問題編 file.2
目が覚めてしまった。
蓄光塗料の付いた指針を見ると、深夜の四時を過ぎたところだ。じーっと睨んでみても、針が頑張って進んでくれるわけでもない。
あぁ、母の言いつけを守ってうたた寝しなければよかった! 悲嘆に暮れてそんなことを思っても後の祭りだ。
それに少し喉が渇いていた。わたしはベッドから降りると、照明を付けた。慣れない光が目に眩しい。
ドアをゆっくり開けて廊下を窺う。
途端に廊下の、外と同じ冷たい空気がパジャマ越しに素肌に伝わって身震いする。廊下の明かりも真っ暗……かと思いきや、ホールの方から仄かに光が漏れてきていた。
月明りとは違う人口の光だ。
不思議に思い、私は部屋を出てホールに向かう。
どこかの部屋から、馬場社長の大きな笑い声が聞こえてきた。声のした方向に足を運ぶと、談話室のドアのガラス部分から明かりが漏れていることに気が付いた。
私は好奇心を駆られて、忍者のように息をひそめながら談話室に近づく。
こっそりとノブを下げてドアの隙間から窺ってみると、そこでは思いもよらない光景が広がっていた。
見たこともない大小の瓶が沢山。いや、どこかで見たことがあるかもしれない。親戚の家にお呼ばれしたときに、伯父さん達がいつも飲んでいる類いのものだ。
そうしているうちにも、わたしの鼻をそのにおいが掠めた。
鼻が曲がりそうな臭さだ。間違いなく……お酒ね。前に伯父さんにちょっとだけ飲ませられたことがあるけど、苦くて何が美味しいのか全く分からなかった。
つまり、わたし達未成年が眠ったのを見計らって、大人達だけで楽しんでいたのね! 母の言っていたクールタイムの意味がようやく分かった。私は頬を膨らませる。けれど、お酒が飲みたいわけではないので、少しだけ膨らませるに留める。
そんなわたしの存在などつゆ知らずに、場は盛り上がっていた。
テーブルを囲んでいるのは、父、母、馬場社長、進藤女医、の四人。藍染さんの姿は見えないので、大人のコミュから省かれたか、自主的に断ったのかもしれない。
「だから、飲みが始まる頃にも言ったではないか。私が彼女に掛け合ってみますって。人数が多いほど酒は美味くなりますからな!」
馬場社長の声だ。大きいからよく響く。
「トイレに行くと見せかけて呼びに行く……というのは、お願いですからやめてくださいね。ねこ助さん、特に集中している夜中に尋ねると物凄く機嫌を悪くするんです。それに彼女自身も、締め切りが近いから今夜は訪ねてこないで欲しいと嘆願していらしたのは、夕食時に馬場さんも聞いていましたでしょう?」
どうやら馬場社長は、ねこ助さんが来ないことに不満を持っているみたいだ。それを母が止めようと必死に宥めている。
「ふぅむ、まあそんなことも言ってましたなあ。分かった、分かりましたよ」
お酒で顔を赤く染めた馬場社長は、やれやれといった様子で引き下がった。
「本当にすみませんねぇ」母が、社長が干したグラスにワインを継ぎ足して言う。なんだか、これではまるで招待ではなく接待だ。
ふと別の声がする。
「社長さん、口ではそんなことを仰ってますけれど、本当は若い女の方と飲みたいだけなんでしょう? 夕食のときにお会いした彼女、無口ではありましたが、お化粧も最低限に目鼻立ちの整った美人さんでしたものね。それにピチピチの二十代」
神藤女医が水を向けると、図星だったようで社長は苦い表情で押し黙ってしまった。
わたしは心の中で、神藤さんグッジョブと声を上げた。
それでも黙ったままでは自尊心に欠けると思ったのか、
「……何をおっしゃいますかな。ここには私より若く見目麗しい先生がおられる。共に杯を交わせて不満なことなどありましょうか」
「残念ながら私は既婚者ですけれどね」
そう言って神藤女医は左手の薬指をちらりと見せてから、もうこの話は終わらせましょうとばかりに話題を変えた。
「それにしても、夜がこれほど冷えるとは思いませんでした」
徳利と言うらしき小さめのコップを傾けて、神藤女医が言った。
「お酒を飲んでいれば全く寒くありませんけどな!」
話題が変わって安心したのか、ガハハ、と胴間声の馬場社長。
「夜は十八度を下回るんです。その代わり日が出ている間は二十五度と快適なんですよ」
再び母の声だ。
「ええ、ええ。招待頂いて、日中の快適さは身に染みて存じています。時間に囚われず島を散歩してみて、これぞ心の洗濯と言えますな。素晴らしい休暇になりましたよ」
「ご満足いただけたのであれば、こちらとしても嬉しいですねぇ」
これは父の声だ。
「そう言えば、廊下に飾ってあった……おっと、最近物忘れが酷いものでね。……うぅんと、ブリザード、いや違いますな――」
「プリザーブドフラワーのことですか?」
母が問うと、馬場社長は膝を打って顔をくしゃけた。
「そう、それですな。いやはや横文字は覚えるのが難しい。……その、何ちゃらフラワーのことなんですが、二階の廊下にあるそれは、確か夕日が沈む夕食前までは、真っ白な色の花束だったと記憶しておりまして、それが先ほど見たらピンク色に変わっているではありませんか。薫子さんが取り替えたんですかな? いえ、横文字はともかくとして、花の色は覚え間違えませんぞ」
「あら、それでしたら」
母が軽快な口調で言う。
「この別荘に飾ってあるプリザーブドフラワーは、特殊な製法で作られていまして、温度によって色が変化するんですよ」
「あら……、それは知りませんでした」
「私も、そんな花が存在するとは知らなかったよ」
女医と父が神妙に言った。
「もう、理兎子もあなたも、ほんと花には興味ないわよね」
母が口を尖らせて友人と父を軽くなじるけれど、花が好きな母はここぞとばかりに、嬉しそうな声音で饒舌に続きを語る。
「一階の廊下の花束でしたら、快適な気温の昼間は、二十五度辺りですから、薄い黄緑色になっているんです。ほぼ白色と言っても過言ではありません。反面、気温が一気に下がる日没後、夕食時を過ぎてからですね。そこからは十八度を下回りますから、濃い緑色の状態が、日が昇って温かくなるまで続きます。この島ですと十時頃には元の白みがかった黄緑色に戻りますわ」
「ほほう、それは面白い花ですな!」
ほろ酔い状態の社長は大声で笑った。母も気を良くして、
「馬場さんが先ほど仰った、二階の廊下に飾ったプリザーブドフラワーの花束の方は、昼間はピンク色、夜は完全な白色になります。熱い吐息を吹きかけるだけでも、一時的に変化を楽しめますわよ」
「妻は、ご覧の通り花が大好きでしてね。家の方でも、内も外も花だらけにされていますよ」
父が母を横目に苦笑してみせた。
困っている風を装った父だけれど、実際は近所のおばちゃん達にも評判が良い。そのおこぼれなのか、登下校中のわたしに対しても、にこやかに接してくれる。お花屋敷のお嬢ちゃん、と呼ばれているのは何とも言えないけれど。
「と言っても、基本は水やりを必要とせずに、日持ちするように作られた花なんですよ」
母はさらに語る。
「当然、持ち運びの間でも枯れてしまいにくい花ですから、この別荘にも持ってきましてね。それからねこ助さんにも昨日、と言ってもすでに一昨日になりますね。夕食の後で、彼女に藍色のプリザーブドフラワーの花束をプレゼントしましたわ」
「ほう。それで、その花は藍色から何色に変わるのかね」
わたしは想像した。これまでの話を聞いていれば予想が付くわ。きっと薄いブルーね。
そんな考え事に意識を集中していたからか、わたしはドアの隙間に掛けていた足を踏み外して、音を鳴らしてしまった。
焦る間もなく、こちらを向いて座っていた馬場社長が、「おっ」という顔をして私に気付き、大人たちが順々に振り向く。
わたしは仕方なく、悪いことをした後のような面持ちで、ドアを開けて顔をのぞかせた。
「ありゃ、見つかってしまったかな?」
社長は鼻と頬を赤くして妙に上機嫌である。
「お姫様を起こしてしまいました。反省して、今日のところは寝るとしますかな」
「もうこんな時間になりますか。私も失礼するとしましょう」
社長と父が揃って腰を上げる。
何だか、私を解散の理由に使われたようで釈然としない。
「片付けは私と理兎子がしますから、ゆっくりお休みください」
招待客である馬場社長はともかく、父はさすがに躊躇の様子を見せた。そんな父に神藤女医は優しげな口調で、
「休暇中もお仕事の方は、構わずお休みになってください。明日に差し支えますよ」
「……すみませんね、神藤さん。お言葉に甘えさせていただきます。お休みなさい」
父と馬場社長が退室してドアが閉まった。
母がテーブル上のグラスを集めながら、同じく瓶を片付けている女医に、
「そうそう、大したことじゃないんだけど、旦那達に花について誤解を与えてしまったかも」
「へぇ、どんな誤解?」
二人は友人同士でするフランクな口調に戻して会話を始めた。
「大々的に言っちゃった話だと、プリザーブドフラワーが色が変わる特性を持つ花だと思われたかも。あ、でも嘘じゃないのよ。それが少数派ってだけで、水やりの必要がなくて長持ちするように作られたってのは本当」
若干要領を得ない説明を、神藤女医が質問形式で補足する。
「んーと、じゃあ、ねこ助さんに渡したっていう何とかフラワーは、色が変わらないってことなの?」
「もうっ、あなたにも昔、同じのをプレゼントしたはずなんですけど?」
「そうだっけ、ごめーん……」
片手で謝罪のジェスチャーをする女医は苦笑気味だ。
「別にいいわよ。それでね、色が変わるのはそれはそれで美しいんだけど、長期的な保存を考えるなら通常のプリザーブドフラワーの方が良いかなって思って」
「なるほどねえ」
と関心げな口調の女医だけれど、両目は眠たそうに、とろんとしている。
「なら、ねこ助さんの家にあるお花は藍色のままってこと?」
代わりにわたしが割り込むと、母は笑顔をこちらに向け、
「そうよ。朝昼夜と藍色の花束。好きな色だと言っていたから、気に入ってくれてると嬉しいんだけどね――さてと、洗い物は浸けておいて明日私が洗うわ。どうもありがとう。私達も寝ましょ」
すぐに三人揃って談話室を出ると、「今度は誰も聞き耳を立てていなかったわ」と女医が冗談めいた口調で言った。母は笑い、わたしは膨れる。
ホールで分かれて、神藤女医は客室のある二階に上がっていく。
母はわたしが部屋の布団に入るのを見届けてから、「おやすみ」と微笑んで自室に帰っていった。
さてと、寝れるかしら。
試しにもこもこ布団に包ってみても、抱き着いてみても、一向に眠れる気がしない。
それにわたしは、飲み物を取りに行くために部屋を出たことをすっかり忘れていた。そう思えば思うほど喉の渇きもひどく、眠りを妨げる要因になってくる。
わたしは堪えきれずに再び部屋のドアを開けて、今度こそ暗く静まり返って物言わないホールに向かおうとして、
あれ? ――と思った。
――わたしはキッチンで飲み物を物色した。先ほどの飲み会にも出されていたウーロン茶を入れた容器を発見して、抱えながら戻る。ふと月明りの元、廊下の一番奥の丸テーブルに、籠に入れて飾り置かれている花束が目に付いた。廊下は寒い。その花の色は、さっき母が話していたように濃い緑色だった。
部屋に入ってコップを忘れたことに気付く。残りの分量はそんなに多くない。はしたないと思いながらも、容器ごと口を付けてごくごくと飲んだ。喉の渇きが無くなると、徐々に眠気がやってきた。
ベッドに潜りながら、今度こそ眠れますようにと念じる。どうやらそれは叶いそうだった。
やっぱり眠れない原因は水分補給が……足りてなくて……。
わたしはいつの間にか眠りの淵に落ちていった。




