問題編 file.3
変則的な睡眠のせいだろうか、目を覚ますと午前十一時だった。わたしは慌てて飛び起きると、着替えも適当に部屋を飛び出した。
ホールでは藍染さんと兄と森岡くんの三人が集まっていて、わたしは急ブレーキを掛けた。全身に緊張が駆け巡る。
わたしは適当に着替えた服と髪を手櫛で微調整しながら、
「おはよう……ございます」
「おはよう」「おう」「おはようございます」
挨拶をすると、三者三葉の返事。しかしわたしにとって、他の二人は眼中にない。藍染さんが振り向いて爽やかな笑みを見せると、わたしもぎこちなく笑顔を返した。
せっかくホールで雑談しているらしいので、わたしも輪に加わりたいけれど、何も話題が浮かんでこない自分が憎い。
そんなわたしの気持ちなどつゆ知らずに、兄が藍染さんに会話の続きを持ち掛ける。
「そんなに詳しいなら、拳銃が出てくるミステリー教えてくれよ。出来るだけ短いやつな」
「そうだねぇ、海外物なら、凶器以外でも銃は割かし出てくるんだけど、殺人事件に使われたとなると『アメリカ銃の謎』かな。森岡君はどう思う?」
一晩明けて顔色も良くなった森岡くんは、
「僕は推理作家志望と言いましたが、大して多くはミステリを読んでいないんですよ」彼は恥ずかしそうに笑みを歪ませる。「ですけど、読んだ中で短いと言えば『理由ありの密室』でしょうか」
藍染さんの反応は薄い。
「んーそのタイトルの小説は、僕の方が未読だな……待てよ、大山誠一郎の『密室蒐集家』か」
「さすが藍染さんはお詳しいですね。伊達に五百冊も読んでないわけです」
五百冊! わたしが読んだ小説は何冊だろうと指折り数えるけれど、虚しくなってやめた。
馬場藍染さんは、馬場社長の息子で現在大学院に通う学生だ。国際社会学を学んでいて、フィールドワークというのを時折しているらしい。
カッコよくて頭も良くて、何より性格が良い。馬場社長の遺伝子を受け継いでいるなんて、にわかには信じられないことだ。口が裂けても言えないけれど。
そんな彼はもう一度わたしに振り向いて、
「サンドウィッチなら残してあると叔母さんが言ってたよ。食べておいで」
と報告してくれる。優しい藍染さんに感謝して踵を返そうとしたところで、
「あっ、そうだ」
兄が思い出したように、不愛想な口調でわたしに訊く。
「瑞姫。おまえさ、別荘の俺の部屋に勝手に入らなかったか?」
「入ってないよ」
「本当に入ってないんだな? 昨日、間違えてノックしてたじゃねぇか」
「それはノックだけでしょ。中には入ってないわ」
「絶対か? 何かパクりに来たついでに、余計なことしてないだろうな?」
何だか今日は、妙にしつこい。
「何も借りてないし、なんでわたしがお兄の臭そうな部屋に入らなきゃいけないのよ」
言ってしまってから、はっと気づいて口調と台詞を反省した。兄とは普段このような喧嘩腰で会話しているからいいとして、藍染さんの前で素の自分を見せるのは羞恥心が湧き上がってくる。お淑やかにしなきゃ。
「まぁまぁ、青磁君も、瑞姫ちゃんが入ってないって言ってるんだから、妹を信じてあげなよ。因みに同じ質問を僕と森岡君にも訊いたよね。部屋に入って何かまずいことでもあるのかい?」
「それは……まあ」
わたしに代わって非難の的となった兄は、目を泳がせて言葉を濁した。
「瑞姫ちゃんを問い詰めるなら、まずは入ってはいけない理由を言わないと不平等だと思わないかい?」
藍染さんに合わせて、今度は森岡くんが追撃する。
「たしか青磁君は、部屋を出るときにはドアの鍵を施錠していたはずだと、自分自身で言ってましたよね。それなら僕達にどんな答えを求めているんでしょう」
「…………ちぇ、分かったよ、この話はいい」
兄が折れて不貞腐れた。理由も伏せたまま迷宮入りだ。
それに比べて、森岡くんは置いておいて、藍染さんは理屈っぽい所も素敵だ。きっと彼は母親似なんだわ。従伯母様は理路整然とした喋り方をされていたから。馬場社長とは大違い。
わたしが脳内で噂をしていたからだろうか、ご本人が登場してしまった。
「おやおや、若い衆の集まりに、お寝坊さんもおりますな」
食堂からやってきた馬場社長は、満面の笑みで彼等とわたしに言う。
「父さんも三十分前に起きたところじゃないか。……瑛佑叔父さんも神藤さんも遅かったけれどさ」
「昨日は大人の社交の場が盛況だったからなあ。藍染も最後まで居ればよかったではないか」
どうやら、藍染さんは途中離脱して就寝したようだ。
「お酒を飲んでいただけだろうに。僕は下戸なんだよ」
「時には酒を飲むことが仕事にもなるのだよ。少しでも慣れておくと良い。お前にもその内解るだろう」
本音なのか言い訳なのか曖昧なラインで馬場社長は話を区切ると、ちょっと待ってな、と言って廊下の奥に行き、一輪の薄い黄緑色の花をつまんで戻ってきた。
例の花束から一輪、勝手に抜き取ってきたらしい。後で戻してくれればいいんだけれど。
「藍染よ、ブリザードフラワーを知っているかな?」
馬場社長は手に持った花を軽く振って、自慢げな顔だ。彼は返答を聞こうともせずに、ふぉっと似合わない仕草で花に吐息を吹きかけるが、
「おや? おかしいな」
藍染さんが深い溜息をついた。強引にその一輪を社長から奪うと、飲み差しのアイスティーのグラスを花弁に触れさせた。途端に、その花弁が接触部分から深い緑色に変わっていく。
「因みにブリザードじゃなくてプリザーブドフラワーね。三十年ほど前にフランスのヴェルモント社が開発した長期保存の効く花だ。しかもこれは特別製で、温度が高いと薄くなり、温度が低いと濃くなるんだろう? 半年前から知ってるさ。薫子叔母さんに、色が変化するこれと同じ色の花を貰ったことがあるから」
馬場社長はきまりの悪い表情だ。「そうそう、妻に連絡を入れるのをすっかり忘れておった。君達は会う機会も少ないのだから、若者通し親睦を深めておきなさい。それではの」
言うだけ言うと、社長はさっさと二階に上がっていく。
わたし達は何ともいえない顔で互いを見遣った。そして兄は、わたしも含まれているのがさも意外そうで、
「瑞姫、まだいたのかよ」
としかめっ面で言った。
さっきは兄が引き留めたくせに。理不尽な台詞にむすっとしながらも、わたしは食堂へ向かった。
食堂に入ると、キッチンから母が顔を覗かせた。わたしを確認して朝食を準備してくれる。普段のように寝坊のお咎めがないのは、深夜の酒宴の影響が大いにありそうで助かった。
「一時間もしない内にお昼だから、少量にしておきなさいね」という言葉に従いながらも、わたしは急いでサンドウィッチとミルクを流し込む。
「ごちそうさま」と手を合わせると、食器を洗い場に置いてわたしはホールに駆け戻った。
笑い声が聞こえたので嬉々として躍り出ると、ホールには兄だけだった。藍染さんの姿はない。
誰と話してるんだろうと思って覗くと、彼の笑顔の正面にはタブレットPCが置かれていて、そこに知らない男子の、同じく笑顔の映像が映っていた。通話アプリなのだろう。画質も綺麗で、音声もなかなか鮮明に聞こえる。
兄にも友達がいたんだ、と思いながら、わたしはホールを回れ右して談話室を覗く。けれどそこにも目的の人物は居らず、とぼとぼと部屋に戻るしかなかった。




