冬来たりなば (BL)
『雪女』に会ったことがある、と言ったら君は信じるだろうか……。
あれはまだ就学前のこと、県内に住む叔母がランドセルを買ってくれると言うので、母に連れられて泊まりがけで遊びに行った時のことだ。
「お母さん、見て! 雪だよ!」
そろそろ春一番が吹きそうだと言うのに、夕刻に降り出した雨は夜半に雪に変わり、朝起きたら辺り一面真っ白だった。関東で雪が積もることは数えるほどしかないので、大急ぎで母親が出してくれたジャンパーやマフラーを着けて玄関に急ぐ。もちろん、お気に入りの手袋も忘れない。
「ミチコのお下がりが履ければいいんだけど」
叔母が、今は中学に通う従姉妹が子供の頃に履いていたらしい赤い長靴を下駄箱から出してくれる。
「裏の公園だけよ。遠くには行かないでね」
叔母の家の裏には小さな公園があり、窓から見ることが出来る。
「うん!」
玄関まで付いて来た母親に元気よく答えて外に出た。
大喜びでザクザクと雪を踏みしだきながら公園に向かうと、しかし、そこにはもう先客がいた。
「あれ……」
その公園には小さいながらもブランコと滑り台があり、そのブランコの一つに自分と同じ年格好の子供が一人、特に漕ぐでもなくちょこんと座っている。
「ちぇ! 一番乗りだと思ったのになー!」
わざと不満げに言いながらザクザクと公園の中に入って行くと、俯いていたその子が驚いたように顔を上げる。黒目勝ちの大きな目に赤い小さな唇。びっくりするほど色が白くて、女の子のように可愛い子だった。
「お前、名前は?」
ブランコの前まで歩いて行って、わざと照れ隠しにぶっきら棒に問うと、ユキヤ、という応えが返って来る。声も女の子みたいで可愛かった。
「オレはソウタだ。よし、ユキヤ、遊ぼうぜ!」
誰も踏んでいない公園中の雪に、競争で足跡を付けていく。最初は当惑気味だったユキヤも、すぐにキャッキャと声を上げて公園中を駆け回った。笑い声も凄く可愛かった。
「あー、疲れたー!」
さすがに汗だくになり、雪の上に大の字になって寝転ぶと、背中に当たる雪が火照った体に気持ち良い。思わずフーと息を吐いて目を閉じると、途端にスゥッと睡魔に襲われた。
「雪の上で寝ちゃダメだよ」
ユキヤが言って、手を掴んで引く。俺はその手の冷たさにびっくりして起き上がった。
「手袋してなかったのか?」
急いで立ち上がり、自分の手袋をはずしてユキヤの小さな手にはめる。手の甲に大好きな仮面ライダーの絵が付いた手袋だったが、ユキヤにならあげても良かった。
「これ……」
その手袋をユキヤが不思議そうに見下ろす。
「やるよ」
ちょっと得意になって言いながら、人差し指の背で鼻の下をこすって、へへ、と笑った。
「ユキヤは友達だからな!」
「ともだち……」
ユキヤが手袋を見詰めたままぼんやりと呟く。やがて、その顔がふわりと嬉しそうに綻んだ。
「ありがとう」
その時、突然ヒューッと冷たい突風が吹いて、思わずブルッと身震いする。すると、ユキヤが顔を上げて公園の入口を見た。
「ユキヤ?」
同じように公園の入口を見ると、一人の女が立っている。色白で髪の長い、とても綺麗な人だった。
「ユキヤのお母さん?」
何となく似ていると思って問うと、ユキヤがその女を見たままそっと囁く。
「絶対に返事をしないでね……」
「え?」
意味がわからずに問い返し、再び公園の入口を見ようとしてギョッとした。なぜなら、さっきまでそこにいた女がすぐ目の前に立っていたからだ。
「わ……」
いったいいつ来たのだろうかと不思議に思う。その女は近くで見ると、人間とは思えないくらいに綺麗だった。
「お友達?」
その女が自分を見詰めながらユキヤに尋ねる。ユキヤはその女を見上げると、小さく息を吸ってから答えた。
「違うよ」
その言葉に驚いて思わずユキヤを見る。ユキヤはクルリと踵を返すと、もうこちらには目もくれずにすたすたと公園の出口へと歩き出した。その女は、そう、と答えると、スイと視線を逸らしてその後に続く。自分はその女のことよりも、ユキヤに友達ではないと言われたことの方がショックで、ただぼんやりと二人の後ろ姿を見送った。
「転校生だ。みんな仲良くするように」
高校も三年生の二学期という時期外れの転校生に、途端に教室内がザワつく。それは転校生が珍しいのではなく、その転校生の人並外れた容姿のせいだった。
「上里雪也です。よろしくお願いします」
色白の小さな顔にサラサラの黒髪、長い睫毛で縁取られた黒目勝ちの目や小さな赤い唇は、同じ高校のどの女子よりも綺麗だった。
(ユキヤ……!)
一目見た瞬間に、俺はそれが幼い日に会った『ユキヤ』だと気付く。背が伸びてすっかり大人びた顔になったが、それでも昔の面影はあった。思わずポカンと口を開けて見詰めていると、雪也もこちらに気付いて視線を止める。その形の良い唇が、一瞬だけ小さく笑みの形に引かれた。
「僕のこと……憶えてる?」
休み時間になり、先に声を掛けて来たのは雪也の方だった。途端に周りにいた連中がザワめく。それはそうだ。注目の的の転校生が、クラスでも一番目立たない俺に真っ先に声を掛けたのだから。俺はそれらの視線を無視して頷く。
「憶えてるよ」
憶えているとも。忘れたことなど一度も無かった。それは俺にとっては少なからずショックな記憶だった筈なのに、ユキヤも自分のことを憶えていてくれたのだと知って心が浮かれ上がる。ユキヤに会えた。ユキヤが戻って来てくれた。それが嬉しくて嬉しくて、俺はそんな自分が恥ずかしくて笑った。
「おかえり……ユキヤ」
その日から俺たちは毎日のように一緒に帰るようになった。帰りはいつも俺の家に寄り、一緒に受験勉強をする。雪也は頭が良くて、俺は随分世話になった。
やがて冬休みになり、明けてセンター試験に突入する。二月になると学校は自由登校となったが、入試ラッシュのお陰で自由な時間は全く無かった。
「ちょっと出掛けて来る」
ようやく受験から解放されたのは二月も終わりで、気付けばもう卒業式まで一週間である。連絡を取りたかったが雪也は携帯電話を持っておらず、自宅の電話番号もわからなかったので、とりあえず俺は雪也との唯一の接点である叔母の家の裏の公園に向かうことにした。そこに行けば雪也に会えると思ったわけではないが、電車で三十分ほどのところなので散歩にも丁度良い。というのは単なる詭弁で、俺はどうしても雪也に会いたかったのだ。会って、とにかく何か話したかった。
「あ、ここだ……」
叔母の家にはいつも車で行くので、駅からの地図を頼りに二十分ほど歩く。着いてみればその公園は記憶にあるものよりもかなり小さく、児童公園とは名ばかりの空き地だった。その片隅にあるブランコに誰かが俯いて座っている。
「雪也……!」
半ば信じられずに思わず名を呼ぶと、雪也も驚いたように顔を上げて目を見開いた。
「爽太……」
「やっぱりこの近くだったんだな」
ブランコに歩み寄り、隣に腰掛けながら言うと、少し揺れただけで古いブランコがキィと哀しそうな音をたてる。
「受験が全部終わったんで連絡取ろうと思ったんだけどさ、よく考えたら雪也の連絡先とか聞いてなくて」
それで唯一の手掛かりであるこの公園に来た、と言うと、雪也が眉尻を下げて笑う。
「良かった……もう会えないかと思った」
「え?」
雪也の言葉に、俺は驚いて目を見開く。
「今日でサヨナラなんだ……」
「また引っ越すのか?」
驚いて尋ねると、雪也はコクンと頷いた。
「でも……」
卒業式には出ないのかと問うと、雪也が寂しそうに笑う。
「僕も爽太と一緒に卒業したかったんだけど……」
「どこに引っ越すんだ?」
近くなら会いに行こうと思って問うと、北だよ、という言葉が返って来た。
「北……北海道?」
尋ねると、雪也が再び寂しそうに微笑む。その儚げな笑みに、俺は咄嗟に手を伸ばすと、ブランコを握り締めている雪也の白い華奢な手を掴んだ。
「住所がわかったら教えてくれ! 俺、絶対に会いに行くから!」
「爽太……」
なぜだか焦ってバカみたいに必死になって言うと、不意に雪也の瞳が潤む。そして、再び眉尻を下げて泣きそうに微笑むと、自分の手を握り締めている俺の手にそっと冷えた額を押し当てた。
「また冬が来たら……会いに来てもいい?」
囁きのような問い掛けに、俺は思わず胸を衝かれる。本当に行ってしまうのだと思い、離したくない衝動に駆られて抱き締めようとした。その時、不意に冷たい突風がヒューッと吹いて、俺は思わずブルリと震える。雪也がハッと顔を上げて、公園の入口を見た。
(あ……)
つられて同じ方を見た俺は、過去にも同じ場面があったことを思い出す。そこには過日に見た美しい女が、昔と寸分違わぬ姿で立っていた。
「何か聞かれても絶対に返事をしないでね……爽太」
まるであの日の再現のように、雪也がそう言って立ち上がる。チラと幸也を見た俺は、次の瞬間、視線を戻してギョッとした。今まで公園の入口にいた筈の女がすぐ目の前に立っている。その女はやはり雪也に似ていたが、人間でないことは確かだった。
「お友達?」
女が俺を凝視しながら、雪也に過日と同じ質問をする。女の吐く息が顔にかかり、あまりの冷たさに一瞬息が止まった。
「違うよ」
雪也が小さく息を吸い、過日と同じように答える。今なら幼い雪也がなぜ嘘をついたのかが理解出来た。
「嘘」
女が俺を見詰めたまま面白そうに言う。
「お友達なんでしょう?」
今度は雪也にではなく俺に対して問い、途端に俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。違う、という言葉が喉の奥で凍り付く。
「違うよ、その人は違うんだ」
雪也は落ち着いた声音でそう言うと、女の手首を掴んでそっと引いた。
「それよりも早く行かないと……グズグズしていると追いつかれるよ」
雪也の言葉に、ようやく女が、そうね、と答えて視線を逸らす。そして二人は過日同様、もうこちらを振り返ることなくその公園を出て行った。
「雪也……」
呪縛から解放された俺は、ドッと脱力してその場に膝を突く。人外のものに遭ってしまったという恐怖よりも、雪也が行ってしまったというショックの方が大きかった。それからどうやって自宅に戻ったのかは憶えていない。翌日のニュースで、都心でも春一番が吹いたことを知った。
「お、まだ残業してたのか。適当に切り上げて早く帰れよ」
「お疲れ様です」
高校を卒業した俺は、私立の三流大学を出て地元の小さな会社に就職した。勉強嫌いだった俺が、三流とはいえ何とか大学を出て就職出来たのも雪也のお陰である。雪也に毎日のように勉強を見て貰わなければ、今の俺はなかったに違いない。
「どれ、帰るか……」
就職して五年目くらいから親戚の叔母さんが見合い話を持って来るようになったが、何となくその気になれなくてのらりくらりとかわし続けている。が、俺ももう三十だ。そろそろ強引に進められそうな気配だった。
「寒いな……」
暖房や照明のスイッチを切って廊下に出ると、思いの外の寒さにブルリと震える。玄関に鍵をかけて通りに出ると、空から落ちて来る白いものに気付いた。
「雪だ……」
初雪の舞う季節だと知り、郷愁に似た切なさに胸の奥がチリと痛む。既に十時を回った通りに人影は無く、舗道は薄っすらと白くなり始めていた。
(雪也……)
雪也が最初に現れたのは小学校に上がる前、思えばあれが初恋だった。女の子のように可愛い雪也に俺は一目で恋をした。幼さ故にそれが恋だとは気付かなかったけれど、あれは確かに初恋だった。
次に現れたのは高三の時で、更に綺麗になった雪也に俺は二度目の恋をした。バカな俺は同性故にそれが恋だとは気付かなかったけれど、離したくない、抱き締めたいと思った、あの衝動は確かに恋だった。
『また冬が来たら……会いに来てもいい?』
思えば、雪也が俺に何かを願ったのはあの一度きりだった。あれから何度も冬が来たが、まだ雪也には会えていない。何度かあの公園にも行ってみたが、数年前に近くに大きな公園が出来たので潰され、雪也との思い出の場所は無くなった。
もしかしたら雪也は十二年おきに現れるのではないかと思い始めたのは最近のことで、単なる憶測に過ぎなかったが、もう二度と会えないのではないかと思い始めていた俺にとっては一縷の望みとなる。それは単なる偶然かもしれなかったが、『十二年』という周期には何となく信憑性があった。と同時に、もし今年も会えなかったら自分はどうするのだろうかと考えて胸がきしむ。もし諦めてしまったら、もう二度と雪也には会えないような気がした。
『また冬が来たら……』
何度も何度も頭の中で繰り返した言葉が、再び耳の奥に蘇える。俺は空を見上げると、目を閉じて大きく両手を広げた。
「雪也……」
全身で雪を受け止めながら、ひっそりと囁く。
「連れて行きたいなら連れて行け……」
あの女がもし雪女だとしたら、共に去って行った雪也も同じようなモノなのだろう。だが、それでもいいと俺は思った。
「だから、会いに来い……」
会いたい、会ってこの腕に抱き締めたい、ただその想いだけが胸の中を熱く占める。
「雪也……」
額に、頬に、唇に、冷たい雪が口付けのように舞い下りて優しく濡らす。俺はじっと目を閉じたまま、小さく息を吸った。
「好きだ……」
『爽太……』
不意に耳元を冷たい風が過ぎて、懐かしい声に呼ばれたような気がする。そっと目を開けると、目蓋の上で解けた雪が優しく頬を伝った。
了