それでも、選ばなければならなかった
それでも、選ばなければならなかった
歪みは、
完全には消えていなかった。
河港都市の朝は、
穏やかだった。
河面は静かで、
積み荷を積んだ小舟が、
ゆっくりと岸を離れる。
人々は、
昨日よりも少しだけ、
安心した顔をしている。
――何も起きなかった。
――最悪は避けられた。
そんな空気が、
街に広がっていた。
だが、
ユイは知っていた。
これは、
持ちこたえているだけだ。
歪みは、
形を変え、
深く、
静かに、
沈殿している。
そして、
沈殿した歪みは、
必ず、
より重い形で、
噴き出す。
***
昼前。
港の外れにある倉庫で、
異変が起きた。
作業員の一人が、
突然、
叫び声を上げた。
理由は、
分からない。
怒りでも、
悲しみでもない。
ただ、
抑え続けてきた感情が、
限界を超えた。
その瞬間、
歪みが、
一気に集束する。
空気が、
歪む。
倉庫の壁が、
軋み、
河水が、
逆流する。
「……来た」
ユイは、
呟いた。
これまでとは、
違う。
規模ではない。
質が違う。
この歪みは、
街全体を、
巻き込む。
レオンも、
同時に、
それを感じ取っていた。
「……避難を」
「もう、
間に合わない」
短い会話。
二人の視線が、
一瞬、
交差する。
この歪みは、
どちらかの方法では、
止められない。
***
歪みの中心にいたのは、
倉庫で叫んだ作業員ではなかった。
彼は、
引き金に過ぎない。
本当の中心は、
もっと広い。
この街で、
歪みを「感じないように」
生きてきた、
すべての人間。
それが、
一点に集まり、
形を持ち始めている。
「……これは」
ユイの声が、
震える。
「一人の犠牲じゃ、
済まない」
レオンは、
歯を食いしばる。
「……だが」
彼は、
剣を握る。
「中心を、
切れば」
ユイは、
首を振った。
「切れる中心が、
もう、
ない」
歪みは、
個人を、
超えている。
だが、
それでも。
犠牲は、
必要になる。
どんな形であれ。
***
歪みは、
街を包み込むように、
広がった。
空が、
重くなる。
人々は、
理由もなく、
足を止め、
胸を押さえる。
「……苦しい」
「……何か、
嫌な感じがする」
感情が、
表に出始める。
抑えられていたものが、
溢れ出す。
このままでは、
暴発する。
ユイは、
一歩、
前に出た。
「……私が」
言いかけた瞬間。
レオンが、
腕を掴む。
「無理だ」
声は、
低く、
必死だった。
「今の歪みを、
全部引き受けたら、
戻れなくなる」
「……それでも」
ユイは、
振りほどこうとする。
「誰かが、
引き受けないと、
街が壊れる」
レオンの目が、
揺れる。
彼は、
理解していた。
ユイの言葉が、
正しいことを。
だが、
それは、
彼女を失う選択だ。
「……だったら」
レオンは、
声を絞り出す。
「俺が、
斬る」
それは、
宣言だった。
歪みの中心ではなく、
歪みが宿る人間を。
誰か一人を、
選ぶ。
そうすれば、
歪みは、
収束する。
街は、
救われる。
それが、
彼のやり方だった。
「……やめて」
ユイの声が、
掠れる。
「それは……
また、
同じことの、
繰り返しだよ」
「違う」
レオンは、
首を振る。
「これは、
制度じゃない」
「俺の、
選択だ」
個人が背負う。
だから、
正当だと、
言いたかった。
だが、
ユイは、
それを、
拒んだ。
「……それでも」
彼女は、
一歩、
前に出る。
「あなたが、
選ぶってことは」
「世界は、
また、
誰かを選べばいいって、
学ぶ」
沈黙。
歪みが、
さらに、
強まる。
時間が、
ない。
***
その時。
一人の老人が、
人混みの中から、
前に出た。
「……やめてくれ」
震える声。
「もう、
誰かが、
選ばれるのは、
見たくない」
彼は、
倉庫で働いていた、
古い作業員だった。
今回の歪みを、
直接生んだわけではない。
だが、
ずっと、
抑えてきた。
「……俺が、
悪かった」
その言葉が、
場を凍らせる。
「若い頃から、
文句ばかり言って、
何も、
変えなかった」
「怒ってるふりをして、
本当は、
何も、
向き合ってこなかった」
ユイは、
息を呑む。
レオンも、
動けない。
「……だから」
老人は、
歪みに、
一歩、
近づく。
「ここで、
終わらせてくれ」
それは、
懺悔だった。
逃げでも、
自己犠牲の美化でもない。
ただ、
自分が、
引き起こしたものに、
向き合おうとする、
意志。
「……お願いだ」
歪みが、
老人に、
絡みつく。
だが、
暴れない。
受け入れられている。
「……待って!」
ユイが、
叫ぶ。
だが、
もう、
止められない。
老人の中で、
歪みが、
静かに、
収束していく。
街を覆っていた重圧が、
少しずつ、
薄れる。
代わりに、
老人の背が、
急速に、
小さくなっていく。
感情が、
削られていく。
彼は、
生きている。
だが、
もう、
元には戻らない。
***
歪みは、
止まった。
街は、
救われた。
誰も、
叫ばない。
歓声も、
ない。
ただ、
重い沈黙が、
落ちる。
ユイは、
膝をついた。
「……こんなの……」
声にならない。
レオンは、
剣を、
地面に突き立てる。
自分は、
斬らなかった。
だが、
犠牲は、
生まれた。
「……これが」
彼は、
呟く。
「現実か」
ユイは、
顔を上げる。
「……これが、
答えじゃない」
震える声。
「でも……
答えの、
輪郭だ」
誰かが、
完全に、
犠牲になる世界は、
間違っている。
だが、
誰も、
何も、
失わない世界も、
まだ、
存在しない。
その間で、
人は、
選び続けるしかない。
恋も、
同じだ。
完璧な形は、
ない。
だが、
逃げずに、
向き合うことは、
できる。
ユイとレオンは、
言葉を交わさず、
同じ場所に立っていた。
視線の先には、
犠牲になった老人。
そして、
救われた街。
恋は、
まだ、
終わっていない。
だが、
もう、
甘いだけのものでは、
なくなっていた。
これが、
答えの、
輪郭だった。




