!?
「お、おいユウキ、どうしてくれんだ!? 明日も学校あるんだぞ!? 長期休暇前ならいざ知らず……うわぁー、やべぇー……どうすりゃいいんだ……」
「大丈夫だって。うちの学校、服装とか髪型については緩いじゃん。俺なんて金髪にピアスに制服改造までしてるけど、ほとんど咎められた事なんかねーし」
「時々、咎められてるんじゃねーか」
——ってそうではない。問題の焦点はそこではないのだ。
「いや、お前は——ユウキはいいよ。元からそんな感じだったし、みんなそういうもんだって思ってるから。でも俺は入学以来、真面目な生徒で通ってきてるんだぞ!? 俺のキャラっていうか、そういうのがあるじゃん!?」
だんだんと熱が入り、声が大きくなっていく。——とその時、散髪を担当してくれたらしい人がユウキのやや後ろでひどく申し訳なさそうな表情をしている事に気付く。他のお客さん達もこちらへ視線を集中させていた。
俺は怯んだ。急に、自分が立っている場所がわからなくなる。足元が揺らぐ。——だがユウキはそんな衆目なんて一切気にとめず、こちらだけをしっかりと見据え、言葉をはっきりと告げてきたのだった。
「——お前、変わりたいんじゃないのか?」
その言葉はそこまで大きな声量ではなかったにもかかわらず、店内に重く響き渡った——そして、俺の心にも。
「ぅ、あ——」
反論しようとして出した声は、言葉にならなかった。どころか自分でも、なにを言おうとしたのかわからなかった——そもそも、反論出来るような言葉なんて俺の中に存在しなかったのかも。
だが、そんな俺の様子を見たユウキは満足そうに頷き、「すいませんお騒がせしました! ……それじゃ会計、お願いします」と、周囲と店員へ向けて言ったのだった。
その言葉で揉め事が収まった事を理解した皆々が、それぞれの目的へと意識を戻していく——視線は自然と散った。
俺は、言われた事の意味を考えていた——俺は、変わりたいんだろうか?
自問自答をしている間に、会計が済み、俺達は外——ショッピングモールの通路へ出た。
ユウキは言う。
「今日はもう解散だな。——リキ、家帰ってからもう一度ゆっくり、自分の姿を鏡で見てみろよ。それで、自分がどうなりたいのか——どうしたいのか、考えてみろ。答えは明日、学校で聞いてやる」
そして、「んじゃな」と片腕を上げてさっさとショッピングモールの通路を歩いて行った。ここへ来るのには二人ともバスを使った——けれど、ユウキが足先を向けていったのは、乗り場あるのとは違う方向だった。
どうやらここから歩いて帰るらしい。俺と顔を合わせ続けないためだろうか?
意図を汲み取り、俺は乗り場へと向かい歩き始める——頭の中では思考が渦巻いていた。
——と、考え続けるうちに思い出す。
「あ。結局、全額ユウキに払わせたまんまだ」
明日、答えとともにお金も返そう——そう、思った。
買ってもらった服を着るのと、自分で買った服を着るのとでは、それを身に纏う事で得られる変化——自信が大きく異なると思った。
……本当はもう、答えは出ているのかもしれない。
あの瞬間——鏡の中の別人を見た瞬間。俺は、鏡の中にいる理想の自分に、一瞬見とれてしまっていた——既に憧れてしまっていたのだから。
——たださっきは、変わる事への恐怖が先立ってしまっただけで。あんな風に、自信に満ちあふれた姿で視線を前へと向けていたい——そんな自分になりたい、と既に思ってしまっていたのだから。
——俺は、変わる。
——変わっていこう。
そう視線を前へと向けた時、何かが動き始める音が聞こえた気がした——……
+ ー * /
翌日。
俺は授業開始の四十分前には既に到着し、教室でユウキが来るのを待っていた。
まだこの部屋に俺以外の姿はない——あっても困るだけだけれど。
俺は机に突っ伏してその時を待つ——ユウキへとはっきり告げるその時を、待つ。
お金は両親に頼み込んで、数ヶ月分のお小遣いと次の誕生日の前借り、という形でなんとか用意してきた。もちろん、今年貰ったばかりお年玉も勘定に入っている。
その両親も、俺のあまりの風貌の変化に驚いていた——一番驚いているのは俺だけれど。
今日ユウキに言うべき言葉がなんであるかを、俺は既に知っている——これ以外に言うべき答えはない、とはっきり理解していた。
約十分間、俺は精神統一に努め——ついに、教室の扉の開く音が聞こえた。
「よおリキ。答え、聞かせてもらいにきたぞ」
ユウキが教室中央——俺の席まで歩いてくるのが分かる。だが俺は、ユウキがいつもの位置——前の座席までやってくるまで、突っ伏したまま待つ。
肩が、震える。様々な感情がない交ぜになって俺のうちを駆け巡る。
「……っておいリキ? なんでそんな、でっかいタオルなんて被って机に突っ伏してやがんだ?」
その言葉に、肩はひときわ大きく跳ねた——そしてついに自分の感情がついに押さえきれなくなり、口から笑声となって漏れだし始める。
「ふ、ふふ、ふふひひははは……っ! なんで? なんでだって?」
「お、おい……どうした?」
ユウキの戸惑いの声すら腹立たしい。
俺は勢いよく立ち上がり、頭から被ったタオルに手を掛け、そして——
「こーいうことだよ!!」
——と、一気にそれを取り払った。
その瞬間、ユウキが爆笑した。
「っぶぁははははははは! 何だそりゃリキ! お前、芸人でも目指してんのか!? ぶぁはははははは! やべぇ、腹いてぇ……。骨皮さん家のヌネ夫くんでもそんな奇抜な髪型はしてねえよっ!」
「——殺す! てめえを殺して俺も死んでやる!」
そうなのだ——今の俺の髪型は、ちょっと説明できない……というかしたくない程ものすごい事になっている。しいていうなら、今ユウキが比喩した通りだ。……でも仕方ないじゃないか! だって、今までの人生で整髪料とか使った事なかったんだから! 髪を切ってもらった事自体はよかったのだが、次の日の朝、自分では上手く整えられない、ということに今更気付いたのだ。しかも、明日学校で——と言葉を交わしていた手前、助けを求めることも出来なかった。
俺は父の整髪料を拝借して悪戦苦闘——だが結果は惨敗。どうしていいかわからなくなり、家を飛び出してきてしまった。父はこんな日に限って既に出勤してしまっていた。
そして、ユウキが登校してくる事を今か今かと待ち受けていたのだ。
「いやぁ、わりぃわりぃ。そこまでは気ぃ回らなかったわ。んな怒んなって。……ほら、直してやるから手洗い行くぞ。鏡見ながら、どういう風にしてセットすんのかも教えてやっから」
今は一分一秒でも早く髪をなんとかしてほしい。これ以上の怒りをぶつけるのも金を返すのも、まずは髪を直してもらってからだ。金をいつまでも借りっ放しなのは癪であるが、それよりもこの頭を誰かに見られる事の方が恐ろしかった。俺はなんとか怒りの矛を収め、教室の扉へと向かうユウキの後を追う。
その際ユウキは、自身の鞄から整髪料を取り出し、持って行っていた——普段から持ち歩いているらしい。
前を行くその背中には、『上機嫌』と書いてあるかのよう——明らかに歩調も軽い。
どうやら、俺の答えがお気に召したらしい。俺は今日、整髪料を付けてきた——今まで付けてこなかったソレを付けてきた。——それが俺の答えだった。言葉ではなく態度で表した、答えだ。
+ ー * /
手洗い場で髪をウニウニと弄り弄られ、俺の髪は見違える程に格好よくなっていた——ぜひとも、おでこから上の部分だけをトリミングしたい。
「わかったか?」
と、俺にワックス(そういう整髪料の種類らしい)の付け方を教えてくれていたユウキが背後から問うてきた。
鏡ごしにこちらへ、満足そうな笑顔を向けてきている——途中コイツは、明らかにおかしな髪型へと変えようとしやがったり、好き勝手やっていたからなぁ。
だが、悔しい事に非常に分かりやすい説明だった。実際に一人でやれるかどうかは別にして、何をどうすればいいかはきちんと理解出来た。
「——ワックスってのはつまり油脂だからさ、手ぇベトベトすんだろ? まあ、だからこそ空気中の酸素と結合して固まるんだけどな。……セットし終わった後はきちんと石鹸で洗っとけよ? 油脂ってことは、逆にいえば石鹸で洗っときゃ界面活性剤の性質でミセルを作るから簡単に落ち——」
そしてさらに腹立たしい事に、ユウキは見た目とは裏腹に頭がよく、勉強が非常に出来るのであった。……うん。いつだったかそんなことも、化学で習った気がする。
と、いつの間に時間がそんなにも過ぎていたのか予鈴が鳴り響いた——授業開始五分前だ。
「じゃあリキ、戻るか」
そうユウキは声を掛けてくるが……今になって気が重くなり始める。教室には既に、ほぼ全員のクラスメイトが揃っている事だろう。昨日まで普通だったのにいきなり茶髪とか、どれほど注目されることになるか……考えたくない。
「おいリキ、今更悩んだってもう遅いだろ? 選択肢は『行く』しかないんだから」
「その通りだけどさ……なんていうか、心の準備が欲しいというか」
「その準備は、時間があれば済むもんなのか?」
……いや。一生済まないだろうなぁ。
「そういうことだよ。ほら、行くぞ」
「う〜、う〜……」
未だ渋り続ける俺を、後ろからユウキが押してくれる。
俺だって行くしかない事くらい分かっている。とはいえ、行けるかと聞かれるとまた別の話なのだ。だからこうして、『無理矢理』という体裁でユウキが背中を押してくれるのはとても助かる。『仕方ない』のだと諦めて——吹っ切れさせることに一役買ってくれる。
「そうだそうだ。歩け歩け、きびきび進め」
ユウキは俺とは対照的に、ますます上機嫌になっていく。
一歩、また一歩と教室が近づく。……ああ、憂鬱だ。
高音さんにどんな反応をされてしまうのだろう? 高音さんに引かれたりしないだろうか? ……いや俺、いまさら高音さんの反応は関係ないだろう。大事なのは皆にどう思われてしまうかで……。
などと考えているうちに、既に教室は扉一枚を隔てたすぐそこに来てしまっていた。……少しだけ、今が冬でよかったと思った。もし暖かい季節だったら、この扉は開け放たれており、俺の姿は既に晒されてしまっていただろうから。
最後に一度、大きく深呼吸する——その間くらいはユウキも待ってくれているようだ。……永遠に深呼吸を続けていたい気持ちを振り切り、『自分の手』を扉に掛けた。
俺のその行動に、背後でピクっとユウキが震え——驚いた事が伝わってくる。自分で開こうとするとは思っていなかったのだろう。俺も出来る事なら全てユウキに任せてしまいたい。けれど、なんとなく、ここを開けるのは自分じゃないといけない気がしたのだ。
新たな世界へと続く扉を開くのは、自分自身でないと。
俺は意を決した。
指先に力を込め、扉を一気に開け放——
「ひゃっ!?」
——とうとした瞬間、扉は向こう側から勢いよく開かれ、開けたその当人は眼前に立っていた俺に驚きの声を上げた。
「ひ、ひぁっふぇっ!?」
こっちは俺の悲鳴である。固めたはずの決意は見事に打ち砕かれ——今なんてきっと、涙目を浮かべているだろう。
——ああ、もうだめだ。死んだ。俺は死んだ。神は死んだ。髪はブラウンだ。……なに言ってんだ?
頭の中をしっちゃかめっちゃかに言葉が飛び回る。なんかもう、何もかもが瓦解していく気がする。今後一生、何も上手く行かない気がする。俺はただの恥ずかしいやつとして皆の記憶に名前を刻まれ、距離を置かれるように——って、あれ?
そこでようやく、遅まきながら、反対側から扉を開けた人物が誰であるか気付く。
「——高音さん?」
「え……えっ? 誰、ですか……?」
グッサァアアアッ! と言葉のナイフが俺の心に突き刺さる。
え、なに? もしかしてそんなに俺の髪って変なの? この髪、似合ってないの? いや、似合ってないのには俺も同感だけど。いやでもまさか、他人のふりしたくなる程度には頭がおかしく見えるなんてことは……。
と、高音さんは俺の背後にいたユウキに気付いたのか、「あ、相戸くん」と声を漏らした。そして、俺とユウキの間で視線を行き来させながら質問を発した。
「ねえ相戸くん、リキくん知らない?」
「……へ? あ、あ、おう……。リキのやつか? リキのやつは、その、えーっとだな……」
ユウキが本気で焦っている。視線もうろうろと定まらず非常に頼りないことこの上ないが、俺にはもはやユウキのその優秀な頭脳から生み出される、抜群の打開策を——解決への台詞を期待するしかない。
……俺の喉はいつのまにやらカラッカラに乾いていて、まともに声など出せなくなってしまっていた。ていうか、声を出そうとしたら代わりに胃の内容物をぶちまけてしまいそうだった。頭グルグル、胃もグルグルだ。ちなみに地面はグラグラしている——今にも倒れてしまいそう。
ユウキはしばらく「えーっと、」とか「その、だな……」とか言って思考する時間を確保していたが、ようやく言葉がまとまったらしく、口を開いた。
「あ『キーンコーンカーンコーン……』」
……。
驚く程、最悪のタイミングだった。最悪のタイミングで本鈴が鳴ってしまった。もたらされた結果もまた最悪で、沈黙が場を支配していた。
俺は動けない。ユウキの顔も引きつって固まっている。高音さんもその異様な空気に気圧されたらしく、行動を起こせなくなっていた。
そこへ、第三者の声がかかった。
「——お前達……どうかしたのか?」
俺とユウキの背後から現れたのは、2年B組——つまり俺達の担任教師である『親分センセー』だった。
本名は大藪。担当は古文——その所為か時々『子分センセー』とも呼ばれている。生徒達から愛されており、また、とてもガタイのいい先生だ。一年、二年と俺達三人は皆、この先生にお世話になっている。
「……」
だが現状においてその登場は最悪に近く、俺達はさらに沈黙を深めていた。その異様さを親分センセーのセンサーも感知したらしく若干怯んだものの(この先生、見た目に反して肝っ玉は太くないのだ)、先生としての責任感からか、「とにかく、教室に戻れ。もうHR始めるから。……ほら、お前もだ、茶髪の男子。自分の教室に戻れ」と俺達に注意する。
……親分センセー、俺もあなたの生徒です。
と、その思いが通じたのか、あるいは意外と持っているのかもしれない先生としての才覚からか——「って、あれ? もしかしてお前、『ありきたり』か?」と真実を言い当ててしまったのだった。
『ありきたり』——一年のとき、俺がこの先生の言い間違いが切っ掛けで呼ばれるようになったあだ名。あの日以来ずっと変わらない、この先生の俺の呼び方だ。……この先生は本当に、最悪のタイミングで最悪の事を言ってくれる。
高音さんが、「えっ……!?」と驚愕の表情で俺の顔をじっと見つめ、気付き、改めてもう一度「え……、えぇっ!?」と驚愕する。
ユウキが、「あ……、っちゃぁ〜……」と天井を仰ぎ見る。
俺は一周回って、先程と全く同じ体勢のまま動けなくなっていた。
「あのな『ありきたり』。先生もあまり急に奇抜な事をされると他の先生から色々とだな——」
……それからの事はほとんど覚えていない。見知らぬ人物が教室に入ってきた事にクラスメイト達が驚き、『ありきたり』の席に座った事に困惑し、『ありきたり』自身である事に気付いてさらにもう一度驚いたりしていた気がするが……もはやどうでもいい——というより、気にしている程の余裕はなかった。
休み時間ごとに、『どうしたんだ?』『何かあったのか?』『相談に乗るぞ?』と声を掛けてきてくれていた気もするが……なんと答えたのか思い出せない。
授業の内容だって一切入ってこなかった。先生達からも何か言われていた気がするが……思い出せない。
ただひとつ、はっきりと覚えているのは、高音さんが今日一日中、ちらちらと頻繁にこちらの様子を伺っては、難しい顔で何かを考え込む——というのを繰り返していた事だけだ。
——きっと、嫌われてしまったのだろう。もうこれからは、友達ですらいられないかも。
その日はそれ以降、高音さんと言葉を交わすことなく——顔を向き合わせる事もなく、学校での時間は過ぎていった——……
+ ー * /
「おい、大丈夫かリキ? もうすぐ家に着くぞ」
「……へ、うん?」
気付くと、自宅近くの十字路に立っていた。俺の家は曲がった先に、ユウキの家はまっすぐ行った先にある——ユウキと帰り道が分かれる場所だ。
既に日は傾いており、俺達は赤く照らされていた——赤さが妙に、目に染みた。
「お前、ほんとに大丈夫か?」
「うん……うん」
「大丈夫じゃねえじゃん」
いや、大丈夫だ。大丈夫……なのだけど、少し頭がぼぅっとしている。夢うつつというかなんというか、風邪を引いた時みたいに意識が朦朧としている。……あれ? それじゃあ大丈夫じゃないってことなのか?
……ダメだ。思考がまとまらない。
「リキ……お前、今のこの状況を最悪だなんて思ってんじゃねえか?」
ユウキが問うてくる。
「これが最悪じゃなかったら、何が最悪だっていうんだよ……」
俺の口からは自然と答えが漏れた。頭が上手く働いていないまま答えたので、本心で間違いないだろう——と、自分のことなのに他人事みたいに考えてしまう。現実逃避——今日のことは全て夢だったと思おうとしたのだろう。だが、高音さんの『誰?』という言葉とその時の視線がどうしても頭から離れなかった。
「違うぞリキ。最悪な展開ってのは、皆の反応が『変わらない』っていう結果だ。今日のお前の注目度すごかったぞ? 気付かなかったのか?」
「それは、気付いてたけど……」
あれで注目されてなかったなんて方があり得ない。そもそも、注目されていたからこそ今悩んでいるというのに。
「あのなリキ、これはさチャンスなんだぜ? お前が変われるチャンスなんだぜ? お前だって言われてたの覚えてだろ? クラスの連中、お前の事、めっちゃ格好良くなってるってベタ褒めしてたじゃねえか。女子共もキャーキャー言ってたぞ」
「……まじで?」
ピクッとその言葉に反応してしまう。全然、気付かなかった——今までそんなの言われた事ない所為だろうか? こうしてユウキに伝えられても、それが自分の話であるとは思えないでいる。
とはいえ一瞬、その言葉を喜んでしまった事は間違いなかった。
「ああ。言ってもまあ、クラスの連中は『以前』のお前を知っているからあれだけどよ、もし誰もお前を知らない所に行ったりすれば——間違いなく、モテるぞ」
「モテ……いや。そうは言っても大事なのは、気持ちとか、性格とか、内面とか——」
期待しかけた俺はとっさにそう自身にブレーキを掛けるが、「学生の『恋』にとっちゃあ、んなもんは二の次だ」とあっさり反論されてしまう。
「高校生の時点で、彼氏彼女を将来の結婚相手として見据えてる奴なんざほんの一部だけだっつの。——まあ、あるとしても、何年と付き合っている内に、本気で結婚を望むようになる、ってパターンくらいだな。ちなみに、大人の『愛』の場合の第一条件は『金』な——こっちは俺もまだ知らねえから、又聞きだけどよ」
聞いていると、俺は少し恋愛に対して特別な感情を抱きすぎていたのかも——と思えてくる。真剣に向き合いすぎていたというか、恋愛を崇高な物として捉えすぎていたというか。
……もっと様々な恋愛を経験してもいいのかもしれない——高音さんにこだわる必要なんてなかったのかもしれない。
そう考えると少しだけ気持ちが軽くなった——視線が自然と上を向いた。
「リキ。お前今、結構いい目してんぜ?」
「……そう、か?」
反射的に顔に手を当てるが、当然、それでわかるわけがない。
「ああ。お前は——お前が考えてる通り、まずは誰かと付き合ってみるのがいいと思うぜ。んで恋愛を知れ。『初恋は実らない』——このジンクスは恋愛に夢を見すぎちまったのが原因でそうなっちまう事が多いってのが本元だ。お前もそうだったようにな」
恋愛がどういったものかを理解しろ——そうユウキは言う。
『愛と勇気』でできた彼は、その二つを持つからこそどこまでもリアリストだった——でもその態度に、今はすごく好感が持てた。
「ははっ、そうかも。俺、ちょっと夢見すぎてた気がする——でも、今覚めたよ。……そうだユウキ。誰か女の子、紹介してよ」
「いいぜいいぜ。よくなってきた。そんな感じだ。ばっちり紹介してやるよ」
笑い合う——腹の底から笑い飛ばした。今までの自分を、笑い飛ばしてやった。
すると、先程とは世界が違って見えてくる。明るいわけでも暗いわけでも、奇麗なわけでも汚いわけでもない。けれど、今の光景そのままを全て、受け入れられる気がした——全ての出来事を楽しんでみせられる気がした。
俺は腹の底から、心の底から、今までの感情を吐き出すかのように大声で笑い続けた——……
+ ー * /
次の日からの俺は、今までとは大きく違った。
ユウキに教えてもらったように髪をセットし、制服を軽く着崩す——それだけで自分が今までより少し、『強く』なった気がした。
それに引きずられるように口調もまた砕けたものとなっていた——ユウキ以外と話す時、なぜかいつも少し感じていた『緊張』のようなものがなくなっていた。
学校帰り、ユウキと遊びに出掛ける事も多くなった——とはいっても服などの代金をユウキに返したので、大した事ができたわけではないが。それでも、いままで知らなかった事をたくさん知る事になった。
知らない人と成り行きに任せて一緒に馬鹿騒ぎする楽しさ。知らない場所を出歩くスリルや特別感。泊まりで遊ぶ事も多くなった。単純にビリヤードやダーツなど——初めて体験する遊びの面白さもあった。
両親からは心配の声を掛けられる事もあったが、泊まる時や食べて帰る時は事前に連絡を入れたし、決して学校を休む事もなかったからか、大目に見てくれていた——そのあたりの事はユウキが厳しかったのだ。自分一人では流されてしまう可能性があったが、ユウキは絶対にそこを譲らなかった。
夜出歩くのも必ず十一時までだったし、飲酒や喫煙も許さなかった。
+ ー * /
そんな生活が始まってから一ヶ月が経った頃——高音さんの事も今では気にならなくなり、ユウキと『そんなこともあったなぁ』と言い合えるようになっていた頃。二月の中頃。
「ねえアッキーはさぁ、確か今、彼女とかおらへんねやんなぁ?」
——そう一緒に遊びに出ていた一人の女子が聞いてきた。
俺の事をアッキーと呼ぶその子は、同じ県内にある高校(確か、小中高校という名前だった)に通う一学年上の——高校三年生の姐木ヨーコだ。やや赤っぽく染めた髪にパーマを当てている。高めの身長に健康的な肌、細身でありながら起伏のある体型を持つ——運動神経かなりいいとか。スカートは好まず、ジーンズなどのパンツ系をよく着ている。言葉の訛りも特徴だが、なによりその面倒見の良さと名前から、『姉貴のよう』だと——『ネェさん』と呼ばれている。
現在の時刻は既に十時半を回っており、他に一緒に遊びに出ていた人達とは解散している——ここは駅の構内。同じ電車に乗るのは俺とその子だけだ。俺は既に、ユウキがいなくても自分から遊びに行く事も多くなっていた。それでも、ユウキの決めた約束事だけは絶対に破らないけれど——今日のように。
「言ったよー。てか、誰かと付き合った事自体ない」
一つ年上だが、敬語を使ったりはしない。ユウキに連れられて遊びに行った先で知り合う人は皆、そんな人達ばかりだった。年齢ではなく、その人に対する尊敬度や友好度で言葉遣いを変える——自分の意思に反した態度を取る事を、何よりも嫌う人達ばかりだ。
「じゃあさぁ、アッキーは誰かと付き合いたいとか思わんへんの?」
「そりゃ思うよ。てか、そーいう下心があってネェさん達女の子と遊びに来てるんだしね」
冗談めかして言う——こういう事をあっさり言えるのが、今の俺だった。
ネェさんの話からするとおそらく、また例のお節介焼きを発症したのだろう。とはいえ女の子を紹介してくれるというのは大歓迎だ——と思っていたのだが、話は予想外の方向へと進んだ。
「嬉しい事言ってくれるやん。じゃあさぁアッキー、あたしと付き合ってみいひん?」
「……へっ?」
とっさの反応が出来ない——一瞬、昔の自分に戻った気がした。あの瞬間——自分がフられたあの瞬間に、戻った気がした。
「……アッキー、あかん? あたしやとあかん、かな?」
ネェさんの背が高いとは言っても、それはあくまで女子として——俺よりは低い。
その軽い口調(訛りの所為もあるだろう)ゆえ勘違いしそうになるが、上目遣いになっているネェさんの瞳は不安に揺れ——濡れ、同時に熱を持っていた。
ネェさん、とみんな冗談めかして呼んでいるが、その容姿はとても優れている——普通に女子として話そうとすれば照れてしまう程に。ネェさんはには、荒野に咲く一輪の花のような強さと儚さがあった。……まさか俺がそんな人から告白を受けるなんて、想像もしていなかった——いや、誰かから告白を受けるなんて、今までが今までだった俺にとっては驚天動地もいい所だった。
「……あかん、よね。アッキーは多分、清楚な感じの女の子が好きやもんな……それは知っとる。あたしは、もう、『処女ちゃう』し……。でも、その分、他に上げれるもんやったらなんでもあげるさかい、あかんかな……? あたしずっと中学ん時の事引きずってたけど、アッキーに会って、アッキーと話してる内に変わっていってん……。本気で、誰かの事をまた好きになる事ができてん——アッキーの事が、好きやねん……」
思い出す——ネェさんは、中学三年生の時に一人のクラスメイトと付き合ったのが最初で最後の恋愛だそうだ。それ以来、誰とも付き合ってこなかった——誰からの告白も受け付けなかったし、誰にも告白しなかった。……ネェさんはとても一途な人だ。
……だが俺はそれよりも先に、『経験済み』であるという事の方を意識した——嫌だ、とそう感じた。処女ではないことに吐き気を覚える。
そして気付く——ユウキの言葉を思い出す。
——ああ、そうか。これがいわゆる、『恋愛に夢をみる』ってことなのか。相手は絶対に処女で、自分以外の男には興味を抱かず、欠点は全て愛すべき——愛せるような可愛いものだけ。……そんな理想を相手に押し付ける——そういうことか。
理解してしまうと、ネェさんの告白を断る事がひどく自己中心的で醜いように思えてくる——『それ』を理由に相手に忌避感を覚える事が、最低の行為である用に思えてくる。
……まあ単純に、『欲求不満』なのが理由で付き合いたいというのもなくはないけれど。
俺はネェさんの事を今この瞬間、恋愛対象として好きだとは答えられない。でも、付き合っても良いかもしれないとは思った。……そうすることで、自分がさらに変わる気がしたし、高校生のうちに『そういうこと』を経験しておきたいとも思った。
だから俺は、ネェさんの頬に自分の片手を当て、上目遣いだったその顔をこちらへと見上げさせた——もう片方の手は、腰へと。
「アッキー……?」
「ネェ、さん……」
そして目をやや伏せ、ネェさんの唇へと、ゆっくりと——ゆっくりと自分の唇を近づけていった。ネェさんは一瞬、ビクッと震えた。避けるだけの余裕はネェさんに与えたつもりだ。けれどネェさんは、緊張した面持ちながら意を決したように、拒まず、俺の胸にしな垂れ掛り、目を閉じて、頤を少し前に出した——差し出した。
——唇が重なるその直前、俺の右手はとても震えていた。自分からしようとしたクセに、意味が分からない程に緊張していた。心臓が高鳴っていた——密着した今、ネェさんにもその音は聞こえているかもしれない。それに、下腹部が熱烈に反応を示してもいた——冬場で厚着をしていたし、心音共々、気付かれてないと思いたい。
ゆっくりと近づいていく——永遠にも思える長い間、ネェさんは全てを受け入れるかのように、俺へと全てを委ねてくれた。俺はその時、本気でネェさんの事を愛おしく感じた——何かが変わった、気がした。
そして——唇が、触れ合った。
初めてしたキスに味はなく、ただどこまでも柔らかく気持ちがよかった。
——一秒、二秒。ほんのそれだけの時間。
だがその時間に聞こえるわずかな、服の擦れ合う音や風邪の音、遠くで聞こえる踏切の音、そして相手の吐息が、耳に痛い程はっきりと聞こえた。
唇が離れる——なぜかそれだけで、すこし寒くなった気がした。
ネェさんがゆっくりと目を開いた——切実な表情をしていた。
それを見て俺は、まるで熱に浮かされるかのように——遠ざかった熱を取り戻すかのように、言葉を口にした。
「……『ヨーコさん』、俺と付き合って」
答えとしては文脈が成り立っていないかもしれない——けれど、一番その言葉が、俺の気持ちを伝えられる気がした。
「……うん。あたしは今から、『リキくん』の彼女やで」
そう言ってヨーコさんは笑う——リキくんと呼ばれた瞬間、どくんと心臓が跳ねた。
同時に通過列車がホームへと侵入し、彼女を背後から照らし上げていた——とても印象深い光景だった。
列車がホームを通過する——生み出された風圧でヨーコの赤っぽい髪が舞い上がる。その瞬間見つけた、朱色に染まる頬を流れる一筋のとても小さな光に、俺の目は釘付けになった。
——泣いて、る……?
列車はホームを抜け、構内に静寂が訪れ——ヨーコさんは言った。
「あんなぁ、リキくん。……キスは答えを言ってからにして欲しかったわ……漫画とかドラマやったら全然アリやねんけど、実際に受ける身になるとな、してる間、めっちゃ不安やってんで……?」
にへら、と泣き笑いのような、ほっとしたような表情を浮かべるヨーコさん——俺はそれを見て、自分がいかに迂闊な事をしてしまったかに気付く。
気付いて、そして改めて言った。
「ヨーコさん、『好き』だ。俺と付き合って」
「……うん、ええよ。リキくんっ」
言葉は自然と出た——俺は、ヨーコを好きになっていた。さっきまで全くそんなことはなかったはずなのに、今なら好きだとはっきりと告げる事が出来た。
俺はここでもう一度、先程の失敗の張り直しとして改めてキスを……しようとしたのだけれど、実行に移すには度胸が足りなかった。……いや、これは度胸とはまた別の問題かもしれない。
——なにせ、もう一度のキスを出来なかったのは、俺の唇にヨーコさんの唇が触れた時の感覚が未だ残ってしまっていたからなのだから。
あまりにも柔らかく、気持ちよかったその唇が、未だ俺の唇に触れているかのように感じてしまっていた——これ上さらにできるほど、俺に恋愛免疫力は備わっていない。
……俺達は自然と手を繋ぎ合わせていた——もちろん、恋人同士がする繋ぎ方で。
二人寄り添ってベンチに座り、寒空の中で電車が来るのを待つ。
この駅に止まる電車が次に来るまで、あと五分——それだけの時間しか残されていない。
寒空の下だと相手の体温を余計にはっきりと感じる事が出来て、暖房の効いている電車に乗ってこの温もりが曖昧になってしまう事を、とても惜しく思った。
——そんな時、夜空に星が瞬いているのが見えた。流れ星でないのに、なんとなく祈ってしまう。
こんな時間が永遠に続きますように、と——……
+ ー * /
「……お前とネェさんが、ねぇ。悪いとは言わねえけど……」
二年B組の教室、授業開始三十分前——先日の出来事を話すと、ユウキは意外そうに声を上げた。
今日はここ最近でも一番暖かい——そろそろ冬は終わり、春を迎えようとしているようだ。まるでそれが俺の心を表しているかのようで、気分よく話していた所に返ってきたのが、そのユウキの反応だった——それゆえ、俺は少し反発心を持ってしまう。
「なんだよ、その言いぶり。文句あんのかよ」
「いや、だから悪いとは言わねえって。てっきり、『ニア』か『ワンコ』と付き合うんだと思い込んじまってただけだ。別に、お前がそれでいいなら、いいと思うぜ」
ニアとワンコ——どちらも、俺達が一緒になってよくつるんでいる女子の名前だ。確かに仲はいい。いいが……。
——それはともかく、やはり何か含みがある良いぶりに、俺は不満を表情に出す。……どんな理由にせよ、自分の彼女を悪く言われるのは気分のいいものではない。
「そう怒んなって。てか、侮辱してるわけじゃねえっつの。……ただまあ、ネェさんと付き合うならそれなりに覚悟はできてるんだろうな、と思ってな」
「覚悟……?」
言われて、自分がどういった意思を持ってネェさん——ヨーコさんと付き合う事を決めたのかを思い出す。
「俺はヨーコさんのこと好きだよ。……あの人の笑顔をもっと見てたいと思ってる」
「……? それはいいが……そういう事じゃない。——リキ、そういう事じゃねえんだ」
俺は、訊われた質問の意味を汲み取れない——汲み取れていない事にユウキは気付いたらしい。そしてなぜか、表情を真剣なものへと変えた。
「……お前、気付いてねえみたいだから言っとくけど、ネェさんと付き合うって事と、ニアやワンコみたいな女子と付き合うってのは全然意味が違えんだぞ?」
「……どういうことだよ」
違い……なんだろうか。違うと言えば全てが違うように思えるが。しいていえば、付き合った人数、とかだろうか。ニアやワンコはいろんな男子と毎週のように付き合ったり別れたりということをしていたが——そしてそれは、ユウキにニアやワンコと付き合うと思ってた、と言われたときに思わず返答に困った理由でもある。……彼女達の周りにいればそりゃ、一度は付き合う事になるだろう、という意味だ——俺は例外になってしまったけれど。
「まず第一に、ネェさんはもう『高校三年生』なんだぞ? ——意味はわかるよな?」
「え、……あっ」
——気付く。俺はヨーコさんが高校卒業後にどうするかなどを一切知らない。この時期に俺と一緒に遊びに行ったりしているということはおそらく、既に推薦で大学が決まっているか、就職先が決まっているか、あるいはフリーターとなるか——そのどれかということになる、と思う。
進学や就職ならば、遠くの大学や勤務先である可能性も少なくない——そうなれば、別れまであと二ヶ月とないことになる。……そんなことにもすら今まで気がついていなかった。
ユウキはさらに、言葉を重ねる。
「あともう一つ。ネェさんが求めてんのは『恋』じゃねえ——『愛』だ」
「愛……?」
いつだったか、恋や愛についてユウキから説法を聞かされた気がする——いや、まだほんの一ヶ月前だったか?
自分が新しい自分へと変わってからというもの、生活の——人生の密度が高まっているように思う。様々な新しい経験の積み重なりに、その記憶は既に埋没しかけていた。
「つまりだな、ネェさんは……お前と結婚を見据えて、付き合おうとしてるっつーこったよ」
「け、結婚っ……!?」
思わず大声を出してしまう——それは俺の、そんなことは『できない』という感情の現れだった。……だってそうだろ? 高校二年生、童貞——誰かと付き合った事もなかった未成年のガキが、いきなり結婚なんて言葉を突きつけられて、怖じ気つくなという方が無理だろう。
「……やっぱり、今の反応——まだそこまでの決心や覚悟はない、ってことなんだな?」
「いや、その……好き、だけど。でもまだ、結婚とかは、その……」
うろたえてしまう——嫌な汗が体中から吹き出し始める。……俺はとんでもないことをやらかしてしまったのではないだろうか?
「今すぐネェさんに謝ってこい。土下座でも何でもして許しを乞うてこい。でなきゃ、ますます取り返しのつかない事になるぞ——ネェさんがまだ諦められる内に、全てをなかった事にしてもらえ」
ユウキの目は真剣だ——その目に射抜かれた俺は、だが、そんな事は出来ないと首を振った。
「無理……無理だってそんなの……! だって、俺、もう」
なぜかその一言だけ、やけに教室に反響した——大きく響き渡った気がした。
「——ヨーコさんとキスしちまったんだから!」
「おま、……それ、マジ——」
その時、教室の入り口で何かが落ちる音がした——振り返って見た先には、鞄を取り落とした黒い長髪の女性とが呆然と立っていた。
「高音、さん……」
口からその人物の名前が漏れていた。
俺とユウキが振り返ったタイミングは全く同時で——それは二人ともが、彼女がいつからそこにいたのか気付いていなかった、という事を意味していた。
普段なら、まるで一つの夜空がそこにあるかのように錯覚させる彼女の瞳が、今は曇り空のように光を反射してこなかった——その高音さんの視線が、驚愕を示す俺の視線と一瞬だけ交錯する。その瞳が苦しい程の悲痛を湛えているを認識した瞬間、俺は胸が急激に締め付けられたように錯覚した。——事態がさらに、悪い方向へと流れた事を俺は確信した。
胸がひどく苦しい——苦しくなっていく。
「ひっ……ひっ、はっ、ひ……」
呼吸が乱れはじめる。過呼吸、というやつなのだろうか——苦しい、苦しい、ただただ苦しい。胸をどれだけ強く押さえつけてもそれは収まらない。
「おい……大丈夫かリキ? リキ! おい!」
ダメだ——視界が歪み始める。そして歪む視界のあちこちに黒い浸食が生まれ始める——目の前の景色とその黒が混ざり、それらは意味をなさない像へと崩壊を始めていく。身体は前後左右上下の感覚を失い、ゆっくりと、傾いで、い、って——
「おいリキ! しっかりしろ! おい!」
そして俺は、プレッシャーと呼ばれる黒い浸食にその視界全てを埋め尽くされた——……
+ ー * /
……消毒液の臭い。
目が覚めて真っ先に感じたのはそれだった。
次に感じたのは赤い色と、白い色——窓から差し込む夕日と、この部屋自体の色。
——ここは保健室だった。
最後に感じた——気付いた布団の感触で、自分が眠っていたことを理解した。……あの後、気を失った俺はここに運び込まれた、ということなのだろう。
「あ、授業……」
なんだかんだと今まで皆勤賞だった事に気付き、惜しい事をしてしまったとため息を吐く——本当はもっと別に考えるべきことがあるのはわかっていた。けれど、今はもう少し休んでいたい——そう思った。
再び意識が黒に浸食され始める——外の景色は既に夕焼けさえ終わりかけ、夜へと突入しようとしていた。
完全に視界が黒に染められる直前——ベッドの脇に鞄が置いてあるのを見た気がした。
鞄は二つあった——俺のと、そしてユウキのだろう。そう判断し——それになにか引っかかりを覚えたものの、既に眠りへと落ちることは止められる段階を越えており、俺はそのまま意識を手放した。
——片方の鞄には見覚えのあるキーホルダーが付けられていたような、そんな『もしかしたらあったかもしれない』、まさしく夢のような幻想を瞼の裏に思い描きながら、俺は眠りへとついた。
+ ー * /
……次に目が覚めたとき、俺はユウキに背負われていた。
見覚えのある道——学校からの帰り道だ。
「お、起きたか?」
「起きた。……わりぃ」
ユウキの背中から降りながら——思わず謝罪が口をついた。
「いや、お前の所為じゃない。——お前の、所為じゃない」
「……ユウキ?」
家までの距離は大したものではないとはいえ、手間をかけさせた事に思わず感じた申し訳なさ——感謝の気持ちゆえにでた俺の言葉に、なぜかユウキは責任の在処を話の焦点として返事をしてきた。
「なんの話をしてんだ……?」
「なんのって、お前をこんな状況に追い込んじまった事についてに決まってんだろ!」
ユウキは言葉を荒げる——振り返ったユウキの目には深い後悔が刻まれていた。
「オレが、お前をこんな状況に追い込んじまった!」
「何言ってるんだ? ネェさんと不用意にキスしちまったのも、誰か女子と恋愛をしてみるのを望んだのも、高音さんにフられたのだって全部、俺の自業自得だよ……。なんでユウキがそんなにも——それほどまでに追いつめられた表情をしてんだよ」
わけがわからなかった。追いつめられてるのも後悔しているのも、俺であるべきはずの場面。だが、ユウキは俺以上に悲痛な表情をたたえている。
「違う、違うんだ……。ごめんリキ、本当にごめん……」
「だから、なにがだよ! 言われなきゃわからねえに決まってんだろ!?」
ユウキは、両目から涙を流しながら答えた。
「——全て、オレが仕組んだんだ……」
「……は?」
仕組んだ? 仕組んだってどういうことだ? なにを? なんのために? ——思考に空白ができる。そこに、ユウキの続く言葉が直接に叩き付けられた。
「オレ、気付いてたんだ——いや。気付いてないのはリキ——お前だけだった。お前と、高音さん自身だけだった。高音さんがお前のことが『好き』だってことを知らないのは、お前等だけだった」
「そん、な、わけ……」
俺はフられたんだぞ? そんなことはありえない。だって——だったらなんで……なんのために俺は他の女子と恋愛をする『努力』なんてしていたんだ? なんのために、高音さんを『諦め』ようとしていたんだ……?
「オレは高音さんのこと、『一途』って表現しただろ? ——あれは嘘だ。いや、一途なのは本当だと思う。でも、正確には——高音は『恋を知らない』んだ。みんなが小学校で済ましちまう『初恋』——恋愛感情ってものの理解を、あいつはまだできてねえんだ。天然記念物……いや、『異常』だ」
「異常……」
過激な表現——俺は今までに、ユウキがこれほど他人に対してきつい言葉を用いて称するのを聞いたことがない。
「異常——異常なんだよ。高音はまるで恋愛に恐怖でも抱いてみるみてえに——純真無垢であることを無意識のうちに望んじまってる。それを変えるのなんて、余程のことがない限り無理だと思ったんだ。クリスマスイブにお前が高音にフられたって聞いて確信した——『切っ掛け』を与えなけりゃ、お前の恋が実ることは永遠にありえないって」
「……ああ。だから、か」
ユウキの、『誰でもいいから女子と付き合ってみろ』という言葉——その真の理由がようやく理解できた気がした。——つまりユウキは、高音さんに『嫉妬』を覚えさせることで恋愛感情を自覚させ、俺との恋を成就させようとしていたのだ。
だがそれは、予想もしない方向に進み——道を外した。俺がネェさんとキスをしたことで、取り返しのつかないまでに進んでしまった——行き過ぎてしまった。戻れない所まで進んでしまった。
……そっか。そういうことか。
「オレが馬鹿だった。漫画みたいに、小説みたいに、全てが上手くいくと勘違いしてた。でも違った。現実ってのはオレが思ってたよりもずっと思い通りになんてならない。『夢』を見てたのは他でもない——オレ自身だった」
「なにいってんだよユウキ。結局全部、俺の自業自得ってことじゃん」
俺はあっさりと、そう言い切ることができた。
「違う——違うんだ! そうじゃないんだ! お前はあのままでよかったんだ——変わる必要なんてなかった! お前はお前のままでよかったんだ! あのまま高音と友達を続けることが正しかったんだ! そうすりゃきっと、こんな意図的に起こした計画じゃなく、きちんとした運命が巡ってきて、お前等は付き合うことになってたはずなんだ!」
「だーかーら、違うって言ってんだろバカっ!」
「ぃでっ!?」
思わず手が出る——ユウキのおでこを叩き飛ばしてしまう。
「ユウキ——お前は俺のことを思って行動してくれただけだろが。それを台無しにしちまったのは俺自身。確かに、誰かに仕組まれて自分の感情を左右させられたってのは気に食わない。——けど、だからって自分のしたことの『責任』まで奪われるのはもっと気に食わない!」
「リキ……」
なんだろう。不思議なことにユウキに言葉を吐き出していく内に自分の思考がだんだんと澄んでくる。余計な情報が全て排出され、自分が今何をすべきなのかだけがはっきりと見えてくる。余計な物がなくなって軽くなり、視線が自然、上へと持ち上がる。
「ユウキ、俺は全部のけじめをつけてくるよ。ようやく、自分が何をしたかったのがわかった」
「わかったからって、どうにかなるもんじゃあ——」
「どうにかしてくるよ。俺は『変わった』んだ——だったら、この状況だって変えられるさ。でも、変わらないものもある——俺は一ヶ月前も今も変わらず『ありきたり』だ。言えることも出来ることも全部、誰もが出来ることだけだ。でも、だからこそ、俺は全てを自分が望む答えに丸く収めてくるよ」
「……」
ユウキの涙は止まっていた。
「リキ——お前、変わったよ」
「俺はなんにも変わんないさ」
俺は歩き出す。携帯を取り出しながら、来た道をまっすぐ引き返す。
「あ、そだ、ユウキ。帰るまで鞄、預かっといてくれない?」
+ ー * /
「んでどうしたんリキくん? あたしと急に話したいやなんて、嬉しいんやけども……理由もなしにってことはもしかして、なんかサプライズとか用意してあるんかなぁ?」
にしし、とヨーコさんは笑う。
ここは公園——街灯がヨーコの姿を闇に浮かび上がらせている。いつもよりも随分と可愛らしい格好——普段は穿いているところなんて見たこともないスカートだ。その顔には照れの入った笑顔が咲いている。満天の星空にたった一つだけ備え付けられたスポットライト——その下に立つ彼女は、本当に奇麗だった。
「昨日の今日で夜中にいきなり会いたいなんて、リキくんは思ってたよりずっと積極的やってんなぁ」
俺はその笑顔をたった一歩離れただけの場所から——全てを暗闇に包まれた場所から見つめている。向こうからこちらの顔はきっと、見えない。
現在の時刻は午後八時。普段で歩いている時間から考えればそう遅くもない時間帯。けれど、これからする話は時間があったからといって解決できるかどうかわからないものだ。
ただ決まっていることは——決めていることは、俺は罪の罰を受けるべきで、受ける覚悟があるということだ。
「ヨーコさん」
「……? リキくん?」
名前を呼んだ——それだけで、ヨーコさんは何かを感じ取ったらしい。
「……あ! そうやリキくん、忘れとったわ! あたしな、今日はリキくんと一緒に生きたい所があってん! みんなと一緒やとちょっと行きづらくてなぁ、二人で出掛けることがあるなら、そこへ行ってみたいってずっと思っとってん。ここから十分くらいの所にあるお店やねんけどな——」
「ヨーコさん」
「あ、もしかして他に行きたい所あったん? じゃあしゃーないなぁ、彼氏の頼みやさかい聞いたるわ。恋人になって一回目のわがままやねんもん、聞いたらなもったいないってもんやで。あ、でも、もし時間があるならあたしの方も——」
「ヨーコさん」
「そ、そうや! もし今日時間ないっていうんやったらウチに泊まっていかへん? あたし一人暮らしやから、リキくん一人くらい一日でも二日でも、いっそ一生でも——」
「ヨーコさん!」
俺が口を開き、言葉を続けることを恐れるかのようにヨーコさんが話し——俺はそれを遮った。これからする残酷な行為に、無理矢理向き合わさせる。どこまでも最低な行いを、俺はヨーコさんに対して行う。
「い、いやや……聞きたくない。あたしはもう、あんな思い——」
俺は一歩前に進み、姿を表そうと——
「こやんで!! こっち、こやんとって!」
それをヨーコさんは拒否する。
「見たくない。今のリキくんの顔は見たくない! ……リキくん、わかるねんで。姿が見えへんくっても、今リキくんがどんな風に立っとって、どんな表情しとって、どんな目であたしを見とるか。……だからな、リキくん。明日、改めてもう一回会わへん? あたし、今日のことは忘れるわ。だからな、リキくんも今日は帰って寝え? そんで全部忘れて、もう一度、冷静な状態で明日会お? な?」
「……それはできない」
ヨーコさんはどこまでも優しい。ここに至ってもなお、俺に退路を残してくれる。やり直すチャンスをくれている。——でも、それじゃあだめなんだ。俺はもう変わってしまった。そして、変わらないものがある。けど、戻ることだけはできない。
俺にできるのは、ただそれだけ——静止を突き破り、一歩、前へと踏み出した。
「あ、あ、ああ……」
俺の姿が闇から浮き上がる——ヨーコさんはその双眸から涙を流した。覆水盆に返らず——今、決して戻ることのない水が溢れた。
「今日は、ヨーコさんに大切な話があるんだ」
「あ……う……」
ヨーコさんの身体が崩れ落ちる。ただ見上げるだけで、俺の視線も、俺の声も、拒否することすら出来なくなっていた——俺はその傍らに膝を着き、向き合う。
「俺はヨーコさんのこと、あの瞬間、本気で好きだった。好きだと思ってた。俺、女の子に告白されたのなんて人生で初めてだった。誰かに愛されたのなんて初めてだった。誰かとキスしたのなんて初めてだった。今も好き——だけど、もっと好きな人いるってことに気付いたんだ」
「う……、うぅ……」
膝を着き、手を着き、額を地面に着いた。
「——俺、ヨーコさんとは付き合えなくなった」
——衝撃。
後頭部に激痛。
——衝撃。
側頭部に激痛。
——衝撃。
こめかみに激痛。
——衝撃。
頬に激痛。
……けれど、なによりも胸が痛かった——心が痛かった。痛い心が、伝わってきていた。
「なんで、なんでなんっ! なんでまたっ——なんでまたあたしちゃう人を選ぶんっ!? なんであたしじゃあかんのん!? あたしはこんなにも好きやのに——愛してんのに! 一番、あんたのことが好きやのに! なんであたしのことは一番にしてくれへんの!? 付き合うって、言うたやん! 彼女にしてくれるって、言うたやん! 嘘やったん!? また裏切んの!? あたしを捨てんの!? あたしは、あたしはなんで——」
——いつも一人ぼっちなん……?
ヨーコさんはその言葉とともに、暴力を——殴るのを止めた。
俺は顔を上げる——地面に座り込んだままのヨーコさんは、こんなにも近くにいるのに、どこまでも孤独だった。
「リキくん……。あたしな、リキくんの優しいところが好きやった。リキくんの誰に対しても真摯なところが好きやった。リキくんのヘタレなところが好きやった。実は内弁慶でやるときはやるところが好きやった。背はあたしよりちょっと高いだけやのに、あたしよりずっと大きな手が好きやった。いろんなことに興味があって、新しいものには目ぇきらきらさせる子供っぽいところが好きやった。当たり前にそこにいとってくれて、当たり前にあたしの心の隙間を埋めてくれとった、そんなリキくんが好きやった。——ほんま、好きなところだらけやった」
「……うん」
ヨーコさんの瞳が俺を映した——ヨーコさんはついに俺と向き合った。
「だからあたしはリキくんのことを——」
「——絶対に、諦めない」
ヨーコさんの瞳には、絶対の覚悟が込められていた。
「あたしは決めてた。最初から——リキくんに告白すると決めた時から、決めてた。これで最後。これで終わり。そう、決めてた」
「ヨーコ、さん……?」
不穏な気配を感じ取る。瞳に映る決意には、取り返しのつかないことをしようとしている——そんな意思が感じ取れた。
「ヨーコさんっ!」
呼びかける。
「あたしは姐木ヨーコであなたは有田リキ。……あたし達はね、切っても切れない縁で結ばれてるの。もう二度と、逃がさない。逃がすくらいなら——」
ヨーコさんは大きく手を振り上げた——街灯で逆光となり、その手の先を視認することは出来ない。だがそれが、明確な攻撃の意思を持っていることだけは間違いがなかった。狂気が——凶器がそこにあることを、俺は幻視した。
俺は地面にから手を離し、そして——それを『受け入れる』ために、左右へと腕を開き、目を閉じた。
時間がゆっくりと流れる——もうすぐ俺はヨーコさんの悪意に貫かれて死ぬことだろう。でも、それでいい。よくないけど、受け入れる。俺はそれだけのことをした。
自分の頬を涙が伝っているのがわかる。瞼の裏の暗闇に浮かぶのは高音さんとの思い出。
最初にであったのは特別でも何でもない——たまたま。いつの間にか。偶然と。自然と。
席替えをすると、たまたま席が近いことが多かったりした。いつの間にか、欠かさず『おはよう』と『ばいばい』を言い交わすようになっていた。偶然、ユウキに誘われて遊びに行った中に高音さんも混じっていた。それ以来、自然と言葉を交わす回数や一緒に遊びに行く回数が増えていた。
ああ、いつからなのだろう。いつから俺は高音さんのことを好きになっていたのだろう。高音さんはいつから俺のことを好きになってくれていたのだろう。
心当たりはない——今の俺にあるのは心残りばかりだ。
高音さんに、もう一度、自分の思いを伝えたかった——高音さんの思いを聞きたかった。答えは同じなのだろうか。変わっているのだろうか。俺がヨーコさんとキスしたと聞いた時、ショックを受けてくれていたのは——『そういう』気持ちを感じてくれたからのだろうか。
……思いは尽きない。
そして、いつまで経っても、俺の命が尽きることもなかった。
「ヨーコ、さん……?」
逆光でその表情は伺えなくなってしまっていた。ただ、ヨーコさんの腕は振り上げられたまま硬直し——震えていた。
俺の頬が、降ってきた雨に濡れた——夜空には、星が瞬いたままだった。
「……これは誰にも言ってないことやねんけどな、あたしが初めて付き合って、そんでフられた相手っていうんはな——あたしの、実の弟やねん」
「っ!?」
それ、は……っ!
「キモチワルいかな……? でもな、本間の話。あたしは弟を愛してた。誰よりも——姉としても異性としても、愛しとった。でもあたしが中学三年生のときにな、弟が言いよってん。『俺、好きな人が出来てん。もう、こないなことはやめにしよう?』って。……あたしは暴走して、結果はこのザマ。地元から離れたとこの高校を受験して、そんで一人暮らしすることになってん……。リキくんには言ってなかったっけ? あたしな、大学には行かへん。働く——ううん、家から勘当されとるから、働くしかないねん。今はまだ仕送りしてくれとるけど、それも今年の四月まで」
……そう、だったのか。
「でもな、別にそんなもん不幸とちゃうって思っとった。リキくんと一緒やったら、不幸の内に入りゃせえへんと思っとった。全てはリキくんに会うために起きた事——運命やったんやって、受け入れられた。……でも、やっぱりただの思い込みでしかなかってん」
ヨーコさんが下ろした手の先には、何もなかった——『空っぽ』があるだけだった。
そしてその手を俺の背へと回した——俺はずっと、受け入れるように腕を開いたままだった。
ヨーコさんは顔を押し付けるようにして俺へしがみつく——抱きしめる。……俺は抱きしめ返さない。
「あたしは当たり前のようにそこにおってくれるその姿に、弟の影を見とっただけなんかもしれへん。きっと、だからリキくんの一番にはなれへんかったんやろね……。何となく今それが、わかった気がする」
「それは……俺も、同じ。俺はヨーコさんが『リキくん』って呼んでくれたことに——自分が好きな人の影を重ねてただけだった」
「案外あたしら、似たもん同士やったんかもしれへんね。だからこそ、あたしはリキくんに惹かれたんかもしれへん」
ヨーコさんはそういって顔を上げた——そこには、錯覚ではなく、本当に好きになってしまいそうなほど奇麗で可愛らしい笑顔をした少女がいた。
「リキくん、行かなあかんところあるんとちゃうん?」
「ヨーコさんこそ」
お互いに言葉を交わす。最後の挨拶——『別れ』の言葉だ。
「告白、してきます」
「あたしも、過去と向き合ってくるわ」
俺達は立ち上がり、一歩、一歩と距離を離していく。
「好きでした。ヨーコさん」
「好きやったで。リキくん」
そして、お互いがスポットライトの外へ——それぞれの物語へと、向かい始める。
「今まで、ありがとうございました」
「今まで、おおきにな」
俺達は別れに謝罪を交わさなかった。ただ、感謝のみを伝えた。
アンコールの声はどこからも上がらない、けれど、物語はまだ終わらない。
+ ー * /
「……その、大丈夫、だった?」
「……うん」
高音さんは視線を逸らしながら問うてくる——俺が倒れたときのことを心配してくれているのだろう。けれど、彼女がそれ以外のことを意識しているのは明白だった。
ここはヨーコさんと話した公園ではない——高音さんの自宅にほど近い、別の公園だ。
高音さんに会いたいという旨を伝えた連絡を送ったところ、その場所を指定されたのだ。
……なぜか彼女は、制服のままだった。スカートには皺が、髪にはクセが、目元には——泣いた跡があった。
「それ、で……どうしたの? 話って……?」
「う、うん……」
……どうした俺!? さっきまでの決意は!? 覚悟は!?
自分でもびっくりするほど上手く言葉がでない。伝えなきゃ行けないことはたくさんあるはずなのに、高音さんを前にした途端、身体は完全に硬直し、口の中は乾ききっていた。
「あんまり、遅くまで出歩いてると、お父さんとお母さんに怒られるから……」
高音さんが、ちらりと公園に設置された時計へと視線を送る。つられて俺も時計に目をやってしまう——時刻は午後十時を指し示そうとしていた。
「それに、こんなところ——夜中に他の女と二人きりでいるところなんて見られたら、彼女に——ヨーコさんに嫌われるよ?」
ピクッ——『ヨーコさん』という単語に身体が過剰反応する。
「やっぱり、彼女なんだ……。変わっちゃったのは見た目だけじゃなくて、中身もなんだね……」
「ち、ちがっ——」
「違くないよ——違くないでしょ? リキくんは、変わったでしょ?」
「そうじゃなくて——!」
否定しようとしたのは『彼女である』ということについてだ——俺はもうヨーコさんとは別れてきた。……変わったのは、本当。
そしてその変わった——変わることを、高音さんは望んでいなかった。
「わたしは別にリキくんとはただの友達だから、全然気にしないよ。誰と付き合うのかなんて自由だし、だからって友達じゃなくなることもない。——けど、リキくん自身が変わっちゃったら、わたしは友達でいられる自身がない。もう、友達じゃいれないよ……」
「——友達じゃないと、だめなの?」
俺は高音さんの言い分に思わず言い返していた。今の自分を否定されることは——変わったことを間違いだと言われるのは、決して看過できなかった。ユウキが力を貸してくれ、新しく知り合った人達と馬鹿をやって、ヨーコさんを通じて恋愛を知った今の俺を、否定されることだけは許せなかった。
「高音さん、俺は今日、その話をしに来たんだ——俺と高音さんの『これからの関係』を」
「っ!」
高音さんはキッと俺を睨みつける。この公園は街灯の数が多く、その表情はよく見えた。
「これからのってなに? あ、そっか、そういうことか。彼女が出来たから今後は関わらないでくださいってこと? そんなのメールとかでいいじゃん! どーせ元から、最近はほとんど会話も——」
「高音さんが好きだ」
「——してなか……、え?」
……そのタイミングはねえだろ俺ぇええ!
明らかに告白するべきではないタイミング——だが俺は思わず口に出してしまっていた。先程まで上手くなにも話せていなかったというのに、高音さんの言葉を聞いているうちに思わず言ってしまっていた。
ムカついて、衝動的に言ってしまって——しまってしまっていた。
「……なん、て、」
「高音さんが好きだ」
「……」
「高音さんが、好きなんだ。他の誰でもない、高音さんが」
寒い。熱い。熱い。気温による寒さと、胸の奥底と頭の中心からわき起こる熱で、もう温度に対する感覚器官はアラートを鳴らしっぱなしだった。色々、熱が——感情が混じり合っていく。自分でもなにがしたいのかわからなくなっていく。
ただそんな、ごちゃまぜになった感情を口からだらだらと吐き出し——漏れ出させてしまう。
「ヨーコさんとは別れた。今、さっき。……俺、なんにもわかってなかった。自分の気持ちをなんにもわかってなかった。自分が何をしたくて、何が好きで、何の為に行動するのか、全然わかってなかった。自分がどうなりたいのか、全然わかってなかった」
「わ、わか……ええっ!? なんで!? どうして!? リキくん何考えてるの!? リキくん持てないんだから、一生に一度のチャンスかも知れないんだよ!? てか、ええ!? わたしが、好き……? なんで!? どうして!? まだ好きなの!? 友達だって——付き合えないって、わたし言ったのに……っ!」
高音さんも、俺のごちゃまぜが伝染したように混乱し始める。今まで見たことない様々な表情を百面相で見せてくれている。
「俺、自分の気持ちに嘘吐こうとしてた。フられて、諦めて、新しい恋で誤摩化そうとしてた。でも、だめだった。高音さんじゃなきゃ、だめなんだ。俺は高音さんが好きだ! 世界で一番好きだ! 俺と付き合ってください!」
「……あ、はは」
高音さんの口から枯れた笑い声が漏れだす。
「なんだ……全部わたしのせいだ。わたしがリキくんをフったから——フったのに、友達でいることなんて強要したから……。わたし全然、なんにもわかってなかった。リキくんは何もわかってない、なんて思って空回りして——全部、自業自得だったんじゃない——」
「——違う。そうじゃないんだ、高音さん。間違ってたのは俺だった。俺は、あのとき——『逃げた』んだ。前に進まず、留まりもせず、後ろへと退いた——それだけはやっちゃだめだったのに。俺はあの時、はっきりと告げるべきだったんだ——」
「——俺は高音さんにフられても、高音さんを好きなままでいるけど……それでもいい?」
「あ、ぅ……」
高音さんは、とても奇麗な涙を流した。頬を伝うその涙が、俺には世界中のどんな宝石よりも奇麗に見えた。
「……だめって言われても、好きなものは変えようがないんだけどね。俺は『ありきたり』——変わらないことが、取り柄だから」
「言いたかったのはそれだけ。もし、今後は顔も見たくないっていうんだったら、今はっきりと言って。そのときは俺も、覚悟を決めるから。……返事は明日、学校の教室で——」そういつかのユウキのように言い残してこの場から立ち去ろうと、身を翻したそのとき——背中にドンと衝撃を受けた。高音さんが、俺の背にぶつかってきていた。
「——わたし、まだ、好きとかよくわからない」
背中に感じるそれはとても暖かくて、伝播するように触れている部分も暖かく——それ以上に熱くなる。
「でも、ね……わたし、リキくんと一生一緒にいたい。二度と離れたくなんかない。ずっと、わたしのそばにいて欲しい。……これって、大切な友達が相手なら誰でも覚える感情? それとも——『恋』、なのかな?」
俺は衝動を抑えきれなくなっていた。
勢いよく振り返り、高音さんの背中と頬に手を当てていた。あの時、あの瞬間と同じように——ヨーコさんの頬に手を当てたときのように。
違うのは、俺はヨーコさんから既に学んでいるということだ——告白はキスの前に。
「それは恋だ、と思う。俺もまだ、恋っていうのが——恋愛ってやつをイマイチ理解できてないみたいだから。……でも、間違いないことがある。——俺は、高音さんのことが——『スズ』が好きだ。付き合って欲しい」
「……リキくん。わたしに、恋を教えて」
そうしてその日、俺のありきたりに関する物語はおおよその終結を迎えた——……
+ ー * /
——だからここから先は、単なる蛇足。
二年生一学期が開始する少し前のこと。俺達——俺とスズは、休みが終わる前に——と二人でお花見へ行こうとしていた。
スズが作ったお弁当を片手に持ち、もう片方の手は彼女の手を引いて。
——もう随分と暖かくなった。手を繋いでいると熱いくらい——って、それは前からそうだった。
川に沿って植えてある桜並木で出来た桜のトンネルを、二人で歩く。どうやらみんな考えることは同じようで、たくさんの人達があちこちでシートを広げていた。
——と、そのとき。向こう側から歩いてくる家族連れ——その内の一人が、こちらを指差し大声を出した。
「あ、あああああああーーーーー! リキくんやん!!」
「え……、え? ヨーコさ——ぃたたたたた! スズ、痛い! 手、痛いから!」
駆け寄ってくる女性——その名前を呼んだと同時に俺の手はあイタタタタ! いや別に今のは『愛』ゆえに『痛い』と掛けたわけでは——ごめん、とにかく緩めて! 緩めて!
スズはここ一ヶ月ちょっとでかなり愛情表現が豊かになった——のはいいのだけれど、妙に攻撃的な表現が多い気がするのはスズ自身の隠されていた性質か——あるいは俺の隠れた性癖の所為か。……いや、俺はノーマルですよ? もちろん普通ですとも! ありきたりの名にかけて!
「てか髪の毛、真っ黒に染めたんやねぇ——いや、元に戻したんかな? あたしは、どっちも好きかな」
「う、うん……そう、ありがと……」
『好き』という言葉に反応してさらに締め上げられていく万力に必死に耐え忍びながら——ヨーコさんの背後にいる人達に気付く。
四十代に見える男女と、俺達より少し年下に見える青年。
「あ、もしかして後ろの人達って?」
「そ、あたしの家族! 泊まるんはウチの部屋使ったらええからって言うて、みんな呼んでん! 今は家族でこの辺を回ったりして休暇を謳歌してるとこやねん!」
「娘がお世話になっとるそうで——」「この子は昔っから、こうや決めたら絶対曲げへん頑固なところがあるさかい——」「……ども」と三者三様の挨拶を受ける。こちらも、「どうも初めまして。娘さんにはお世話になってます——」と挨拶を返す。
——会話をしていていると自然にわかる。家族四人みんながすごく仲がいいことが、伝わってくる——弟くんはやや素っ気ない態度を取っているものの、態度や言葉の端々から家族全員を大切に思っていることは明らかだった。
「……仲直り、したんだね」
「当たり前やろ。あそこまでリキくんに言われて——言って、何も出来ずに帰ってきましたじゃあ格好つかへんもん」
にしし、と笑う。だが何かを思い出したかのように「あ!」と声を上げた——その声に全員がヨーコに注目した。
「そや。おとん、おかん。言うの忘れとったけど——この人があたしの彼氏やねん」
「——なっ!?!?」
「ど、どういうことリキくん!?」
どういうこと!? ——って聞きたいのはこっちだ!
お父様とお母様の視線が急に鋭くなっている。弟くんからも訝しむような視線。そして何より、真横から感じる圧倒的なプレッシャー——身体はガッチガチに固まっていた。
それでもなんとか、掠れた声ながら質問を出した。
「ど、どういう、こと……?」
ヨーコさんはにしし、と笑う——それはもう、茶目っ気たっぷりに。お茶目に。いたずらっ子の笑顔で。
「どうもこうもないやろ? ——だってあたし、一度だって『別れる』なんて言ってへんもん! 『絶対に諦めへん』やったら、言った記憶あるけど」
「……あ」
確かにその通りであったことを理解し、思わずそれが口に漏れてしまった。
「どーいうことなのかなーリキくん……? もちろん、わたしに説明してくれるんだよね……? ねぇ? ねぇ!?」
「あ、その、えーっと……」
視線が右へ左へ上へ下へ、どうにかスズの追求から逃げようと、惑う。きょろきょろ。
……なぜかヨーコさんの家族は『ああ、またか……』『そういうことか……』みたいな目で彼等が長女に視線を向けていた。
そしてこんな状況を作った彼女は、俺の手を意地でも放そうとしない——どころか握力を増すばかりのスズへ、じーっ、と視線を向けた後、朗らかな笑顔で言った。
「君はリキくんの妹さんかなぁ? 可愛ええなぁ。お姉さんのこと、お姉ちゃんって呼んでええで?」
——ブチッ。
——彼等彼女等の人生はこれからも続いていく。
けど——あたりまえだけど、終わりは必ずやってくる。
普通で、特別で、普通だからこそ特別で、特別になりたくて、でも特別であることは難しい。そんな彼を主人公とした物語は、ここで幕を閉じる。
ありきたり? いいじゃないか。
テンプレ? それもよし。
ご都合主義? べつにオッケー。
全ては丸く収まって、こうしてお開き、ちゃんちゃかちゃん。
……でも——あたりまえだけど、終わらないものだって必ずある。自分で決めない限り、永遠と続いていくものだって——永遠にそこにあり続けるものだってある。
それはきっと、そう——。
例えば、『恋愛感情』とか呼ばれるもので——……
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました!