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「酷い目に合ったなぁ……」
太陽も顔を出した、清々しい朝方。
登校中であろう少女の呟きは、そんな清々しい日に相反するような暗いものだった。
学校指定のものであろう白いセーラー服を着用している少女は、何処と無く顔色の悪いまま歩を進めている。端から見れば、とても希望に満ちた登校中の学生の表情には見えなかった。悪く見れば悩みを抱えているようにも、というか悩みを抱えているにしか見えない。
実際の所、少女は他人に相談する程の悩みを抱えてはいない。単純に先程の呟き通り、酷い目に合っただけだ。“だけ”で済む程可愛いものでもないと、少女は深々と嘆息するのだが。
――脳裏に焼き付いて離れない、自身を襲う異形の怪物の姿。
少女は件の後、真っ直ぐ帰宅はしたものの、それまでに遭遇した現実を母に話す事は出来なかった。父をヴォイドによる被害で亡くして、未だ心に負った深い傷は癒えていないというのに、実の娘が無事だったとはいえヴォイドに襲われたと聞くと……この後を想像したくない。少女は首を思いきり横に振って忘れるように努めた。
一家の大黒柱代理を自称する母も、父の死には悲しみを隠せずに、いつもの底抜けの明るさが失せた程だ。昨日自分が襲われた事を話すと、きっと更に塞ぎ込むか、下手をすればまた引っ越しするとか言い出すだろう。それだけは避けたかった。
なるだけ昨日は平静を装っていたせいか、やけに朝っぱらから疲れが溜まっていると常々思う少女だった。健康の為にも気を付けようと、改めて決心した瞬間でもあった。
何より、毎日を無事で生き抜く為にも。大袈裟かもしれないが、昨日の事を思うと洒落にならない気がする。こんな所で怪物に襲われるとか、平和な日常はどこへ行った。
ふと思い出したように、少女はブレザーのポケットから突っ込んでいた左手を引き抜く。左手には、ポケットの中に入っていたであろう物が握られていた。
丁度、手帳程の大きさのカード状の機械。薄いグレーに塗装された上に、真っ白なラインが刻まれている。
――マギアだ。
少なくとも、少女はコレを使って戦う存在“リアル・ウィザーズ”ではない。何故持っているかと問われても、父が自分に渡す予定だった物、としか答えられない。
父は何かしらの研究後、自宅に帰宅中にヴォイドによって殺害された。その時の遺品というべきか、父の手にはコレが握られてあったという。何故だか自分の名前が書いてあった付箋付きで。
ヴォイドによる被害を危惧して、父の知り合い曰く「サンプル品」なる物を、自分に護身用として託そうとしていたらしい、という話は訊いた。護身用とはいえサンプル品でそんな事が出来るか、少女には甚だ疑問ではあったが、今となっては大切な御守りとして、常日頃持っていた。
暫く眺めた後、ソレをポケットの中にしまう。ふと顔を上げると、気が付けば視界には大きな校舎が聳えるように構えていた。
慌てて見渡すと、自分と同じ制服を着た生徒達が、これまた慌てた様子で校舎へと向かっている。左手首に付けた腕時計を見やると、時間はもう予鈴ギリギリだ。流石に自分も出るのが遅すぎたかもしれない。転校早々遅刻というのは避けたい。
少女は苦笑しながら、周囲に倣って駆け足で校舎に向かった。
ローファーで走るというのは若干辛いものがあったが、特に気に留める事も無く、とにかくこの校舎にあるであろう教員室を探す。案外ソレに時間が掛かる事も無く、校舎に入ってすぐ突き当たりに教員室の入り口を発見した。クリーム色に塗装された、スライド式の扉だ。
「失礼します!」
鳴り響く予鈴をバックに、ガラリ、と少女は勢い良く扉を開ける。ほぼ時間ギリギリだった為か、突然の来訪者に中にいる教師達は一斉に少女を見やる。転校先で早々、少女の顔は紅潮してしまった。
そんな少女を見て、一番近くにいた若い女性の教師が、苦笑いしつつ少女に歩み寄る。右手には受け持っている学級のものであろう出席簿を携えている。
女性教師は明るい笑みを浮かべながら、
「初めまして。あなたが転校生、だよね?」
「あ、はい。私は――」
「ああ、名前はまだ良いよ」
「……へ?」
名乗ろうとした所で、何故だか名乗る事を止められた。
怪訝な顔で少女は首を軽く傾げる。少女の言いたい事も解るのだろう、女性教師は手をヒラヒラと振りながら、一辺の曇りも無い笑みのまま続けた。
「や、私が受け持つ学級に転校生なんて来るの初めてだからさ、どーせなら生徒達と同じ視点でお迎えしようかと思ってね。出来れば、自己紹介は教室でお願いね」
「……はぁ」
多分悪い人ではない。と、少女は直感的に判断した。初対面で判断すると、人柄は中々の好印象だ。
ぶっちゃけ変わった人だ。とも、少女は直感的に判断してみた。少なくとも少女が出会った教師の中でも、恐らく初めてのタイプかもしれない。似たような教師はいたけれど、初対面で変わった主義を聞かされるのは初めてだった。今後もこんな事は無いと思う。多分。
……無いんじゃないかな、きっと。
「それじゃー着いて来て。教室は三階にあるからねー」
ハッと気付くと、いつの間にやら教員室から出ていた女性教師が手招きしている。慌てて少女もその後を追った。
そういえば女性教師の名前も教えてもらってないなと、少女はふと思った。取りあえず自分が自己紹介した時にでも教えてくれるのだろうと期待してみる。
しかしながら、今更のように少女は緊張してきた。胸に手を当てたり脈を測ったりしなくても、鼓動が高まっているのが解る。
上がり症という訳でもないが、どうも人並みより少し上くらいか、自分は何やら緊張しやすい節がある。流石に今回は、転校という新たな学校生活のスタートによるものだから、同じ立場だったらきっと誰でも緊張する筈だ。と、少女は無理矢理自分を正当化してみた。正当化した所で緊張が収まる筈も無いが。
「じゃ、君はそこで待っててねー」
思考に没頭していて気付かなかったが、いつの間にやら、自分がこれから学ぶ場所と思しき教室が目の前にあった。さっきから考え込みすぎだろ気付かなすぎだろ、ちょっと待って心の準備が。少女の鼓動は最高潮に達するが、そんな彼女を他所に女性教師はスタスタと教室へと入って行った。
「うっわ、緊張する……」
落ち着け落ち着け、絶対舌を噛むなよ私。大丈夫、落ち着けば恥は掻かない。
自己暗示しつつ、再び少女は深呼吸をする。鼓動も大分収まってきた、よし大丈夫。胸の辺りに握り拳を作って、少女は静かに気合いを入れる。
「おーい生徒諸君! 吉報だ、転校生がやって来るぞ!」
「マジでかああああ!?」
「カズキちゃーん! 転校生は男子、女子!?」
「ふっふっふ、特に男子は喜べ……キュートな女子だーッ!」
「マジかキタコレええええ!」
何してくれてやがるんですかカズキちゃん。
前言撤回。全然大丈夫じゃ無かった。
段々と別の意味で緊張してきた少女を知ってか知らずか、カズキちゃんと呼ばれた女性教師はどんどん話を進めていく。
「さぁさぁ生徒諸君、早速ご覧に入れましょうか……転校生、come on!」
流暢な英語で言われてしまった。あれ、なんだか少し頭が痛くなってきたような。
初対面の時の印象を跡形も無くブチ壊してくれたカズキちゃんの指示に、ぶっちゃけ無視してしまおうかとも思った少女だが、流石に転校初日くらいは耐えようとの結論に至り、意を決して扉を開けた。
「はい拍手ー!」
拍手喝采で迎えられてしまった。
とうとう緊張が最高潮に達してきたというか、なんだか今すぐ引き返したい衝動に駈られてきたというか。しかし今更後戻りは出来ないので、前進あるのみというべきか。顔を真っ赤にしながら少女は恐る恐る教壇に向かった。
とはいえその動きは、登校中の時と比べて遥かに覚束無く、さながら壊れたロボットのようにも見える。頭が若干パニックに陥っている少女には、そんな事すらも理解していないのだが、それはさておき。
教壇の丁度真ん中へと辿り着いた少女は、紅潮した顔のまま改めてクラスメートの面々を眺める。彼等はそんな少女の様子を見て拍手を止め、少女の動きを待った。
……この空気が、尚少女の緊張を高ぶらせる。そんなうまく言葉の出ない少女を見てか、カズキちゃんは何やら不敵な笑みを浮かべ、
「えと、あのその」
「おーし転校生、深呼吸だ。ふかーく息を吸ってぇ」
「え、えと……すぅぅぅぅ」
「もっともっと吸ってぇ」
「すぅぅぅぅぅぅぅ」
「連続五時間程ソレを続けてぇ」
「え、ちょ、それなんて無茶振り!?」
ツッコミスキルはまあまあかと呟くカズキちゃんを尻目に、少女は噎せながら涙目で抗議した。
「私を、ごほっ、殺す気でッ、ごほっごほっ」
「あーごめん。大丈夫?」
「大丈夫、ですけど……」
「よし、も一つ聞いても良いかな?」
漸く落ち着いてきた少女は、苦笑い気味のカズキちゃんの顔を若干苦々しそうに睨みながら、いきなり何をしてくれるんだと内心で毒を吐いていた。もしかしたらロクな教師じゃないのでは無いかと半ば決め付けたその直後。
「どう? 緊張は収まった?」
「……あ」
その問いで少女が気付いた時には、
既に激しい鼓動は治まっていた。
何故だろう、からかわれただけなのに。初対面の教師に。
……自然体に戻る事で、ある程度の緊張をほぐした、のか?
詳しく解説出来る程に理解した訳ではないので何とも言えないが、取りあえずカズキちゃんの問いにコクコクと首肯した。
改めて前を見ると、クラスメート達はこんな下らないも茶番でも、先を見守るように待っていた。中には拍手の準備らしき事をしている人も見受けられる。
段々と鼓動が落ち着いていく。火照っていた顔も少しずつ冷めていくのを感じる。冷静になった少女は、前言撤回も兼ねつつ思った。
……ああ、良いクラスだな。良い先生だな。
改めてゆっくりと深呼吸しながら、少女は口を開いた。
「今日からこの高校で勉強する事になりました、永井千尋です。宜しくお願いします!」