磁気浮上(リニモ)の1分、チカシのハッキング
十九時四十五分。
地下に建設されたリニモ藤が丘駅のホームには、特有の低く鋭い風切り音が鳴り響いていた。
日本唯一の磁気浮上式リニアモーターカーが、軌道からわずか八ミリメートル浮上したまま、白く滑らかな巨体をゆっくりと前進させ始めた瞬間だった。
「――待てアル! 凛、あのウインドブレーカーの男、もう電車の中に滑り込んだネ!」
階段を駆け下りたメイリンが、お団子頭を激しく揺らしながら、閉じたばかりのホームドアを素手でガンと叩いた。
ガラスの向こう、動き出した先頭車両のシートには、資産家のおばあちゃんから奪い取った重要データを懐にねじ込んだ半グレの受け子が、してやったりという冷酷な薄笑いを浮かべてこちらを見下ろしていた。
すべてのドアが完全に施錠され、白い車体が地下トンネルの暗闇へと吸い込まれていく。
通常であれば、ここで万事休すだ。時速百キロ近くで走る無人自動運転のハイテク列車を、地上の人間が止める術などありはしない。
警察の突入を待っていては、長久手方面に潜伏している強盗グループの実行犯たちにデータが渡り、おばあちゃんの家が襲撃されてしまう。
だが、私のトレンチコートのポケットには、おじさんの遺した最高に泥臭い『お節介の履歴書』が眠っていた。「ユタカさん、手帳の番号へ繋いで! 暗号コードは――『ワンモア・バニラ』!」
私はインカムに向かって叫び、ホームの端の保線員専用のインターホンへと駆け寄った。
その頃、リニモの全運行システムを統括する、藤が丘駅のバックヤードにある中央制御室。
電子ログが並ぶモニターの前で、無線機から流れた「ワンモア・バニラ」という場違いな文字列を聴いた瞬間、夜勤の保線主任であるチカシは、座席から跳ね上がるようにして立ち上がっていた。
「……まさか、左神の旦那の、二代目かッ!?」
チカシの脳裏に、数年前、自分の弟が悪質な闇バイトに嵌められて人生を終わらせかけられた時、命がけで半グレの網から弟を連れ戻してくれた、ヨレヨレのトレンチコートの探偵の背中が鮮烈によみがえった。
あの日、おじさんが警察の包囲網から逃れるためにリニモのシステムを一時的にジャミングできたのは、チカシたちが職権を賭して、マニュアルの裏の死角を開放したからだった。
おじさんの撒いた「人情の種」は、この地下の制御室で、今も確実に生きていた。
「旦那の姪っ子だな! 運行ダイヤの改ざんは犯罪だが……マニュアルの安全規定を使うなら、合法的だ! 三分だけ時間をやる!」
チカシは鋭い手つきで、キーボードを叩いた。
リニモの運行マニュアルには、一ミリの妥協も許されない絶対の安全規定が存在する。
『軌道上に一定以上の微振動、または障害物の不審なエコーを検知した場合、システムは二次災害を防ぐため、自動的に最寄りの駅(またはトンネル手前)で列車を緊急停止させなければならない』。
チカシが保線用のセンサーログに「合法的」にわずかなノイズ信号を割り込ませた、まさにその瞬間だった。 ――キィィィィィィィンッ!!!
地下トンネルの手前、暗闇に消えかけていた列車のブレーキ制御システムが強制起動し、磁気浮上の巨体が、激しい風圧の悲鳴を上げてその場にピタリと緊急停止した。発車してから、わずか四十五秒。
非常用マニュアルに基いて、先頭車両の電磁ロックがプシューと解放され、ホームドアが再び左右へとこじ開けられる。
「な、何だ!? 何が起きた!」
車内の受け子の男が、想定外のシステムエラーに顔を真っ青にして狼狽し、開いたドアから慌ててプラットホームへと飛び出してきた。
「――そこまでだよ、悪党!」
私はおじさんの大きなトレンチコートの裾を激しく翻し、コンクリートの床を強く蹴った。




