問題編 file.7
藍染さんが容疑者から外れないのは残念だったけれど、もやもやした気持ちで会話が進まなくて良かった、とわたしは安堵していた。
「どなたかが指紋を連呼するので考えていたんですけれど」
母の、馬場社長に対する言葉にはまだ棘がある。最初の諍いの尾を引きずっているのだろう。
「あの茎は、本当に藍色のプリザーブドフラワーの茎なんでしょうか」
「……というと?」
父が問うた。
「藍色の方は、私が直接ねこ助さんに渡したので、指紋が付いていたとしても私かねこ助さんのだと思うんです。当然、死体発見時の渦中に茎に触れようとした人はいないはずです。この滞在中、小島に行った人もいませんよね?」
母は全員を見渡し、誰も行っていないことを再確認した。
「そこで、もし警察の初動捜査で鑑識が茎を調べたとき、私とねこ助さん以外の指紋が出たとしたらどうでしょうか」
「いや、それは……有り得ないだろう」
「有り得ないことが事実として出てきたら、それは極めて重要な物証になるはずですね」
母とは息が合うのか、神藤女医は真っ先に理解を示した発言をして小さく笑んだ。
「そうです。繰り返しますが、あの茎が藍色のプリザーブドフラワーだとは、決定していません。犯人は前準備として、別荘にある花のどちらか一輪に、何かしらの方法で誰かの指紋を茎に付けます。そして被害者に持たせるんです。これならダイイング・メッセージが茎だけだった理由に得心がいくと思いませんか?」
花を愛して花を別荘に飾った母らしい仮説だった。
「指紋ねぇ……この滞在中に、花に触れた者、あるいは触れさせられた者はおりますかな?」
「俺は知ってるぜ?」
兄がそう言った途端、藍染さんの顔がぴくりと動いたように見えたのは、気のせいだろうか。
「ほう、だったら勿体つけずに言いなさい」
訝しげな表情を見せる馬場社長に対して、兄は堂々と指を差した。
「従伯父さん、あんただよ」
馬場社長は「ほ?」という口の形を保ったまま、何を言われたのか理解出来ないといった面持ちで静止した。
藍染さんは口を真一文字にして目を反らしている。
兄は意気揚々と発言を続けた。
「今日の十一時頃、従伯父さんは藍染さんに花の色が変わることを見せて驚かせようと、一輪持ってきたじゃあないですか。あのときは莫迦な振りをして失敗した姿を装ってたけどよ、本当は茎に息子さんの指紋を付着させる演技だったんだな。いやぁ騙されたぜ」
数秒の間、わたしを含め、あのときホールにいた人は思い返していたはずだ。何のことかを把握した馬場社長は色をなして、
「なな、何を言うかと思えば! 私が息子の指紋を採取して、あまつさえ被害者の手に持たせたなどと! これほどの侮辱が……き、君は……!」
激高寸前、過呼吸気味に彼は立ち上がり、大仰な身振りで兄を糾弾しようとするが、言葉が続かない。息子を犯人に仕立てた誹謗に加え、社長が犯人でなければ、莫迦だと言ったようなものだ。
「馬場さん、手を出す人間はこの話し合いに不適格だと思われますが」
一向に席に座ろうとしない社長を、父が諫める言葉を放った。社長は渋々席に着くが、怒りに染まった双眸は、わざとそっぽを向く兄をきっと睨みつけていた。
「落ち着いて下さい」
と、神藤女医。
「それは今日の正午前の話なんですよね? でしたら犯行時よりもずっと後の出来事ではないですか」
「全員でねこ助さんを確かめに行ったごたごたの最中で、すり替えたかもしんねぇぜ」
兄は頭の後ろで腕を組み、余裕綽々の表情だ。
神藤女医は至って真面目に、
「死後硬直のピークである時間帯に、容易にすり替えられるとは思えません。それに、それを行うのであれば、事前に準備してから握らせる方が確実ではないでしょうか。犯人は銃を盗んだことから、ある程度の計画性はあったはずですので」
「そうかー。だったら最低限、俺が今言った話は関係ねぇや」
もとより兄は、自身の意見が信憑性に欠けると分かっていた様子だ。兄にとっては社長に対する序盤の意趣返しの意味の方が、多く含まれていたのかもしれない。
父がやれやれといった顔つきで、議論を主導する。
「他の人にも訊きたいんですが、自分が茎を触った、あるいは触らされた記憶がある人はいますか?」
反応は芳しくない。女医が苦言を呈す。
「……この四日間の滞在で犯人がそれを実行することは、さほど難しい話ではないと思います。花を一輪持っている必要はありません。茎だけ隠し持ち、機会を見据えて上手に触らせればいいのですから」
「神藤さんの仰る通りだ。適当なトリックを使えば堂々と触らせることもありますまい。そもそも、自信を持って触れていないと断言出来る者はこの中におるのかね」
若干の憤りを抑えた馬場社長が不躾に言い放った。
「――話が進んでいる中、すみません。重要なことを思い出しましてね」
突如、藍染さんが鹿爪らしい表情で言う。
「これは、院で生物学を専修しているサークルの友人から耳にした話でして……。通常、赤色や青色、紫色などはアントシアニンという色素が蓄積することによって呈色されているんですが、これにクロロフィルとカロテノイドという色素が加わることで花の色調は決まるそうです。それらの色素は当然、茎にも同様に蓄積されているらしいんです。
僕が言いたいのは、残念ながら指紋を採取するであろう鑑識や科捜研が調べるからこそ、あの茎が本来は何色の花か、分かってしまうということです」
「……藍染くん、それって、間違いがない情報?」
神藤女医は、疑念を抱いた物言いだった。
「私は植物に詳しいわけではないけれど、藍染くんのいう化学物質って、茎の方では確か、緑葉体に含まれるクロロフィルのことだった気がするんだけれど……」
「神藤さん、それは……」やや言葉を詰まらせながら、「表皮の話です。僕は聡明で医療に従事するあなたを尊敬していますが、専門外のことをうろ覚えで否定されるのは、素直に称賛出来かねますよ……」
藍染さんは眉根を寄せて、至極残念そうに発言した。
女医は申し訳なさそうに、
「そうよね、ごめんなさい。確かに警察が茎を調べれば、どの色の花かは分かりそうよね」
植物の専門的な話には皆、言葉が出ないらしく、曖昧に頷くに留まっていた。
「けどよ、犯人にとっちゃ、どこまで花の知識を持って犯行に及んだかなんてわかんねぇぞ。茎の色素でバレるなんて、俺だったら考えもしねぇよ」
「ほう、それは自白かな」
「ちげぇよ」
再び言葉の刃が飛び交うのを見て、社長と兄の席が離れていて良かったと心底思う。
「もしも、あの花が藍色ではないと警察が判断を下せば、私達の話は無駄になってしまうかもしれません。しかしそれはそれで仕方のないことです。なにせ僕らは素人なのですから。
それに失礼ですが、薫子さんの説は可能性の一端に過ぎません。ならばここは僕を信じてもらって、あの花が偽装された藍色のプリザーブドフラワーだという前提で、話し合いを進めてはもらえませんか」
「……確かに花が違えば、私達が話し合える範疇を超えてしまうわよね。分かりました。あの茎が藍色のそれだとして話していきましょうか」
母が、父の賛否を窺いながら同意した。
会話が一時的に途切れた。話の軸が戻ったところで、では次に何を議論すべきか、皆それぞれ考えているのだと思う。
話し合いの場に入る怖さを押して、わたしが深夜に目撃したことを言う機会は、今しかないと勇気を振るう。
「あのう」
「……何かね?」
口調は優しげだが、君が何か意見をするのか、という訝しさが言外に漂っていた。
「……あの、わたし、夜中に小島に向かってボートを漕ぐ人影を見たんです」
「な…………、なんだって!?」
馬場社長が裏返った大声を出し、神藤女医が努めて冷静に訊いてくる。
「小島に向かっていたのなら、ボートは背面漕ぎだから、顔は別荘を向いていたはずよね。――ねぇ瑞姫ちゃん、その人影は誰だったの?」
「いえ……それが、暗くてどんな人だったかは……それに、往路だったので、ねこ助さんに用があるなら当分は戻ってこないかなと思って、眠気もありましたので……」
喋り始めると上手く台詞に出来なくて口惜しい。
それでも気を引き締めて、わたしが寝付けなかったこと、喉が渇いて飲み物を取りに行ったこと、そこで気づいた人影のこと、そして眠りに落ちるまでを思い出せる限り詳細に話した。
(瑞姫の回想)
――ホールに向かおうとして、何気なく廊下の窓の外を見て、あれ?――と思った。
多少闇に慣れていた目が、波間に動く何かを捉えた。
わたしは廊下の窓に近づき、ホールのフランス窓からは見えない南側を、小島のある方角を眼を細めて眺める。
見間違いじゃない。誰かが手漕ぎボートを漕いでいる。
それは小島の方に向かっていた。残念ながら暗くて顔が分かるどころか、輪郭も朧気だ。手漕ぎボートと分かったのも、ボートらしき形と両側のオールが水面を掻いている様子で理解できたくらいだから。
きっと、誰かがねこ助さんに用事があるんだわ。
それも小島に近づくにつれ、尚更朧気になっていき、角度的にも見えなくなってしまった。外は寒いので窓を開けてまで覗き込む気は起きなかった――。
(回想終わり)




