問題編 file.8
わたしがしどろもどろになりながら話し終えると、馬場社長が盛大に溜息をついた。
「夜中だぞ。なぜその人影を怪しまなかったのかね。それが誰か分かれば、この事件は解決していたではないか!」
「落ち着いてよ、父さん」
窘めるように藍染くんが口を開いた。
「瑞姫ちゃんの話はとても重要な手掛かりかもしれない。怒るだなんて筋違いで、むしろ褒めるべきことだよ」
そして、わたしに向けて彼はにっこりと笑む。
「よく気付いてくれたね。ありがとう、瑞姫ちゃん」
わたしの心臓は早鐘のように高鳴って、手には汗が滲んできて、それでも嬉しくて堪らなくて、なんだか変な気持ちだった。
「だとすると、犯人は二回犯行現場に行ったということになるのか? 一回目でねこ助さんを殺害し花を握らせたとして、二回目はなぜかその花を折った……これで合っているだろうか」
父は他の人に確認を取るようにして、そのまま黙考に沈む。
神藤女医が考えを受け継ぐように、
「藍染さんが偽の犯人だと思われることに、致命的な欠陥が見つかったのではないでしょうか? だから犯人は慌てて花の回収に向かったけれど、すでに指先の硬直が始まっていたとしたら。苦肉の策として、花だけでも折って誤魔化したのでは……」
「致命的な欠陥とは?」
「――犯人にとって、まずいと思える何かです。小島を往復した犯行時と二回目の間の数時間で、藍染さんを犯人に仕立て上げられないことに、犯人は気付いてしまったのかもしれません」
「んー」馬場社長は懐疑的な顔だ。「意見は具体的に言って欲しいものですな。それでは結局のところ、犯人の正体どころか、糸口も掴めないではないか」
「すみません……」
と、なぜか神藤女医が謝ると、場の空気が重く停滞する。
そんな空気など気にもしない兄が、
「単純に考えようぜ。やっぱり花は被害者が握ったんだ。ダイイング・メッセージを処分するために、二回目の往復を試みた」
「青磁、単純に考えすぎて本末転倒になっていないか? 犯行時に気付いていなかったのなら、花を処分しようと現場には行かないだろう」
父が指摘した。
「そうですね。その考えなら、二回目の往復には別の理由があったはずです」
女医も同意の様相を呈しているけれど、意味合いはやや異なるようだ。
それらの意見に対する馬場社長の口調は硬い。
「仮に犯人がボタンやピアスなどの個人が特定される証拠を落としてしまい、取りに行ったとしましょう。または現場を攪乱させるために、エアコンを操作しに行ったでもいい。しかしですな……、私は被害者が花を握ったとは、微塵も考えておらんのです。私の息子は、断じて人殺しなどせんよ」
社長のその目は、藍染さんを盲目的にひたすら信じ、万難を排して守ろうとする父親のそれだった。
これに対して誰も異論は挟めず、かといって犯人がなぜ二回目の往復をしたのか、最もな意見を述べられる人もいなかった。
「あの、少しだけ話がずれるんですが、この時間帯の夫のアリバイならば、私が証明できます」と母。
「……ほう? 訊かせてもらいましょうか」
「酒宴が解散になった後、私はどうにも寝付けなくて、朝日が顔を出すまで横になりながら起きていたんです。その間、夫はぐっすりと眠っていました。瑞姫が人影を見たのは、まだ暗い時間帯なので、アリバイになるかと思うのですが……」
「ふうむ」と社長。「再三申している通り、家族の方のアリバイは如何ともしがたいのですよ」
そう念を押す馬場社長に対して神藤女医が、
「……待って下さい。もし薫子が共犯となって瑛佑さんを庇うのであれば、私が概算した死亡推定時刻に嘘のアリバイを言えばいいはずです。シーツを替えに部屋に入ったら夫がいました。偶々時計も見ました。など、幾らでも嘘の証言は出来ますよ。犯行時以外の方でアリバイを作る意味はないと思います」
女医の意見に、社長は未だ懐疑的だ。
「ふぅむ……。神藤さんの仰る死亡推定時刻と目される時間は、二時間の幅がありましたな。それにひきかえ、人影のアリバイは一瞬です。こちらでアリバイを作った方が確実かつ容易ではないですかな」
最もそうな意見だったけれど、女医は首を横に振った。
「いいえ。人影の話は話し合いが始まってから随分と後になって、瑞姫ちゃんの口から出ました。犯人にとっては予測出来ず、見られていたことに内心驚いたはずです。共犯者がいるのであれば、庇うタイミングは犯行時でなければおかしいんです」
「なるほど。ごもっともな論理ですな。……いやはや、どうしたものか」
馬場社長は考え耽るように腕を組んだ。家族間の不在証明をどうするべきか、判断に困っているようだった。
ややあって、「あのー」と呑気な声音で話し合いに入ってきたのは、今まで空気のようにホールの隅に座っていた森岡くんだった。利き腕を骨折しているため、左手をちょこんと挙げていた。
「部外者の僕などが議論の輪に入っていいものか悩んでいたんですけれど、……話しておくべきことがあると思うんですよ。今まさに、お二方が言及された犯行時刻です。ねこ助さんが亡くなった時刻は、結局、何時頃だったんでしょうか? そこが分かれば、真相により近づくはずなんです」
みんなの目線が様々な方向に動く。
「検死通りなら、零時辺りになりますが、あのとき早めに酒の席にいたのは――」
「待ってくれますかな」
馬場社長が遮って、こほんと一つ咳払いをした。
「神藤さんの検死を疑うわけにもいかず、黙っておりましたが、私は午後九時五分頃に金属音がぶつかり合うような音を聞きましてな。今思えば拳銃の発砲音ではないかと。他に聞いた方はいませんかな?」
「父さん……っ!」
藍染さんが嘆きと困惑を織り交ぜた表情で、
「それこそ重大な手掛かりじゃないか。どうして今まで黙っていたのさ」
息子に詰め寄られた社長は、急いで弁解に転じる。
「いやしかし、小島の方角から聞こえたような気はしたが、僅かな音でな、ねこ助さんが吊戸棚から鍋でも落としたのだと思ったのだよ。だが、瑞姫ちゃんが目撃した人影の証言を聞いた後ならば、話は変わってくる。犯人が二度も犯行現場を訪れたのなら、エアコンを用いた犯行時刻の誤認は常套手段でしょうな」
「うーむ。馬場さんの証言を信用したいのは山々なのですが……。それを聞いた人間があなた一人では、聞き間違いということもありませんか?」
「失礼な。私はまだ四十代ですぞ」
父の言葉に、社長は向こうを張る。年齢差はあまり関係ないと思うけれど……。
それにしても、金属音? この言葉に、何かがわたしの心の裡で引っ掛かっていた。意識を集中させて、記憶を丁寧にサルベージしていく。
――思い出した。
あれはわたしが、ホールのソファでうたた寝していたときだ。
「あの!」と思わず大声を出すと、皆の視線がわたしに向いた。
「わたしも……夢の中で、聞きました。金属のぶつかるような音を」
「夢の中ぁ?」
兄は小馬鹿にしたような口ぶりだ。神藤女医も哀れな子を見る目で、
「瑞姫ちゃん、今は夢の話を訊きたいわけではなくてね――」
「いえ、起きる寸前だったんです! 潮風の匂いも波の音も現実で、その中で金属が激しくぶつかる音が遠くから聞こえたんです」
馬場社長はというと、「んー」と苦々しい表情だった。相方がわたしでご不満らしい。「一応訊いておこうではないか。何時だね、君が金属音を聞いたのは」
「ホールには時計が無いので……。でも、起きたときに母が九時過ぎって言ってました。……そうだよね、お母さん」
ここで母が時計を気にしてなかったらどうしよう、と一抹の不安を覚える。
「瑞姫が起きた時間でしょ? 色々と用事があったからねえ。私も九時過ぎって伝えたかしら?」
わたしはさぞ落胆した表情だっただろう。
そんなときだった。
「僕が証人になれるかもしれません。布団を運んで来てくれたときだよね?」
「あっ、はい。そうです!」
「あれは九時十五分のことだったよ。もう寝支度をする時間になったのかと、瑛佑さんに貸していただいた置時計で確認したからね」
森岡くんが確認までしていてくれた。わたしは感謝を述べると、考えを巡らせる。
九時十五分か……。そうすると、わたしが起きて母に声を掛けらたのは十分くらいだろうか。眠りから覚めつつある状態で聞いた金属音が、馬場社長のいう五分頃だとすると辻褄は合う気がした。
「ふむ……まあいいでしょう。それで、金属音を聞いたのは、本当に私と瑞姫ちゃんだけですかな?」
数秒待ってみても、やはりわたし達以外に不審な音に気付いた人はいないようだった。社長は心底残念な表情だ。
「それでも十分な証言になると思いますよ。父と瑞姫ちゃんが、こんな状況下で二人揃って嘘を付くとは思えませんからね」
藍染さんがポジティブにとらえて発言した。
「俺は……去年、一発だけこの島で撃ったことがある」
兄は神妙な顔で、そう白状した。
「そりゃあ、モデル・ナンバーによって発射音は違うけどよ、俺が貰ったS&Wのそれは、金属音と表現しても間違っちゃいねぇ。くそ、ヘッドセットを着けてなけりゃ、俺が気付けたかもしれねぇのに……っ」
歯噛みして悔しそうに呟いた。自分がしっかりと保管していたはずのリボルバーを凶器に使われた上に、別荘に辛うじて届いた凶音にさえ気づけなかったとなれば、兄の無念さは十分に伝わる。
父が慰めるように兄の肩を二、三度優しく叩いた。そして社長に視線を向けて、
「馬場さん、午後九時五分という細かな時刻は間違いありませんか?」
「それには自信がありまして、音を聞いたとき、湯上りにテーブルに置いておいた腕時計をちらと見ましたからな」
「分かりました」
それから父はわたし達に向き直って、
「では、午後九時五分前後にアリバイがある方は仰って下さい。ここにいる者同士でなくてもいいです。電話でもビデオ通話でも構いません」
ぐるっと全員を見渡した。
わたしも目をスライドさせたけれど、誰も手を挙げなくて、また声を発する人もいなかった。
「……誰も、いないんですか?」
父は意外そうな表情で疑問を呟いた。




